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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ふたりの花嫁

気がつくと、目の前で花嫁が歌っていた。

テレビの前で寝落ちしていたのだが、画面の中の女はスポットライトを浴びて熱唱していて、なぜかド派手なウェディングドレスを着ている。浜崎あゆみという歌手らしい。

純白のドレスを身に纏ってロックンロールを歌う... という演出なのだろうか。その歌にどんなメッセージがあるのか、一体どんな効果を狙っているのか、寝ぼけた頭を醒まして歌に聞き入ってもさっぱりわからず、妙な違和感だけが残った。

 

アメリカで出会った、ある若いアーティストを思い出す。

4、5年前、大学のキャンパスで会ったとき、彼女はウェディングドレスを着ていた。挙式当日だったわけではない。ウェディングドレスを普段着として着用するというプロジェクトの真っ最中だったのだ。

日常に非日常を持ち込むという一種のパフォーミング・アートなのだが、晴れ着とは何かという問いでもあり、慣例への反逆でもあり、「純白のドレス」が喚起するイメージへの異議申し立てでもある。

彼女はドレスを一年間着続けることを自分に課していた。

 

外出時、例えばスーパーのレジに並んでいると、訳を知りたくて近寄ってくる者から、頭のおかしい女とみなして敬遠する者まで、反応は色々らしい。カメラマンでもある彼女のボーイフレンドがついて行き、その様子を写真に記録していた。

興味を持つ人(なぜか女性が多いとのこと)にプロジェクトの趣旨を説明すると、面白がる者もいたが、眉をひそめる者も沢山いたという。

私が彼女を見たのは、プロジェクトを始めて数ヶ月しか経っていない時だったが、すでにドレスは汚れが目立ち、いくつかのほころびがあった。それもステイトメントの一部で、ドレスは最終的に写真と一緒に展示する予定だと言っていた。

 

あのプロジェクトは最後まで続いたのだろうか。

なんとなく頓挫したような気がするのは、「周囲の殊の外重い反応が疲れる」と彼女が口にしていたからだ。

因みにこのアーティストも、浜崎あゆみも、自己表現の一部にウェディングドレスを使ったということになるが、ふたつの行為には隔世の感がある。

一方が文字通り「体を張った」パフォーマンスだけに、もう一方は分が悪い。

比べるものでもないかもしれないし、だいたい私は浜崎あゆみという歌手についても、彼女の作品についても何も知らない。

ただ、私が踏んでいるように、あれが「カワイイ」とか「カッコイイ」という理由による単なる演出なのだとしたら、その軽さが妙にむかつく。

 

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Mr. プレジデント!(2)

急な動きをしない。これはアメリカの大統領、副大統領、そして彼らの家族を取材するときの鉄則だ。

同僚のジェフ・ウィルキンソンは、そのことを忘れていたらしい。当時の副大統領夫人、ティッパー・ゴアのインタビューを終えた後、聞き忘れた質問があることに気がついた彼は、歩き去る彼女の背中に「ミス・ゴア!」と声をかけ走りかけた。

次の瞬間、激しい形相の護衛二人に行く手を阻まれた。襟首を掴まれそうな勢いだった。

今しがたインタビューしていた記者に対してこの反応だ。シークレット・サービスのエージェントのテンションの高さは尋常じゃない。

でもこの過剰な警護を世間は容認している節がある。ジェフの場合も、乱暴に取り押さえられなくてラッキーだったというのが同僚たちの見立てだった。

なぜだろう?

