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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ナショナル・アンセム

 その「事件」は高校入学のオリエンテーション合宿で起きた。

長い一日の終わりにキャンプ・ファイアがあり、クラスごとに歌を披露することになっていた。

次々に発表が終わり、最終組だった私たちが立ち上がった。他のクラスのように流行り歌にすればいいのに、寸前になって「君が代」を歌うことに決めたのは、単に皆と違うことをしたかったからで、選曲にそれ以上の意味はなかった。

低く歌い始めると周囲に「おっ」という空気が流れ、気をよくした私たちは次第に声量を上げた。そしてハイになったのか、最後は大声で叫んでいた。歌い終わると、クラスメイトの誰かが突然始めた「バンザイ」に皆が反応して、あっという間に両手を上げての三唱になってしまった。

ここで終わっていれば問題にならなかったかもしれない。だが、別の誰かが「だいーにっぽんていこくー」という合いの手を入れると、勢いでもう一度バンザイ三唱が起きた。教師たちが真っ青になった。

 

直後にクラスの緊急ミーティングが開かれた。

頭を垂れて担任の話を聞くクラスメイトたちが何を考えていたのかわからなかったけれど、自分自身は釈然としない気持ちで座っていたのを覚えている。調子に乗りすぎたことは認めるが、国歌を大声で歌い、一昔前の軍人や一般人の振る舞いを真似ることがそんなにひどいことなのだろうか、当時の私はそう思っていた。

「あの戦争で日本人が何をしたのか、君たちは知らないのか」

普段は温厚だった担任が険しい顔で尋ねた。私たちは沈黙した。

ベテランのN先生が怒り心頭だとも言った。N先生は長崎出身で、壮絶な被爆体験もしている…。そんな情報もつけ加えられてミーティングは終わった。

 

実はN先生は、その高校の一年生の日本史を受け持っていた。満州事変から太平洋戦争にかけては三学期まで出てこないが、私はそのときを心待ちにした。クラスの「事件」が蒸し返されるのは嫌だったけれど、彼が戦争について何を語り、どうまとめるのかにとても興味があった。

でもN先生は教科書に載っていることにしかふれなかった。解説も分析も検証もなかった。「事件」については蒸し返しどころか言及さえしなかった。被曝体験の話が一度だけあり、さすがにこれには皆引き込まれたが、それ以外はまったっく何も語らなかった。ひどい肩すかしを食らった気がした。

「あの戦争で日本人が何をしたのか」について言えば、私と私のクラスメートたちは、教科書の本文数行といくつかの傍注を読むだけで終わった。

 

こんなことを思い出したのも、辺見庸の「1★9★3★7」を読んだおかげだ。「イクミナ」と読ませ、1937年を「皆が征った」年とし、その年に中国の南京で行われた膨大なスケールの略奪・強姦・殺戮を日本人はいかにしてやってのけ、いかにして忘れてきたかを、当地に従軍していた作家の堀田善衛や武田泰淳や筆者の父親の文章を使ってあぶり出してゆく。

私たち日本人の加害者としての意識の希薄は一体どこからきているのか。それだけでなく、惨禍をもたらした侵略戦争の最高責任者に向かって「総一億懺悔」をしたり、原爆を落とした敵国にすぐにすり寄ったり、被害者としても道理にかなっているとは言い難い一連の行動をどう説明するのか。それらを辺見氏は執拗に問う。

彼が胸ぐらを掴むようにして問いただしている相手は、あったことをなかったとか、それほどでもなかったとか言い出す向きよりも、リベラルを含めたそれ以外の人間たちだ。負の歴史を書き替えようとする者たちよりも、史実そのものを語ろうとしない大勢の人々だ。

辺見氏自身も、軍の士官として蛮行にかかわっただろう自分の父親に対して、当時のことは何も尋ねないで済ませてしまったと書いている。私の周りでもN先生だけではない。改めて思い起こせば、親や祖父母をふくめて、先の戦争について通り一遍のこと以上を語った人などいなかった。

不問に付す。それが日本人の心髄なのだと言われても、仕方ないような気がしてくる。

 

