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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ショーンKに告ぐ

甘いルックス、渋い声、一分の隙もない服装。「報道ステーション」に彼が出てくるたびに、なんとなく身構えたものだ。出来すぎ感が強すぎて、肝心なコメントが印象に残らない。

そのショーン・マクアードル・川上氏、学歴詐称が明るみに出た数日後に涙の声明を出した。とりあえずメディアから身を引いた。

虚偽の経歴を売りにしていた人物にニュースの解説を求めていたのだから、TV局にとっても笑えない話なのだが、翌日から巷の番組がフォーカスしたのは次の二点だった。

彼を許せるか? 彼は復帰すべきか?

つまり、あっという間に彼を裁く側に回ってモノを言っていたことになる。

 

ちなみに学歴や経歴を盛るという行為だが、ばれるリスクを覚悟でやる者がいるということ自体、効果の大きさをあらわしている。

固有名詞ひとつふたつで箔がつく世相は相変わらずだ。

箔のつく学歴とは無縁の私だが、アメリカではそのことをいっさい忘れさせてくれた。仕事をしていて「もっと学歴があれば」と思ったことも一度もなかった。そもそも職場では学歴の話が出ない。肩を並べて何年も一緒に仕事をしていた同僚が実はハーバード出だったということが実際にあったけれど、それくらい話題に上らない。

「いや、アメリカこそ露骨な学歴社会だ。MBAの給料を見ろ」と言う人もいるけど、あれはお金をかけてネットワークを広げた人材を採りたい企業が用意する、直近の転職時(つまり一度きり)のインセンティブで、キャリアについて回るような評価ではない。

もちろん競争は熾烈だ。ただ、日本の受験や就職活動のような全員参加型の一発勝負がないぶん、社会に出るまでの道のりはたくさんある。そして、出てからの評価は普段のパフォーマンスで決まり、常に更新され続ける。

 

日本に帰国後しばらくして、仕事場で面識のほぼのない上司に卒業した大学名を聞かれたことがあった。彼女の唐突な聞き方にこちらの身を固くさせる何かがあって、「あ、これだ」と思った。私の返答への彼女の反応は薄く、会話は弾まないまま終わった。

そう感じたのは単なる私のコンプレックスなのかもしれないが、20年以上押されることのなかったスイッチを押すトーンが彼女の尋ね方にあったことは間違いない。

ショーンKは何をきっかけに虚偽を始めたのだろう。

あの出で立ちとしゃべりの裏にはとてつもない執心と努力があったはずだ。学歴なんか盛る必要のないほどの執心と努力が。

墓穴を堀ったのは本人だし、許す許さないも、復帰するしないも私にとってはまったく関心外なのだが、少なくとも彼は人生前半のレースの結果を理由に諦めなかった。投げなかった。そして、一時的とはいえ、たぶん自分が望んでいたものを手に入れた。そのことは覚えておこう。

 

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放浪後記

ジャングル、行きてぇ」と言った彼女の眼が光った。

自分よりひと回り半も若いとはいえ、旅に出たいと言って力むような年齢でもない。でもティーンのころから海外で暮らしてきた彼女にとって、東京はもともと一時的な腰掛けの場所なのかもしれない。

「別に奥地で消えてもいいし」と過激なことを言い出すので、私は「まあまあ」ととりなす。我ながらつまらない話し相手だと思う。 

そういえば先日行った香港は、ホテルと仕事場の往復で終わった。忙しいことを言い訳に楽しむ努力をしなかった。勝手を知っている前回と同じホテルに泊まったり、食事をホテルの部屋で食べたりで、「いろいろ見てやろう」という気持ちが湧いてこなかった。以前持っていた知らない土地への思いはどこにいったのだろう。「行きてぇ」と叫んでいたのは自分だったのに。

金子光晴の「どくろ杯」。小田実の「何でもみてやろう」。沢木耕太郎の「深夜特急」。藤原新也の「インド放浪」。

10代のころ読んだ放浪記は私の身体と頭を熱くした。日本脱出を決心した私は、出国のタイミングを22歳の夏と決めた。ただバックパッカーになってアジアやヨーロッパを放浪するのか、留学生として米国に行くのか迷った。結局留学にしたのは、旅に出ても一、二年もすればお金と気力が尽きると思ったからだ。簡単には帰国はしないという目標があったので、移民の多い国に行くべきだと考えた。アメリカなら仕事にありつけるんじゃないか、実際に参加できるんじゃないかという予感があった。

