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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

Mr. プレジデント!(1)

3人のアメリカ大統領にそれぞれ一度づつ、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいたことがある。言葉を交わしたわけではなく、大勢いた取り巻きの一人だったけれど、どの時も深く印象に残っている。

 

ビル・クリントンは現役中から「ブラック・プレジデント」と呼ばれていた。もちろんオバマが出てくる前の話しだ。アメリカの黒人の圧倒的多数が民主党支持者だが、歴代の民主党大統領と比べて、彼がマイノリティーに対して特に寛大な政策を打ち出していたかといえばそうでもない。

ではなぜ黒人に人気があったのだろう。

おそらく波長が合ったのだ。ノリといってもいいかもしれない。

在任中にサウス・カロライナ州に遊説に来たときも、アレン大学という黒人が通う小さな大学を会場に選んだ。

同僚と場所を分けて取材することになり、私は会場の外を受け持った。夕刻、黒塗りの車の行列がキャンパスに到着した。ガラス越しにちらりと見えた彼の笑顔に、集まった群衆は歓声を上げた。

演説が終わり、一行が帰る時間になった。ふたたび車の行列が我々の前に現れたとき、辺りはすでに暗くなっていた。ダウンタウンとはいえ寂れたエリアにある大学だったので、街灯もまばらだった。

「もう撮る画もないな」と思っていたとき、車が止まり、目の前で男がひとり下車した。大統領だった。

クリントン氏は予定外の行動を起こすことで知られていた。ノリで動くのだ。この場合は「外で待ち続けてくれた支持者たちに挨拶を」という気分に突然なったのだろうか。

慌てて走り回る側近や護衛をよそに、氏は悠々と動いた。伸びてくるたくさんの手を闇の中でいつまでも握り続けた。

 

バラク・オバマを近くで見たのは、行きつけのバーだった。彼が大統領に選ばれる数ヶ月前のことだ。

その日、ノース・カロライナ州で民主党大会が行われていた。写真部の同僚たちは朝から出払っていた。

夕方になり、大会とは関係のない取材を振られた私がオフィスで作業をしていると、ボスが来て近所のバーへ急ぐように指示を出した。オバマ氏が立ち寄るという。

これも予定外の行動だったにちがいない。当時まだ大統領候補者の一人だったが、すでに選挙レースも佳境に入っていたので、スケジュールは分刻みで決められていたはずだ。本当に一杯やりたくなったのだろう。側近が地元の記者に「この辺りにいいバーはないか?」と尋ねていたらしい。

駆けつけると、バーは元々入っていた客に加えて、噂を聞きつけた人たちで溢れ返っていた。

やがて意中の人が現れた。皆騒がずにクールに装っている。でも彼の一挙一動に注目しているのがわかる。

シャツの両袖をたくしあげたオバマ氏がバーテンダーに近づいた。一体何を注文するのだろう!?

「パブスト・ブルーをくれ」 

このチョイスにはその場にいた誰もが唸ったにちがいない。

ヨーロッパのビールを頼んではエリートすぎるイメージがついてしまう。かといって国産の定番、例えばバドワイザーやミラーではダサすぎる。ウィスコンシン州生まれの、古いけれどあまり知られていない(でも一部の若者にカルト的に人気のあった)ビールを慣れた感じで注文したのだから、文句のつけようがない。

でも、これがオバマ氏の本当に好きなビールだったかどうかは疑わしい。おそらく「Obama for President」というイメージを作ってゆくなかで、彼のスタッフが熟考の末選んだ銘柄だったにちがいない。読んでいる本、好きな音楽、座右の銘… 候補者のちょとした嗜好は選挙の中に大きな注目を浴びる。

数ヶ月後、氏は大統領に当選した。その時に分析された勝因のひとつが、若い世代をターゲットにした地道な草の根キャンペーンだったことは記憶に新しい。

 

演説中のジョージ・ブッシュの近くに立つと、いかめしい顔をした護衛が近づいてきて私の真横に立った。威嚇された。

本選までまだまだ時間のある党予備選前だったので、厳しい警備があることが意外だった。そもそもタウンホール・ミィーティングという、カジュアルな雰囲気で有権者と交わるという趣旨の集まりではなかったのか。

そこでやっと彼が元大統領の息子であることに思い当たった。若いころから常に護衛がついて回るような出自なのだ。

その時のスピーチの印象から考えると、彼が共和党の指名を受けて、本選に出馬するとはとても思えなかった。まさか2期も大統領を務めることになるとは…。調子が固かったし、何よりも人前で喋るのが苦痛そうに見えたからだ。