大学卒業後、私はアメリカに渡った。日本で国旗国歌法が成立する7年前のことだ。

そこで私は彼らの国歌斉唱に頻繁に立ち会った。学校、議会、スポーツの会場、軍の基地...。写真記者という仕事柄もあり、普段から聞く機会が多かった。週一回だったとしても、帰国までに千回を超えたことになる。

もちろん歌わずに起立して静聴するだけなのだが、初めは何気なく聞いていたその歌も、国家が時として個人におよぼす暴力というものについて考えをめぐらせればめぐらせるほど、アメリカの傲慢で矛盾に満ちた外交政策を知れば知れるほど、しんどいものになっていった。

特に911のテロの直後、米国内の世論が一気に右傾化した頃の斉唱には、人々の異様な昂揚と陶酔が透けて見えて気味が悪かった。すぐにアフガニスタンへの爆撃が始まり、しばらくしてイラクへの侵攻が始まった。戦時という非常時のもとで聞く「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」は、国歌斉唱という行為が国威の掲揚に果たしている役割の大きさをまざまざと見せつけてくれた。(それでも諸外国と同様、斉唱を強制する法律がないことは強調しておきたい)

この不快に関して、個人的に何か行動を起こしたかと言えば、何もしなかった。2分間我慢してその場をやり過ごした後は、撮影に専念することで忘れた。家に帰って書物で考えを深めることもしなかったし、同僚や友人と議論することもなかった。議論を避けたのは、ひょっとしたら「強いアメリカの恩恵を受けてきた自分の国はどうなんだ」とか、「おまえ『永住権を取りたい』って言っていたじゃないか」と反論されるのが怖かったのかもしれない。

私はこのことを、自分の子供たちにいつかきちんと説明するだろうか。

 

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あの交差点を守れ

最近まで渋谷に通勤していた。同僚の中には「若者の街」の喧噪を嫌う者が多かったけれど、私には楽しい風景だった。

自分の住んでいる街にやたら老人が多いので、若い者たちが戯れるのを見てほっとしていたのかもしれない。

スクランブル交差点を渡るのも嫌いじゃなかった。

人を避けながら歩くのは確かにうざったいが、それも自分と異世代の街に突入する前の儀式だと思えばいい。信号待ちの間に聞こえてくる浮ついた会話にも、日々更新されている頭上の広告塔にも、私の知らない世界が垣間見えた。

青信号になり、思わず振り返りたくなる美人や疑いようのない奇人、オタクっぽい外国人が次々と視界を横切ると、通勤の眠気もすっかり醒めた。

 

この交差点でずっと気になっていたことがある。

早朝、ワゴン車やマイクロバスがよく停車していて、若者たちがそこへポツポツと乗り込んで行くのだ。ちょっと怪しげなので、何の待ち合わせなのか本人たちに幾度か尋ねたが、なぜか皆口を閉ざす。「カタログ撮影のモデルで…」と答えた男の子がいたけれど、具体的に聞くと彼は口ごもった。

ある時、何気ない装いでワゴン車に乗り込もうとした。怪訝な顔をする召集係みたいな男に「よろしくです」と適当な挨拶をしたが、手で制されてしまった。

私は悔しくなって踵を返し、背後にある交番に向かった。ハチ公前の交番だ。

 

言いつけにいったわけではない。警察は彼らが何をしているか知っているはずだし、そもそもこの雑踏の只中に車を停めること自体セキュリティー上どうなのかという、以前からの疑問を尋ねるいい機会だと思ったのだ。

例えばニューヨークで同じことをしたら、きっと数分も経たないうちにポリスがすっ飛んでくる。実際に2010年のタイムズ・スクエア爆破未遂事件は、露天商の通報で惨事を免れた。駐車していた無人の車両内を警察が調べると、プロパンタンクと花火で作られた大量の爆発物が発見された。

しかし当ては完全に外れた。交番の前に立っていた渋谷署の二人はワゴン車が何をしているのかまったく把握していなかった。

「ニューヨークじゃ…」とか「東京もオリンピックを控えているのに…」と私が粘ると、警官の一人は中に入ってしまい、もう一人は最後まで聞いてから表情を変えずにこう答えた。