 

ケネディ、そしてレーガン。彼らが銃弾に倒れる映像は日本人の私でも何度も繰り返し見ている。アメリカ人ならすぐ思い浮かべられるシーンだろう。加えて、大統領暗殺をモチーフにした膨大な量の小説やTVドラマや映画… 

ひょっとすると、国のリーダーを暴力によって失うという悪夢は、アメリカ人のコレクティブ・メモリーの一部になっているのかもしれない。あるいは潜在的な恐れになっている。そう考えると、大統領が市井の人間と交わる時の異様な興奮も説明がつく。

つまり、熱狂のただ中で、人々は一抹の不安を持っている。何かが起きるかもしれない、目の前の風景が暗転するかもしれないという悲劇の予感が、奇妙な高揚感を生んでいるのではないだろうか。

 

警護する人間は目立つ必要はなく、むしろ群衆に紛れた方が仕事はやりやすいはずなのに、エージェントたちの姿は一目瞭然だ。

でもそこは、過剰な演劇性が伴うアメリカの政治だ。お決まりの格好でテンパっている彼らは、大統領演説というプレミアムな舞台に不可欠な役者でもある。(ちなみにシークレット・サービス=白人男性というイメージが強いかもしれないが、アジア系を含めた有色人種や女性のエージェントもいる。きちんとポリティカリー・コレクトのイメージを打ち出しているあたりにも、見られていることを充分に意識していることがうかがえる)

クリントン、ブッシュ、オバマの3氏を合わせると、大統領の演説を十数回は取材したが、エージェントたちの仕事ぶりは見事だった。素人目に見ても、前回のエントリーでふれた事前チェックを含めて、警護の体勢は完璧だった。

いいアングルを求めて椅子の上に立ったり、所定の位置を出そうになるとエージェントたちの刺すような視線を浴びた。小走りなんてとんでもない。待ち時間に彼らに話しかけたことがあるが、いつも完全に無視された。この国で人に話しかけて無視されるなんてありえないのに。

 

でも一度だけ、彼らのずさんな対応を目の当たりにしたことがある。

ジョージ・ブッシュのサウス・カロライナ州遊説の取材で、空港での到着・出発を担当したことがあった。事情は忘れたが、その日は地元空港の奥にある人目につかない滑走路を使用することになっていた。

厳しい荷物と身体のチェックを受けてから、テレビとスチールのカメラマン5、6人が空港の敷地内に通された。滑走路の脇にすでに設置されてあった、農業用の荷台のようなものに登れという指示を受ける。そこから大統領と大統領夫人を撮影する算段だった。

エア・フォース・ワンが到着して、夫妻が姿を見せた。タラップの下に地元の議員たちが来ていたが、一般人の出迎えはなかったので、二人が遠くを見て手を振ったのはカメラマンのために行った演技だ

夫妻がタラップを降りて、数人の手を握り、黒塗りの車に乗り込んだところでその日の仕事の半分が終わった。後は彼らが戻ってくるところを撮影するだけだ。ただそれまで数時間あったので、我々はいったん空港の外に出た。

 

午後遅く、指定の場所に戻ったときのことだ。

エージェントが先頭のカメラマンの荷物チェックを始めたのだが、朝と同じ顔ぶれということがわかると、いかにも面倒くさいという様子になり、そのまま全員を空港内に招き入れてしまった。

私を含めた残りのカメラマンが、検査を受けずにチェック・ポイントを通ったことになる。つまり、誰かが武器を隠し持っていたとしてもわからなかった。

可能性がゼロという話ではないだろう。報道に携わる者に過激な思想の持ち主がいないとは限らないし、場合によっては記者証そのものが信用できないということもあるはずだ。2度目のチェックが甘いことを見込んで、拳銃や爆弾の持ち込みを図る者がいてもおかしくない。

荷台で一行の到着を待っているあいだ、私は妄想の世界に入ってしまった。

「もし私がピストルを持っていたら、どうなるのだろう?」

荷台の両端に一人づつエージェントが配置されてたが、彼らは飛行機寄りに立っていた。つまり我々カメラマンの動きは視野に入っていない。さらに飛行機の周りに4、5人のエージェントがこちら向きにポジションをとっていたが、距離にして20メートル以上はあった。

カメラマンが突然カメラを武器に持ち替えたら、瞬時に反応できるのだろうか? そんなことを考えているうちに、夫妻が到着した。

タラップをゆっくり登り、登りきったところで振り返る。笑みをたたえながら手を振った瞬間、連続でシャッターを切った。

 