その後キャンペーンの勢いが増すにつれて、氏のスピーチもこなれてくるのだが、途中からプレゼンにちょっとした工夫をし始めた。

自らが立てるスローガンをあしらった巨大なスクリーンを背後に設置するようになったのだ。例えば「Reformist (改革者)」とか、「Compassionate Conservative (思いやりのある保守主義)」とか。すると写真も動画も背景がすっきりするし、スローガンの一部もしくは全体が入りこんで、それっぽい画に仕上がる。

その効果を狙ってカメラマンをステージから遠ざけるようになったと言えば、深読みがすぎるだろうか (遠くから撮ると、バックはおのずと決まってしまう)。でも、その後の選挙活動や大統領就任後の演説を撮影する機会が何度かあったが、指定されるエリアと本人との距離は広がるばかりだった。

この傾向を決定的にしたのが911だった。

あのテロ以降、ブッシュ氏の取材をしたければ前日までに、新聞社の上司がスタッフの名前とソーシャル・セキュリティー・ナンバー (社会保障番号)をホワイトハウスに通達しなければならなくなった。さらに、演説の始まる3、4時間前に集合し、シークレット・サービスと爆薬物探知犬のチェックを受けなくてはならなかった。

半日待ってようやく始まる演説の撮影には、氏が遥か彼方にいるため、普段はめったに使わない500mや600mという特大の望遠レンズが必要だった。ここまで離れると、カメラマンにできることはお決まりの「それっぽい」写真を撮ること以外何もない。

 

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別れの流儀

早朝の渋谷には、平日でも朝帰りの若者がたくさんいる。週末になるとその数はさらに増える。

飲み明かした10代、20代が集団で駅へ向かう光景はなかなかだ。「楽しかったんだろうな」と思わせる者がいる一方で、完全に酔いつぶれていて「大丈夫か?」と余計な心配をさせる者もいる。

彼らは駅の改札付近で解散となるのだが、ハイタッチからお辞儀まで、別れの挨拶も色々ある。

共通しているのはその後だ。

ひとしきり言葉を交わしてからそれぞれの方向に歩き出すのだが、見ていると、かなり高い確率で双方が振り返る。そして最後にもう一度合図を交わす。

その姿は我々大人の姿と重なる。近頃の人付き合いはさっぱりしてきているとはいえ、視界から相手が消えるまで見送り、見送られる様子は今でも駅や街角でよく見かける。

別れの儀式は次世代にも受け継がれているようだ。

 

他の国の人たちはどうだろうか。

私が日本に戻る前、両親の元へアメリカ人の友人が一泊二日で訪ねていった。ふたりは片言の英語で彼を鎌倉へ案内し、自宅で夕食をふるまった。親日家の友人も手土産を持参し、覚えたての日本語を交えてコミュニケーションをとり、楽しい時間をすごした。

翌朝、母が最寄りの駅まで見送ったのだが、別れを告げ改札を通り階段を登るまでの間、彼は一度も振り返らなかったという。そのことに母はとても驚いた。

母国や親族と永遠の決別を経験している移民の末裔たちにとって、別れとはもともと堪え難きものであり、だから敢えてドライに振る舞ってその場を乗り切る… と説明したのは写真家の藤原新也だ。映画『シェーン』のラストシーンを例に挙げて、少年に名前を連呼されても決して振り返らない主人公にアメリカ人の別れの流儀を見て、彼らのタフで孤独な素性を指摘した。

その『シェーン』とは対照的に、我々『寅さん』はしみじみと別れの言葉を交わし、後ろ髪を引かれるようにして去ってゆく。

 

でもたまに、こんな光景にも出会う。

先日スクランブル交差点を渡っていると、若い男女が向こう側に見えた。

次の瞬間、男は両手をいっぱいに広げて女を力強く抱きしめた。ふたりは恋人同士には見えないが、ただの友人同士にも見えない。

彼は身体を離すと、地下道への階段を降り始めた彼女を見送らずに、反転して遠くを仰いだ。点滅している青信号を確認すると、躊躇することなく交差点を渡り始めた。

淋しそうで、それでいて覚悟を決めたような爽やかな横顔とすれ違った。

彼の他人への優しさと、孤独を引き受ける潔さを垣間見たような気がして、私は「かっこいいな」と心動かされていた。

 