「それは我々の仕事じゃないんで」

耳を疑った。「それ」とは、駐車違反の取り締まりのことらしい。私は腹を立てたまま仕事へ向かった。

 

煽るつもりもない。でも東京のテロ対策は大丈夫なのか?と本気で心配になる。

パリのテロの報道にソフトターゲットという言葉が多用されたが、この都市はソフトターゲットだらけに見える。そしてその最たるがこの交差点ではないか。間近にいる警察官たちが迷子や酔っぱらいの相手をしているだけなら、犯罪の計画も実行も簡単にできる。

常設のカメラに加えて、通行人や観光客が構えているスマートフォンやカメラの数を考えると、有事があればその映像は瞬く間に世界に拡散されるだろう。テロライズするのにこれほど効果的な場所はない。

村上龍の小説「オールド・テロリスト」はNHKの西館の入り口で起こるテロで始まるが、舞台がスクランブル交差点でもぜんぜん違和感はなかった。いや、警鐘を鳴らすためにも、むしろそうして欲しかった。

これが杞憂に終わることを切に願います。

 

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香港日記

 Day 1

出張で初めて香港へ。キャセイ・パシフィックという航空会社を使った。ほぼ中央に座っていたけれど、反対の通路からアプローチされている隣の人には「チキン」か「フィッシュ」のチョイスも「赤ワイン」か「白ワイン」のチョイスもあったのに、「フィッシュ」と「赤ワイン」しかないと言われた。「まあいいよ」と答えて食べ始めると、自分にだけロールパンがきていないことに気づいた。呼び止める「すみません」の声がつい大きくなってしまう。

ホテルにチェックインしてボスに電話。すぐに顔を出してと言われる。ロビーで道順を聞き、言われたとおりショッピング・モールを抜けて行こうとすると、さっそく迷う。延々と続く地下道が気味悪い。

Day 2

オフィスもモールもホテルも冷房がガンガン効いている。こちらは持参したフリースが重宝しているのに、皆は慣れているのか半袖で悠々としている。夏は暑いんだろうな。

Day 3

街を歩く人の所作はせわしない。足速にJ-Walkする様子は見ていて爽快だけど、譲り合う感じはまったくない。でも群衆なのに統率がとれている、あの日本の人混みの方が不思議なのかも。どんなに混んでてもぶつからずに、周りとなんとなく歩調を合わせられる希有な能力。

背が高くてスタイルのいい女性が多いような気がする。でも服装のセンスはかなり微妙。懐かしき日本のボディコンみたいなのが流行っているのだろうか。そういえばホテルの前にも街中にもヨーロッパの高級車が溢れているので、バブリーな感じがする。「違うよ、ここは栄えて150年以上になるんだよ」と言われるかもしれないけど。

Day 4

風邪が治らず体調がすぐれない。夜はヘトヘトで職場からホテルへ直帰。

Day 5

待望の週末。朝寝してからブランチを食べ、散策に出る。港で行き来するフェリーを見て、市場や大学の周りをうろつく。楽しい。マーケットは眼に刺激的。音楽は聞こえてこないので耳は退屈。大変なのが鼻だった。下水の臭いに、ときおり食べ物の甘い匂いが混じりあう。

大衆食堂で夕食。混んでいたので若い男性と相席になる。香港人のグラフィック・デザイナー。東京と大阪に観光で行ったことがあるらしい。「日本人は礼儀正しくてナイスです」と言う。礼を述べてから「ところで中国への正式返還って、香港の人たちには心配事なの?」と聞くと、 顔が一瞬引きつったように見えた。

Day 6

日本からのメールをチェックしていたら「パリが大変」とあったのでテレビをつける。画面から目が離せなくなった。こういうときは情報の早いCNNを観てしまう。より慎重なBBCの方が誤報の可能性が少ないとわかっていてもだ。NHKにも何度か合わせたが、普段通りの番組編成で「のど自慢」をやっていた。