皆が緊張感から解放されるのは、飛行機の離陸を見届けてからだ。

我々カメラマンはオフィスに電話を入れ、同行しなかったエージェントたちは撤退の準備を始めている。

荷台から降りるとき、背後の空港事務所のビルの屋上に人影があることに気がついた。よく見ると、スナイパーが二人、ライフルを手に談笑していた。

私はそこでようやく納得した。

この広いエリアを彼らがどう俯瞰していたのか知る由もないが、カメラマンの一人が不審な動きをしたら、すぐに察知した事だろう。まして、カメラ以外の飛び道具を手にしたとしたら、間髪を入れずに頭を打ち抜いていたに違いない。

 

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Mr. プレジデント!(1)

3人のアメリカ大統領にそれぞれ一度づつ、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいたことがある。言葉を交わしたわけではなく、大勢いた取り巻きの一人だったけれど、どの時も深く印象に残っている。

 

ビル・クリントンは現役中から「ブラック・プレジデント」と呼ばれていた。もちろんオバマが出てくる前の話しだ。アメリカの黒人の圧倒的多数が民主党支持者だが、歴代の民主党大統領と比べて、彼がマイノリティーに対して特に寛大な政策を打ち出していたかといえばそうでもない。

ではなぜ黒人に人気があったのだろう。

おそらく波長が合ったのだ。ノリといってもいいかもしれない。

在任中にサウス・カロライナ州に遊説に来たときも、アレン大学という黒人が通う小さな大学を会場に選んだ。

同僚と場所を分けて取材することになり、私は会場の外を受け持った。夕刻、黒塗りの車の行列がキャンパスに到着した。ガラス越しにちらりと見えた彼の笑顔に、集まった群衆は歓声を上げた。

演説が終わり、一行が帰る時間になった。ふたたび車の行列が我々の前に現れたとき、辺りはすでに暗くなっていた。ダウンタウンとはいえ寂れたエリアにある大学だったので、街灯もまばらだった。

「もう撮る画もないな」と思っていたとき、車が止まり、目の前で男がひとり下車した。大統領だった。

クリントン氏は予定外の行動を起こすことで知られていた。ノリで動くのだ。この場合は「外で待ち続けてくれた支持者たちに挨拶を」という気分に突然なったのだろうか。

慌てて走り回る側近や護衛をよそに、氏は悠々と動いた。伸びてくるたくさんの手を闇の中でいつまでも握り続けた。

 

バラク・オバマを近くで見たのは、行きつけのバーだった。彼が大統領に選ばれる数ヶ月前のことだ。

その日、ノース・カロライナ州で民主党大会が行われていた。写真部の同僚たちは朝から出払っていた。

夕方になり、大会とは関係のない取材を振られた私がオフィスで作業をしていると、ボスが来て近所のバーへ急ぐように指示を出した。オバマ氏が立ち寄るという。

これも予定外の行動だったにちがいない。当時まだ大統領候補者の一人だったが、すでに選挙レースも佳境に入っていたので、スケジュールは分刻みで決められていたはずだ。本当に一杯やりたくなったのだろう。側近が地元の記者に「この辺りにいいバーはないか?」と尋ねていたらしい。

駆けつけると、バーは元々入っていた客に加えて、噂を聞きつけた人たちで溢れ返っていた。

やがて意中の人が現れた。皆騒がずにクールに装っている。でも彼の一挙一動に注目しているのがわかる。

シャツの両袖をたくしあげたオバマ氏がバーテンダーに近づいた。一体何を注文するのだろう!?