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マリー・エレン・マーク (写真について 5)

先月の末、マリー・エレン・マークが亡くなった。その死を海外メディアは一斉に伝えた。こんな扱いを受ける写真家は世界に何人いるだろうか。彼女が指折りだった証拠だ。

私は彼女に一度会ったことがある。そして思いきり睨まれた。

 

アメリカ・メーン州のロックポートという港街で行われるワークショップでのこと。私はユージン・リチャーズが教える一週間のコースを履修していたのだが、同じタイミングでマーク女史も来ていた。

コース枠に関係なく聴講できる彼女のレクチャーがあり、会場は満員になった。最後に設けられたQ&Aコーナーで私は思い切って手をあげた。

「人と成り、というものについてどうお考えになりますか?」
「 ... 」

「というのも、あなたの最近の作品を見ていると、内面より外見、つまり被写体がどんな人物であるかよりも、どう見えるかの方のあまりにも重きが置かれているような気がするので… 」

「作為的なことは一切しないわ!」

質問をさえぎるようにして彼女は答えた。語気の強さに会場の空気が変わった。

「カメラで人を殴るわけじゃあるまいし」

これが最後の質問となり、気まずい雰囲気を残したまま催しが終わった。私は手を挙げたことを後悔した。

ただ帰り際、参加者の一人が近寄ってきて私にこう言った。

「何が言いたかったのかよく分かるよ。いい質問だった」

 

発表するたびに作品が話題になった彼女だが、キャリアの後半にテンションが落ちたのは明らかだった。私が一番気になったのは、双子のシリーズなど、奇を衒ったようなポートレートが当時目立って増えていたことだった。被写体の特異な外見ばかりが強調された肖像に迫力は感じなかった。ずるいとさえ思った。その批判を質問に変えて(しかも下手な英語で)ぶつけたのだから、彼女がムッとしたのも当然かもしれない。

この一件をリチャーズ氏に話すと、マーク女史についてのエピソードをひとつ語ってくれた。

ふたりともニューヨークを拠点にしているので、同じ暗室を借りていて、時折そこでばったり会うらしい。現像したばかりのネガを見せ合うこともあり、お互いの仕事を熟知しているのだが、リチャーズ氏はある傾向に気がついていた。いつの頃からか、マーク女史のネガにはまったく同じ画が延々と並ぶようになっていたという。

彼は「彼女に何かが起こったんだ」とだけ言い、それ以上は語らなかったが、私には象徴的なエピソードに聞こえた。

もちろん撮影の仕方は人それぞれなのだが、いいものをゲットしたときは撮影中にわかるものだ。被写体が動いていれば追いかけるし、アングルや絞りなどの微調整をしながら撮り続けることはある。しかし、まったく同じフレームを撮るためにシャッターを押し続けるカメラマンはいない。

彼女のような偉大な写真家が、なぜ同じ画を繰り返し撮ったのだろうか。

 

ワークショップの最終日、キャンパスでは打ち上げが開かれた。屋外でロブスターを食しながらおしゃべりをするのだが、私が座っていたテーブルにマーク女史も加わった。私に気づいた彼女は、冷たい目をこちらに向けた...ような気がした。

気のせいだったのかもしれない。私は凡百無名のカメラマンであり、彼女にとっても数多くいる生徒の一人にすぎなかったのだから。でも食事のあいだ、彼女は斜め向かいにいる私の方を決して見ようとしなかった。

私にはもうひとつ彼女に伝えたいことがあった。それは、彼女の1970年代、80年代の作品は長いあいだ私のお気に入りで、写真集を何度も何度も見返したということ。家出したアメリカの少年少女やインドのサーカス団員の写真は、被写体の息づかいが聞こえてくるような親密さに溢れていて素晴らしかった。いわゆる異端者や社会の底辺にいる人々を撮り続けたこともあり、奇才と言われたダイアン・アーバスとよく比較されたが、私はマーク女史のより温かく、よりジャーナリスティックな視点の方にずっと魅力を感じていた。

亡くなった翌日、ニューヨーク・タイムズに告知が出た。記事の中に彼女自身の言葉が紹介されていた。

「初めて写真を撮りに出たときのことを覚えているわ。フィラデルフィアの街で、通りを歩きながら見知らぬ人たちとおしゃべりをして、彼らを撮影したの。そして、すぐに思った。『素敵だわ。これなら永遠に続けられる』って。それ以来、この気持ちがぶれることはなかった」