日本政府が作ったコマーシャルがCNNで繰り返し流れていた。このタイミングで放映されたのはもちろん偶然で、事件があったから私を含めて沢山の人が視聴することになった。いろいろな職業の日本人が自分が行っている国際貢献について語る60秒くらいのスポットなのだが、どのバージョンにも〆のカットに安倍晋三の写真がでてきて、「私たちは国際的な貢献を続けます」という彼の言葉が表示されて終わる。何というセンスの悪さ。この男は自分が顔を出すことでPRの効果が上がると本気で考えているのだろうか。

Day 7

中国語のチラシを受け取ろうと思ったら、配っていた女性がさっと手を引っ込めた。地元の人間のふりが上手くいっていると思っていたのにバレていたらしい。

喉の不調の原因は街中の空気だろうか、ホテルの部屋の空気だろうか。

Day 8

街中で目立つのが白人たち。やはりイギリス人が多そうだ。観光客っぽいのに、我がもの顔で歩いている様子はなんとなくむかつく。白人男と歩いているアジア系の女性が美人ばかりなのにはもっとむかつく。

Day 9

仕事の後めずらしく余力があったので、シャワーを浴びて外へ。運動不足を解消しながら夕飯の場所を物色。狭い通りに入ってゆくと露出度が高い服を着た女の子が数名。と、向こうからきた浅黒い肌の巨漢の男が「平日なのにセックスできるなんていいな」と聞こえよがしな独り言。すれ違いざまにチラッと視線を送ってきたので、目をそらすと、ほぼ同時に向こうも目をそらす。声をかけたという事実すら残さない見事な瞬間芸だった。

バカでかい看板を掲げている中華料理屋へ。入り口の女性が案内する前にまずメニューを見ろという。ちょっとバカにされたような気がして「大丈夫」とジェスチャーして中へ入ると、グループの団欒ばかりで嫌な予感。やっぱり値段も張る。気後れして「トマト風味と蟹風味の焼き飯」を頼むと、大皿に盛って出てきた。2~3名用の料理を頼んでしまったらしい。味も大したことない。こういうドジを踏んで異国にいることを実感するんだ、と自分に言い聞かせて店を出る。

Day 10

「最後の夜だから」といって同僚が夕食に連れ出してくれる。イタリア食料品店に椅子とテーブルを置きました、みたいな気取らないレストラン。とても落ち着く。店内にかかるロックは曲ごとに言語が変わるごちゃまぜぶり。同席したのはイギリス人、香港人、スコットランド人。香港人は元オーストラリア在住らしく、英語も当地仕込み。

会話についてゆくのが大変だった。痛感したのは、共通する知識や体験がないと言葉は断然通じにくくなるということ。アクセントに不慣れだし、聞いたことのないフレーズの連発ですでに大変なのだけど、話題自体に知らないものが多かった。「クリスマス時期のロンドンときたら…..」と一人が切り出すと後の二人が「そうそう」となり(めちゃくちゃ混雑して不便らしい)、「こんなときのアイルランド人って…..」と他の一人が口にすると残りがどっと受ける(最後まで何のことかわからなかった)。英語はムズカシイ。

Day 11

早朝チェックアウト。昼まで仕事をしてそのまま空港に直行。疲労困憊しているけど、窓の外の風景が着いたときより優しく見えるのは気のせいか。自分の所属するチームが香港を拠点としているのでまた来るかもしれない。そのときまで、さよなら。

帰りの便はなぜか提携しているJALの飛行機。お腹も空いていないので機内食をパスしたら、皆のトレイにハーゲンダッツのアイスクリームが乗っているのを発見。でも「アイスだけちょうだい」というのも恥ずかしいなと躊躇していると、(たぶん)香港人の機内アテンダントが「アイスダケ、イリマスカ」と日本語で声をかけてくれた。気が利くなぁと感動して待っていると、わざわざ取りに行ってくれた彼女は、キンキンに冷えたカップを差し出しながら「スコシ、タカイデス」と言って微笑んだ。高い? 固いってことか。日本語だってムズカシイのだ。

 