「パブスト・ブルーをくれ」 

このチョイスにはその場にいた誰もが唸ったにちがいない。

ヨーロッパのビールを頼んではエリートすぎるイメージがついてしまう。かといって国産の定番、例えばバドワイザーやミラーではダサすぎる。ウィスコンシン州生まれの、古いけれどあまり知られていない(でも一部の若者にカルト的に人気のあった)ビールを慣れた感じで注文したのだから、文句のつけようがない。

でも、これがオバマ氏の本当に好きなビールだったかどうかは疑わしい。おそらく「Obama for President」というイメージを作ってゆくなかで、彼のスタッフが熟考の末選んだ銘柄だったにちがいない。読んでいる本、好きな音楽、座右の銘… 候補者のちょとした嗜好は選挙の中に大きな注目を浴びる。

数ヶ月後、氏は大統領に当選した。その時に分析された勝因のひとつが、若い世代をターゲットにした地道な草の根キャンペーンだったことは記憶に新しい。

 

演説中のジョージ・ブッシュの近くに立つと、いかめしい顔をした護衛が近づいてきて私の真横に立った。威嚇された。

本選までまだまだ時間のある党予備選前だったので、厳しい警備があることが意外だった。そもそもタウンホール・ミィーティングという、カジュアルな雰囲気で有権者と交わるという趣旨の集まりではなかったのか。

そこでやっと彼が元大統領の息子であることに思い当たった。若いころから常に護衛がついて回るような出自なのだ。

その時のスピーチの印象から考えると、彼が共和党の指名を受けて、本選に出馬するとはとても思えなかった。まさか2期も大統領を務めることになるとは…。調子が固かったし、何よりも人前で喋るのが苦痛そうに見えたからだ。

その後キャンペーンの勢いが増すにつれて、氏のスピーチもこなれてくるのだが、途中からプレゼンにちょっとした工夫をし始めた。

自らが立てるスローガンをあしらった巨大なスクリーンを背後に設置するようになったのだ。例えば「Reformist (改革者)」とか、「Compassionate Conservative (思いやりのある保守主義)」とか。すると写真も動画も背景がすっきりするし、スローガンの一部もしくは全体が入りこんで、それっぽい画に仕上がる。

その効果を狙ってカメラマンをステージから遠ざけるようになったと言えば、深読みがすぎるだろうか (遠くから撮ると、バックはおのずと決まってしまう)。でも、その後の選挙活動や大統領就任後の演説を撮影する機会が何度かあったが、指定されるエリアと本人との距離は広がるばかりだった。

この傾向を決定的にしたのが911だった。

あのテロ以降、ブッシュ氏の取材をしたければ前日までに、新聞社の上司がスタッフの名前とソーシャル・セキュリティー・ナンバー (社会保障番号)をホワイトハウスに通達しなければならなくなった。さらに、演説の始まる3、4時間前に集合し、シークレット・サービスと爆薬物探知犬のチェックを受けなくてはならなかった。

半日待ってようやく始まる演説の撮影には、氏が遥か彼方にいるため、普段はめったに使わない500mや600mという特大の望遠レンズが必要だった。ここまで離れると、カメラマンにできることはお決まりの「それっぽい」写真を撮ること以外何もない。

 

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別れの流儀

早朝の渋谷には、平日でも朝帰りの若者がたくさんいる。週末になるとその数はさらに増える。

飲み明かした10代、20代が集団で駅へ向かう光景はなかなかだ。「楽しかったんだろうな」と思わせる者がいる一方で、完全に酔いつぶれていて「大丈夫か?」と余計な心配をさせる者もいる。

彼らは駅の改札付近で解散となるのだが、ハイタッチからお辞儀まで、別れの挨拶も色々ある。

共通しているのはその後だ。

ひとしきり言葉を交わしてからそれぞれの方向に歩き出すのだが、見ていると、かなり高い確率で双方が振り返る。そして最後にもう一度合図を交わす。

その姿は我々大人の姿と重なる。近頃の人付き合いはさっぱりしてきているとはいえ、視界から相手が消えるまで見送り、見送られる様子は今でも駅や街角でよく見かける。

別れの儀式は次世代にも受け継がれているようだ。

 