75歳だった。

 

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サン・キル・ムーンに逢えた夜

「俺の新しいアルバムのどこがいいんだ?教えてくれ」

サン・キル・ムーンことマーク・コズレックがステージの上から尋ねた。

一瞬の沈黙の後、"Honest! (正直なところ)" と誰かが叫ぶ。

そこに "Brutally. (痛々しいほどに)" と付け加えたかったが、私に大きな声を出す度胸はない。

別の誰かが "I can relate to it. (自分のことみたいに感じる)"と言った。

声の主に向かってコズレックは年齢を尋ねる。返ってきた19歳という答えはこの気難しいアメリカ人を失望させた。フンと鼻で笑ってから、「あのアルバムにはな、46になったオレが抱えてる諸々が詰まってるんだよ」と吐き捨てるように言った。若いお前に一体何が分かるだという調子で。

でも彼は間違っている。中年の陰鬱をティーンエイジャーが直感的に理解してしまうことは可能だ。メランコリーが年齢に関係なく人に宿るということは、彼自身そのアルバムで歌っていることじゃないか。

 

「インディーロック界の重鎮、ついに初来日」という触れ込みで先月行われた、渋谷のクアトロでの一回きりのコンサート。

私はコズレックのステージをアメリカで見たことがあるが、一番印象に残ったのは演奏の合間のお喋りだった。客に絡んでくるのだ。

今回、大人しい日本人を相手に何を言い出すのか不安だったが、やり玉に上がったのは客中のオーストラリア人たちだった。「見ろよ、ジャパニーズ・ガールとデートしているデクノボウたちを」から始まって、「お前らの国はアメリカより20年遅れてる」などと案の定言いたい放題だった。

その途中で自分の新しい作品の話しになり、上記のようなやりとりがあったのだが、その時だけ急に聞く耳を持ち、客の言葉を辛抱強く待った。彼はファンが自分の新譜をどう受け止めているのか本当に知りたがっていた。

 

アルバム『ベンジー』は異質だ。自身のバンドであるレッド・ハウス・ペインターの解散以来、十数年間ずっと貫いてきたスタイルが大きく変わった。静謐でなめらかなアコースティック・ギターに荒々しさが加わり、抑えの効いた透明感のあるボーカルは擦れ、ところどころでブレている。

内省的なフォーク・ロックであることに変わりはないのだが、アプローチの違いは明らかで、これまで積み上げてきたものを壊すような方向性には驚かされる。

『ベンジー』はピッチフォークという影響力のある音楽メディアから絶賛されているが、それについて本人は「おまえらあのレビューに洗脳されたんじゃないか?」なんて皮肉を言い、素直に受け止めているようにはとても見えない。

ドラム・スティックを片手に叫ぶようにして歌ったその夜のステージを見ていると (ギターよりもドラムを叩いている時間の方が長かった)、かなり苛ついているようにも感じた。ひょっとしたら彼は、このアルバムが受けている思いがけない高評価に混乱しているのかもしれない。

 

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

初めて遊びに行ったのは、彼女がロスに住んでいたころ。確かハンティントン・パークだった。

マルセロとかサイラス・ハントっていう奴らと友達になったんだ。

ダウンタウンでアイスクリームを食べて、ポテトフライを鳩にあげたり、ベトナム帰りの傷痍軍人と喋ったり。

ハチドリやヤシの木やトカゲを初めて見た。海もそう。

デビッド・ボウイの『ヤング アメリカンズ』を聴いたのも、『ベンジー』を映画館で観たのもこのときだった。

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

すごく苦労したらしい。

でも最初の旦那が死んだ後、カルフォルニアの男と出会って彼がとてもよくしてくれた。

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

62歳でガンを宣告された。

彼女の子供たちが面倒をみて、きちんと最後まで看取ったんだ。

 

アルバム中で私が一番好きな曲、『Micheline』の3番の歌詞の後半だ。1番で近所の知的障害の少女・マケリーンについて語り、2番で昔のバンド仲間・ブレットについて語る。二人とも「おばあちゃん」同様この世にはいない。マケリーンは成人した後に悪人の親子に騙され、最後は彼らに殺されたことが示唆されるし、動脈瘤を煩っていたブレットも妻子を残して亡くなってしまった。