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ハロー、アゲイン

「何となくスゴそうな国から、何となくバカそうな国になってしまった」

アメリカという国を評してこう表現したのは、確か評論家の内田樹だった。その文章が書かれたのは10数年も前の話だ。

私がその本を手にとったのは3年ほど前のことで、場所はアメリカのノース・カロライナ州にある女子高校だった。そこの教室を借りて毎週土曜日に日本語補習校が開かれており、私はキャンパスの片隅に設けられた書架の前に立っていた。子供を送り届けた後にぶらりと立ち寄れる小さな図書室には手垢のついた文庫本が並んでいたが、そのうちの一冊が内田氏の本だったのだ。

「へえ」というのが私の感想だった。ずいぶんと意地悪な見立てをするな思った。

顔を上げれば窓の外に手入れの行き届いた芝生が見える。レンガ造りの美しい校舎が並び、それを囲む木々から鳥たちのさえずりが聞こえる。キャンパスを一歩出れば、ダウンタウンの方角に州庁関連のビルや美術館が整然と建ち並び、反対側には州立大学の広大な施設が延々と続いていた。

「でもさ、この環境を見てよ」と思わず言いたくなった。

 

アメリカの国力の衰退はわかっていたつもりでも、暮らしているとなかなか実感が湧かなかった。

外に出ないと内情がよくわからないというのは、どこにいても同じかもしれないが、特にあの国にいるとそうなってしまうのかもしれない。

国土が大きいということに加えて、よく言われるように、他国のことを眼中に入れない国民性が理由だろうか。住んでる場所が世界の中心だという錯覚は、どの国に暮らしていると一番顕著に感じるものだろう?

 

ここ数年でもアメリカの権威はどんどん失墜していったように感じる。ニュースを見聞きしていても、ロシアや中国に完全になめられているようにしか見えない。こんな扱いは一昔前には考えられなかった。

そんな風潮の中で、最近ネットで話題になったビデオがあった。

韓国の大学のキャンパスで撮られたというインタビューもので、アメリカ人の印象を海外留学生たちに聞くという趣旨なのだが、その内容が手厳しかった。

「うるさい」「図々しい」「自己主張が過ぎる」「デブ」

恣意的に編集されたとしか思えない、ステレオタイプのオンパレードだった。まるで力を失くしたガキ大将を皆でよってたかって虐めている感じすらある。

可哀想なボス…

でも、これをシェアしていたのは私の友人のアメリカ人だった。彼の反応は「ほぼ当ってるな」で、そこにコメントをつけている彼の友人たちも同じように受け流していた。これぐらいのことで目くじらは立てないのだ。その余裕がいい。

 

帰国から2年半が経ち、自分の中で「アメリカ」は少しづつ遠ざかりつつあったのだが、最近ニューヨークに本社を置く外資系の企業に転職して、職場は東京ながら、期せずしてまたあの国のカルチャーと再会することになった。

別にドラマチックなエピソードがあったわけではない。オリエンテーションらしいものもほぼないまま出社初日から放っておかれたのだ。

仕方がないので周りで仕事している人たちに聞くのだが、皆忙しそうにしているのでわからない事をすべて聞く訳にはいかない。遠慮しつつやっていたら、事の次第を察した近くの(たぶん)日系アメリカ人が「あ、そうそう」という感じで振り向き、「この職場はギャーギャー騒がないとダメなの」と言ったのだ。

そのセリフ、どこかで聞いたことがあると思った。

25年前、留学生としてアメリカの大学に着いた初日だった。枕もシーツもなく、かと言って歩いて行ける距離に店もなかったので学生課に相談すると、車を持っている日本人留学生の電話番号をくれた。図々しいと思ったが思い切って連絡をとり、ルームメイトのインドネシア人と一緒に近くのショッピングモールまで連れて行ってもらった。

修士論文を書くのに4年も費やしたというその女性は、留学を終えて帰国する間際で、いかにも何かをやり遂げたという雰囲気を漂わせていた。入れ替わるようにして日本からやってきた私に何かアドバイスを残そうと思ったのかもしれない。ハンドルを握ったまま彼女は「この国ではね、ギャーギャー言わないと損するのよ」と教えてくれた。