他の国の人たちはどうだろうか。

私が日本に戻る前、両親の元へアメリカ人の友人が一泊二日で訪ねていった。ふたりは片言の英語で彼を鎌倉へ案内し、自宅で夕食をふるまった。親日家の友人も手土産を持参し、覚えたての日本語を交えてコミュニケーションをとり、楽しい時間をすごした。

翌朝、母が最寄りの駅まで見送ったのだが、別れを告げ改札を通り階段を登るまでの間、彼は一度も振り返らなかったという。そのことに母はとても驚いた。

母国や親族と永遠の決別を経験している移民の末裔たちにとって、別れとはもともと堪え難きものであり、だから敢えてドライに振る舞ってその場を乗り切る… と説明したのは写真家の藤原新也だ。映画『シェーン』のラストシーンを例に挙げて、少年に名前を連呼されても決して振り返らない主人公にアメリカ人の別れの流儀を見て、彼らのタフで孤独な素性を指摘した。

その『シェーン』とは対照的に、我々『寅さん』はしみじみと別れの言葉を交わし、後ろ髪を引かれるようにして去ってゆく。

 

でもたまに、こんな光景にも出会う。

先日スクランブル交差点を渡っていると、若い男女が向こう側に見えた。

次の瞬間、男は両手をいっぱいに広げて女を力強く抱きしめた。ふたりは恋人同士には見えないが、ただの友人同士にも見えない。

彼は身体を離すと、地下道への階段を降り始めた彼女を見送らずに、反転して遠くを仰いだ。点滅している青信号を確認すると、躊躇することなく交差点を渡り始めた。

淋しそうで、それでいて覚悟を決めたような爽やかな横顔とすれ違った。

彼の他人への優しさと、孤独を引き受ける潔さを垣間見たような気がして、私は「かっこいいな」と心動かされていた。

 

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マリー・エレン・マーク (写真について 5)

先月の末、マリー・エレン・マークが亡くなった。その死を海外メディアは一斉に伝えた。こんな扱いを受ける写真家は世界に何人いるだろうか。彼女が指折りだった証拠だ。

私は彼女に一度会ったことがある。そして思いきり睨まれた。

 

アメリカ・メーン州のロックポートという港街で行われるワークショップでのこと。私はユージン・リチャーズが教える一週間のコースを履修していたのだが、同じタイミングでマーク女史も来ていた。

コース枠に関係なく聴講できる彼女のレクチャーがあり、会場は満員になった。最後に設けられたQ&Aコーナーで私は思い切って手をあげた。

「人と成り、というものについてどうお考えになりますか?」
「 ... 」

「というのも、あなたの最近の作品を見ていると、内面より外見、つまり被写体がどんな人物であるかよりも、どう見えるかの方のあまりにも重きが置かれているような気がするので… 」

「作為的なことは一切しないわ!」

質問をさえぎるようにして彼女は答えた。語気の強さに会場の空気が変わった。

「カメラで人を殴るわけじゃあるまいし」

これが最後の質問となり、気まずい雰囲気を残したまま催しが終わった。私は手を挙げたことを後悔した。

ただ帰り際、参加者の一人が近寄ってきて私にこう言った。

「何が言いたかったのかよく分かるよ。いい質問だった」

 

発表するたびに作品が話題になった彼女だが、キャリアの後半にテンションが落ちたのは明らかだった。私が一番気になったのは、双子のシリーズなど、奇を衒ったようなポートレートが当時目立って増えていたことだった。被写体の特異な外見ばかりが強調された肖像に迫力は感じなかった。ずるいとさえ思った。その批判を質問に変えて(しかも下手な英語で)ぶつけたのだから、彼女がムッとしたのも当然かもしれない。

この一件をリチャーズ氏に話すと、マーク女史についてのエピソードをひとつ語ってくれた。

ふたりともニューヨークを拠点にしているので、同じ暗室を借りていて、時折そこでばったり会うらしい。現像したばかりのネガを見せ合うこともあり、お互いの仕事を熟知しているのだが、リチャーズ氏はある傾向に気がついていた。いつの頃からか、マーク女史のネガにはまったく同じ画が延々と並ぶようになっていたという。