人が年齢を重ねることとは、周りの者が逝ってしまうことだと言わんばかりに執拗に死者たちのことを取り上げる。火事で不慮の死をとげた再従姉妹の歌で始まり、アルバムが終わるまでの11曲の間に両手で数えきれない程の人間がこの世からいなくなる。

それが必ずしも暗く響かないのは、そのことを受け止めてなお生きていこうとするコズレックの意志が伝わってくるからだ。照れることなく披露している両親と姉への愛情もいい。

以前にも増して独白調になった歌詞は、まるで酒場でする身の上話みたいにも聞こえるが、それこそドキッとするくらいに "Honest" なのでつい聞き耳を立ててしまう。演奏も声も完成度は落ちているのに歌詞に鬼気迫る凄みがあって、それがアルバムの核になっている。

 

これを評価するかは好みの問題だろう。飲み屋に例えれば、結局彼が入り浸っているのは大衆酒場でもお洒落なカフェでもなく、裏通りにある目立たないバーなのだ。そして、例えそのバーに足を踏み入れたとしても、カウンターに居座ってくだを巻いている中年男にはちょっと近寄り難い。

ちなみにその夜彼が観客に向かってついた悪態のひとつが、「今夜のことをせいぜいブログにでも書くんだな」だった。両手を胸の前にかざしてタイプする真似をして、表現のはけ口がそれ位しかない私のような者を揶揄して笑ったのだ。

書いたよ、コズレック。この糞野郎。

 

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Happiness Is A Warm Gun

先日、見たくないものを目撃した。

近所の大通りを駅に向かっていると、目の前をゆっくりと歩いているお婆さんがいた。傍らには孫娘らしきよちよち歩きの年の頃3、4歳の女の子。すると、ふたりの横に一台の業務用トラックが信号待ちのため停まった。助手席から一人の男の顔が覗いている。20代後半、あるいは30代前半だろうか。ごく普通のなりなのに、目つきが尋常でなかった。誰にも見られていないと思っていたのか、興奮を隠しきれない様子で、口元を緩めたまま少女を舐め回すように眺めている。

後ろから通りかかっただけの私だが、その様子を見ているうちに不快感がこみ上げてきて、トラックの横を通るときに送った彼への視線は鋭いものになった。気づいた彼は慌てて視線を外した。

私はそのまま歩き続けた。ただ信号が青になればトラックは再び追い越してゆくので、男ともう一度すれ違うことになる。不意をついて睨みつけた私に、彼は何か言ってくるだろうか。車から降りて食ってかかってくるだろうか。

ディーゼル音が近づいてきた頃を見計らって振り向くと、男はやはりこちらを見ていたが、その視線は弱々しかった。拗ねたような表情をちらりと見せて、すぐにまた目を反らした。トラックは速度を増して遠ざかった。

 

男を幼児性愛者と決めつけてはいけない。それは分かっている。でもあの目つきを見たらそう疑わずにはいられなかった。

もし彼が「見ていたのは少女じゃなくて、お婆さんの方だ」と弁明してくれたら、私の気持ちはどれだけ楽になったことだろう。他人の性の指向なぞ知ったことではないし、どんな性愛だってありだと思っている。当事者たちの合意で行われる限り。

そして、相手が子供でない限り。

現在の日本の性的同意年齢は男女共に13歳と低いが、青少年保護育成条例によって、既婚者を除く18歳未満の男女との淫行やわいせつ行為には刑事処罰が課せられる。一昔前に比べれば、子供を性の暴力から守る法律は整っている。

 

その一方で、ペディファイラー、つまり幼児や少年少女に性的に欲情する人間がいることも分かっている。

アメリカでもペディファイラーにどう対応すべきかの議論は耳にした。州によって違うが、一度でも法に触れる行為(児童ポルノの所有を含む)に及べば、登録を義務づけ、その情報を公にしているところが多い。自分の住む地域のどこに前科者が住んでいるか、調べればすぐに分かるようにしているのだ。

すると一度の過ちで烙印を押され、更正の道が閉ざされるので畢竟、人権の問題になるのだが、「こればかりは仕方ない」という雰囲気が少なからずあった。この国には珍しくそれに抗う声も小さかった。

 

私も普段からマジョリティーの側に立って安易に物を考えたり言ったりしないよう気をつけているのに、それらしい男を見かけただけで反射的に憎悪の視線を送るのだから、この件については抑制が効いていない。