 

ほぼ同じセリフだ。ただし、私の新しい同僚には、気の利いた一言半句がもうひとつ残っていた。

「ここじゃとりあえず泳げると想定して、皆を海に放り込むの」

ヒリヒリとしたあの感覚が蘇る。

やるせないほどの孤独と、限りない可能性。

泳げるかどうか、もう一度やってみよう。

 

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The Things I Carried

アメリカで働いているとき、カメラのバッグに常備している紙きれがふたつあった。

ひとつは抗議の文言。公であるべき集まりから閉めだされそうになったとき、その場できちんと抗議できるように、例文を持ち歩いていた。

「議長 (あるいは裁判長) 殿。この場が公のものあり、報道陣を含めた一般市民に開放すべきものであることは、州法 (あるいは条例) 第X条に保障されています。それに基づき私の傍聴を認めることを主張します」

新聞社がスタッフに配ったもので、他の記者たちもこれを携帯していた。抗議しても埒があかないときは、その場で新聞社の弁護士に連絡しなさいという指示を受けていた。

 

もうひとつはスペイン語の会話例。建築現場や農場のように、ヒスパニック系ばかりで英語が通じない場所を取材するときのために、同僚のカメラマンを真似て携帯するようにしていた。

「 ◯◯紙のカメラマンです。名前を教えてください」

「明日の紙面に載るかもしれません」

「いいえ、お金はかかりません」

 

どちらも使うことはなかった。

ひとつめを使わなかった理由は、そもそも私がローカルの政治や教育(例えば市町議会や教育委員会)を取材する機会が少なかったからだが、担当の記者でも閉め出しをくらうことは滅多になかったはずだ。ただ全くない訳ではないらしく、いざという時、アメリカの記者はこうして法の後ろ盾を使って、いわゆる権力者たちと公の場でやり合わなくてはならない。

ふたつめを使わなかった理由は、単に私が面倒くさがっていたから。

実際に必要なシチュエーションはよくあったが、ヒスパニック系の人たちとのコミュニケーションを私は身振り手振りと英単語の羅列で通した。

 

マーク・コズレックの「グスタボ」という曲を聴くたびに、アメリカの田舎に住むことに伴う孤独と、そこにいた多くのヒスパニック系住人 (そのほとんどが不法滞在のメキシコ人たちだった) のことを思いだす。

もっと具体的に言えば、彼らと自分の距離感、そして、お互いの無関心さについて。

私は彼らのことをほとんど知ろうとしなかった。

 

田舎の一軒家を買った

テレビとボロいソファーも

家を修繕するために

グスタボとその取り巻きを雇った

電ノコとマリアッチがうるさい、むかつく奴ら

でも腕もいいし

やる気があった

遠くから通うより

住みながら働きたいと言うので

合鍵と電子レンジを用意した

 

グスタボは違法の移民

給料を渡すとカジノにストリップ

オレもたまにつき合った

こんな田舎じゃ退屈だろ

薪を割ったり、テレビの前で寝落ちしたり

ストーブの上でタコス作って

カップ麺を食べる

迎えの車も来ないから

街まで歩いてウィンドー・ショッピング

ライフルや弾を物色したりした

でも夜はどこも閉まる

濡れたブーツに、厚着したままのオレ

 

ある夜奴らはタホに行くと言いだして

誘ってきたけど、ふざけるな

疲れているし、金もない

奴らは陽気に出かけていき

帰りに田舎の警官に車を止められた

酔っていて大麻も所持していたグスタボは

その夜に牢屋行き

すぐにメキシコへ強制送還

ティフアナの公衆電話からコレクト・コールで

「金を送ってくれないか?」

越境の運び屋に払う2,500ドル

働きたいし、家族に会いたい

オレは電話を切って「ゴメン」とつぶやいた

電話を切ると、動揺していた

電話を切ると、心苦しかった

電話を切ると、背中が痛かった

奴らの後片付けをしよう

ぶち抜いた壁、はがされた床

痛んだタンス、壊れた引き出し

キッチンの流し台が庭に転がっていて

自分の手を見ると、震えていた

見上げたら、雨漏りしていた

 