彼は「彼女に何かが起こったんだ」とだけ言い、それ以上は語らなかったが、私には象徴的なエピソードに聞こえた。

もちろん撮影の仕方は人それぞれなのだが、いいものをゲットしたときは撮影中にわかるものだ。被写体が動いていれば追いかけるし、アングルや絞りなどの微調整をしながら撮り続けることはある。しかし、まったく同じフレームを撮るためにシャッターを押し続けるカメラマンはいない。

彼女のような偉大な写真家が、なぜ同じ画を繰り返し撮ったのだろうか。

 

ワークショップの最終日、キャンパスでは打ち上げが開かれた。屋外でロブスターを食しながらおしゃべりをするのだが、私が座っていたテーブルにマーク女史も加わった。私に気づいた彼女は、冷たい目をこちらに向けた...ような気がした。

気のせいだったのかもしれない。私は凡百無名のカメラマンであり、彼女にとっても数多くいる生徒の一人にすぎなかったのだから。でも食事のあいだ、彼女は斜め向かいにいる私の方を決して見ようとしなかった。

私にはもうひとつ彼女に伝えたいことがあった。それは、彼女の1970年代、80年代の作品は長いあいだ私のお気に入りで、写真集を何度も何度も見返したということ。家出したアメリカの少年少女やインドのサーカス団員の写真は、被写体の息づかいが聞こえてくるような親密さに溢れていて素晴らしかった。いわゆる異端者や社会の底辺にいる人々を撮り続けたこともあり、奇才と言われたダイアン・アーバスとよく比較されたが、私はマーク女史のより温かく、よりジャーナリスティックな視点の方にずっと魅力を感じていた。

亡くなった翌日、ニューヨーク・タイムズに告知が出た。記事の中に彼女自身の言葉が紹介されていた。

「初めて写真を撮りに出たときのことを覚えているわ。フィラデルフィアの街で、通りを歩きながら見知らぬ人たちとおしゃべりをして、彼らを撮影したの。そして、すぐに思った。『素敵だわ。これなら永遠に続けられる』って。それ以来、この気持ちがぶれることはなかった」

75歳だった。

 

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サン・キル・ムーンに逢えた夜

「俺の新しいアルバムのどこがいいんだ?教えてくれ」

サン・キル・ムーンことマーク・コズレックがステージの上から尋ねた。

一瞬の沈黙の後、"Honest! (正直なところ)" と誰かが叫ぶ。

そこに "Brutally. (痛々しいほどに)" と付け加えたかったが、私に大きな声を出す度胸はない。

別の誰かが "I can relate to it. (自分のことみたいに感じる)"と言った。

声の主に向かってコズレックは年齢を尋ねる。返ってきた19歳という答えはこの気難しいアメリカ人を失望させた。フンと鼻で笑ってから、「あのアルバムにはな、46になったオレが抱えてる諸々が詰まってるんだよ」と吐き捨てるように言った。若いお前に一体何が分かるだという調子で。

でも彼は間違っている。中年の陰鬱をティーンエイジャーが直感的に理解してしまうことは可能だ。メランコリーが年齢に関係なく人に宿るということは、彼自身そのアルバムで歌っていることじゃないか。

 

「インディーロック界の重鎮、ついに初来日」という触れ込みで先月行われた、渋谷のクアトロでの一回きりのコンサート。

私はコズレックのステージをアメリカで見たことがあるが、一番印象に残ったのは演奏の合間のお喋りだった。客に絡んでくるのだ。

今回、大人しい日本人を相手に何を言い出すのか不安だったが、やり玉に上がったのは客中のオーストラリア人たちだった。「見ろよ、ジャパニーズ・ガールとデートしているデクノボウたちを」から始まって、「お前らの国はアメリカより20年遅れてる」などと案の定言いたい放題だった。