どんなに美しい文体だという評判を聞いてもナバコフの「ロリータ」は読み進めることができないし、阿部和重の小説群もどうも評価する気になれない。阿部が一筋縄ではいかない優れた作家であることは分かるが、少女趣味の変態中年男(時には警官だったりする)が繰り返し出てくると、作家の意図を考える前に胸糞が悪くなってしまう。

人間の性癖の分析や、治療の可能性、そして何より犯罪の防止のために冷静な議論が求められるべきなのに、どうやら私にはそれができないらしい。制裁する側に加わる気は更々ないのに、不審者を片端から告発してしまいそうな勢いの自分がいる。

あの男が最後に一瞬見せた、拗ねたような暗い表情が目に焼きついている。

仮に私の疑念が当たっていて、彼にその傾向があるのなら、妄想は妄想に留め、カウンセリングなどの治療を受ける努力をして、決して行為に及ばないこと切に願う。取り返しのつかない暴力をふるわないことを。

 

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皆殺しのバラード

街角で見かけたポスターのタイトルだ。落ち窪んだ眼をした白髪混じりの男が歌っている。あるミュージシャンのドキュメンタリー映画だという。

私はそこで初めて山口富士男の死を知った。

1960年代の「ザ・ダイナマイツ」、70代の「村八分」、そして80年代の「ティアドロップス」。メインストリームからは程遠かったが、時代時代で常に影響力を持つバンドを率いてきた日本を代表するロックンローラーだ。

しかし私にとっての山口富士男は、ソロ・アーティストとしての存在が一番大きい。というのも、大学生の頃友人がくれた「PRIVATE SESSION」のテープが長い間私のお気に入りだったからだ。「錆びた扉」で始まるアコースティック・セッションはとびきりかっこよかった。

寂しさに暮れているのに潔く、優しさに満ちているのに尖っている。確かに彼の歌には心をえぐる鋭さがあった。

結局私は劇場公開を見逃すのだが、ネットで予告編を見ると、この映画は彼の晩年のコンサートを撮ったものだという。キース・リチャーズ風のよれっとした趣でギターを弾き、べらんめえ調で歌い、ステージから客に罵声を浴びせる。楽屋裏でも誰かに絡んでいた。

どうやら彼は年を取っても怒れる男で居続けたらしい。

 

その正反対、つまり孫を可愛がり、趣味を嗜み、いつも穏やかで人の手を煩わせないというのが日本における理想の老人の典型だろうか。

でもそれも軽薄だ。「足るを知る」という静かな生き方を若いころから実践してきたのならわかるが、大抵の人は欲望に従順に生きてきたのに、年を取って急に好好爺然とし始める。病気したり引退した途端に禅の本を買い求め、インスタントに悟りを開くなんてちょっと猾くないか。

かといって、いつまでもわがままを貫いて周りに迷惑かけっぱなしというのもみっともないけれど。

20代の頃、自分が中年になったら何を考えているか想像つかなかったように、今の自分に、将来どんな老人になるのかはわからない(長生きしたらの話しだけど)。今年80歳になる自分の父親を見ていると、好好爺が顔を出す日もあれば、まだまだ現役だと自己主張する日もある。

たぶん人は心情的にその両極の狭間を行きつ戻りつ暮らすのではないか。いつか来る、迫りつつある終わりが穏やかであることを願いながら。

 

山口の終わりはちっとも穏やかでなかった。

新聞によると、昨年の7月15日の深夜、彼は横田基地のある東京福生市のタクシー乗り場にいた。その場にいた会社員が女性に道を教えていたところ、女性と面識のある米国軍人とその息子が通りかかった。二人は彼女が絡まれていると勘違いして会社員を殴りつけたという(変な話しだ。本当だろうか)。もみ合いに参加した山口は、息子の方に突き飛ばされて頭部を地面に強打し、脳挫傷を起こす。そして一ヶ月後に病院で死亡した。

仲裁に入ったのか、加担しようとしたのか、あるいは挑発したのか。記事からは事の詳細は不明だ。

ただ突き飛ばされる一瞬前の彼の形相は想像できる。「てめえふざけるな」とか「ファック・オフ」とか叫びながら、凄い眼をして、自分の倍はあろうアメリカ人に歯向かっていったにちがいない。

ケンカによる不慮の死。悲しい結末だ。でも失礼を承知で言わせてもらえば、長患いの末亡くなったり、事故でもお決まりのドラッグのオーバードースで逝ってしまうより、ずっと彼らしいような気がする。享年64だった。

胸に刺さる歌をありがとう。

 

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