この頃はソファーで寝るんだ

未修繕の家の居間で

あの後本物の大工を雇ったのに

奥さんが癌になって、来なくなった

でもオレはここで探しものをしているだけ

心の平穏(ピース)と、石ころひとつ(ピース)を

心の時計の置き場所を

古いギターと優しいロックンロールを

ポーチの揺り椅子に腰掛けて

心配事もなく

なんとかやっている

未だどこにも辿り着いていないけれど

 

家はそのままだけど、大丈夫

傾いだ床を気にするほどうるさくない

トイレのタイルなんてどうでもいい

建築基準法とか、ドアベルも

修繕は終わってないけど構やしない

たまには遊びにきてよ

12月なら雪が見れる

7月なら薔薇

庭師に「グスタボは?」と聞かれた

オレは吹き出し「知るかよ」って答えた

あれから会っていない

髪型決めて、タホへ向かったあの日以来

ガールフレンドに「あのメキシコ人は?」と聞かれた

グスタボのことかい?

また吹きだして「知らない」

ティフアナからの電話が最後

正直言うと、あいつのことはあまり考えない

裏の山にはよく登る

秋にはそよ風を感じて

冬には降り積もる雪を眺める

春は虹を愛で

夏は薔薇の匂いを嗅ぐ

白に、赤に、黄色

 

(拙訳) 

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ふたりの花嫁

気がつくと、目の前で花嫁が歌っていた。

テレビの前で寝落ちしていたのだが、画面の中の女はスポットライトを浴びて熱唱していて、なぜかド派手なウェディングドレスを着ている。浜崎あゆみという歌手らしい。

純白のドレスを身に纏ってロックンロールを歌う... という演出なのだろうか。その歌にどんなメッセージがあるのか、一体どんな効果を狙っているのか、寝ぼけた頭を醒まして歌に聞き入ってもさっぱりわからず、妙な違和感だけが残った。

 

アメリカで出会った、ある若いアーティストを思い出す。

4、5年前、大学のキャンパスで会ったとき、彼女はウェディングドレスを着ていた。挙式当日だったわけではない。ウェディングドレスを普段着として着用するというプロジェクトの真っ最中だったのだ。

日常に非日常を持ち込むという一種のパフォーミング・アートなのだが、晴れ着とは何かという問いでもあり、慣例への反逆でもあり、「純白のドレス」が喚起するイメージへの異議申し立てでもある。

彼女はドレスを一年間着続けることを自分に課していた。

 

外出時、例えばスーパーのレジに並んでいると、訳を知りたくて近寄ってくる者から、頭のおかしい女とみなして敬遠する者まで、反応は色々らしい。カメラマンでもある彼女のボーイフレンドがついて行き、その様子を写真に記録していた。

興味を持つ人(なぜか女性が多いとのこと)にプロジェクトの趣旨を説明すると、面白がる者もいたが、眉をひそめる者も沢山いたという。

私が彼女を見たのは、プロジェクトを始めて数ヶ月しか経っていない時だったが、すでにドレスは汚れが目立ち、いくつかのほころびがあった。それもステイトメントの一部で、ドレスは最終的に写真と一緒に展示する予定だと言っていた。

 

あのプロジェクトは最後まで続いたのだろうか。

なんとなく頓挫したような気がするのは、「周囲の殊の外重い反応が疲れる」と彼女が口にしていたからだ。

因みにこのアーティストも、浜崎あゆみも、自己表現の一部にウェディングドレスを使ったということになるが、ふたつの行為には隔世の感がある。

一方が文字通り「体を張った」パフォーマンスだけに、もう一方は分が悪い。

比べるものでもないかもしれないし、だいたい私は浜崎あゆみという歌手についても、彼女の作品についても何も知らない。

ただ、私が踏んでいるように、あれが「カワイイ」とか「カッコイイ」という理由による単なる演出なのだとしたら、その軽さが妙にむかつく。

 

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