その途中で自分の新しい作品の話しになり、上記のようなやりとりがあったのだが、その時だけ急に聞く耳を持ち、客の言葉を辛抱強く待った。彼はファンが自分の新譜をどう受け止めているのか本当に知りたがっていた。

 

アルバム『ベンジー』は異質だ。自身のバンドであるレッド・ハウス・ペインターの解散以来、十数年間ずっと貫いてきたスタイルが大きく変わった。静謐でなめらかなアコースティック・ギターに荒々しさが加わり、抑えの効いた透明感のあるボーカルは擦れ、ところどころでブレている。

内省的なフォーク・ロックであることに変わりはないのだが、アプローチの違いは明らかで、これまで積み上げてきたものを壊すような方向性には驚かされる。

『ベンジー』はピッチフォークという影響力のある音楽メディアから絶賛されているが、それについて本人は「おまえらあのレビューに洗脳されたんじゃないか?」なんて皮肉を言い、素直に受け止めているようにはとても見えない。

ドラム・スティックを片手に叫ぶようにして歌ったその夜のステージを見ていると (ギターよりもドラムを叩いている時間の方が長かった)、かなり苛ついているようにも感じた。ひょっとしたら彼は、このアルバムが受けている思いがけない高評価に混乱しているのかもしれない。

 

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

初めて遊びに行ったのは、彼女がロスに住んでいたころ。確かハンティントン・パークだった。

マルセロとかサイラス・ハントっていう奴らと友達になったんだ。

ダウンタウンでアイスクリームを食べて、ポテトフライを鳩にあげたり、ベトナム帰りの傷痍軍人と喋ったり。

ハチドリやヤシの木やトカゲを初めて見た。海もそう。

デビッド・ボウイの『ヤング アメリカンズ』を聴いたのも、『ベンジー』を映画館で観たのもこのときだった。

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

すごく苦労したらしい。

でも最初の旦那が死んだ後、カルフォルニアの男と出会って彼がとてもよくしてくれた。

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

62歳でガンを宣告された。

彼女の子供たちが面倒をみて、きちんと最後まで看取ったんだ。

 

アルバム中で私が一番好きな曲、『Micheline』の3番の歌詞の後半だ。1番で近所の知的障害の少女・マケリーンについて語り、2番で昔のバンド仲間・ブレットについて語る。二人とも「おばあちゃん」同様この世にはいない。マケリーンは成人した後に悪人の親子に騙され、最後は彼らに殺されたことが示唆されるし、動脈瘤を煩っていたブレットも妻子を残して亡くなってしまった。

人が年齢を重ねることとは、周りの者が逝ってしまうことだと言わんばかりに執拗に死者たちのことを取り上げる。火事で不慮の死をとげた再従姉妹の歌で始まり、アルバムが終わるまでの11曲の間に両手で数えきれない程の人間がこの世からいなくなる。

それが必ずしも暗く響かないのは、そのことを受け止めてなお生きていこうとするコズレックの意志が伝わってくるからだ。照れることなく披露している両親と姉への愛情もいい。

以前にも増して独白調になった歌詞は、まるで酒場でする身の上話みたいにも聞こえるが、それこそドキッとするくらいに "Honest" なのでつい聞き耳を立ててしまう。演奏も声も完成度は落ちているのに歌詞に鬼気迫る凄みがあって、それがアルバムの核になっている。

 

これを評価するかは好みの問題だろう。飲み屋に例えれば、結局彼が入り浸っているのは大衆酒場でもお洒落なカフェでもなく、裏通りにある目立たないバーなのだ。そして、例えそのバーに足を踏み入れたとしても、カウンターに居座ってくだを巻いている中年男にはちょっと近寄り難い。

ちなみにその夜彼が観客に向かってついた悪態のひとつが、「今夜のことをせいぜいブログにでも書くんだな」だった。両手を胸の前にかざしてタイプする真似をして、表現のはけ口がそれ位しかない私のような者を揶揄して笑ったのだ。

書いたよ、コズレック。この糞野郎。

 

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