 

辺境に行きたい。自分のことを知っている人がいない所に身を置きたい。自分を消したい...。

自然の静けさよりも街の喧噪が好きな私は、大学が休みに入るとシカゴやニューヨーク行き一日中街を歩き回った。夜を徹してうろつき、バス停や路上で寝ることもあった。お金をもたずに外国を彷徨っているとさすがにキツかったが 、自ら好き好んでやっていたことだ。あのとき自分は一体何をしていたのだろう?

ただそれに耐えられたのも、休みが終わればまた学生に戻れることを知っていたからだろう。

「路上」を書いたジャック・ケルアックを評して、「身分をワンランク落として遊んでいるだけ」という評論を目にしたことがある。アメリカ文学界の神を捕まえてずいぶんひどい言い方だと思ったが、意味はよくわかった。確かに主人公サル・パラダイス(つまり作者自身)の放浪も、すべてを賭しているように見えて、実はお坊ちゃんの冒険だとも取れなくはない。決して裕福ではないが、彼はその気になればマサチューセッツの叔母の家に帰れたのだ。

それを言えば上記の日本の作家たちも同じだろう。ギリギリの旅をしていたのとはいえ、必要なら日本に舞い戻れたはすだ。その意味では彼らの放浪も単なる旅行であり、レジャーではなかったと言い切れない。

 

その香港出張の最終日のこと。空港に向かう電車の中で、私の後ろに二人のアメリカ人が座った。自己紹介に続く矢継ぎ早の情報交換。会話を背中で聞いていると、ひとり旅をしている二人が車中で偶然出会ったことがわかる。どちらの口調にも若さと旅の興奮が滲み出ている。

微笑ましく思う反面、いかにアジアの国々がクレイジーで、いかに自分たちがワイルドなのかを酔ったように話し続ける彼らに、醒めた反応をしている自分に気づく。「身分をワンランク落として遊んでいるだけ」という例の批評が頭をよぎる。

ふいに「岩部さんは?」とジャングル行き志望の彼女に聞かれ、私は慌てて言葉をつないだ。

長い間不在にした日本に帰ってきて、ものすごく遠くに投げたブーメランがやっと戻った感じ。遠くに行きたいと今は思わないし、そもそも生活に追われてそんな余裕がない。でも子供が育って家を出たら、いつかまた海外に出ようという気になるかもしれない。

そう言いながら、「ホントかよ」と思っている自分がいる。

 

P.S. 彼女の南米行きが実現しますように。

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ゲスマップのきわみやざきよはら

べッキー・ゲスの極み→SMAP→清原→イクメン議員、ときたここまでの2016年… なんてスラスラ書けるくらい、つまりゴシップにだってちゃんと通じられるくらい、日本での暮らしにどっぷりと浸っている。帰国してもうすぐ3年になる。

でもベッキーとローラをずっと間違えていたし、SMAPがビックネームなのは知っていても、彼らの解散がどうしてこんな騒動になるのかよく分からない。だからイマイチ話題に乗りきれない。宮崎氏のタイミングの悪さにはマジで驚いたけれど…。

この中で関心があるとすれば、やはり清原氏の逮捕だ。同世代だし、甲子園でモンスターな活躍をしていた彼の姿を私はTVでリアルタイムで見ていた。気になるので、新聞やネット上で記事を見かけるとつい読んでしまう。で、感想がいくつかある。

 

まず、捜査に費やされた時間の長さ。

疑惑のあった現役時代からずっとマークしていたらしいし、証拠をつかんでから逮捕するまで一年も捜査を続けてきたという。警察はそんな暇なのか!?

著名人を捕まえて「間違ってました」とは言えないから、慎重を期するのはわかるけれど、麻薬の常習者を1人を検挙するのにどれくらいのお金を使ったのだろう。麻薬の取り締まりにやることは際限なくありそうだし、他にターゲットにすべき人間もたくさんいるはずなのに。

でも有名人の逮捕自体に取り締まりの効果があるんだ…と言われそうだが、果たしそうだろうか。

確かに続報が連日メディアを賑わしているけれど、私が見たかぎりでは、改めて麻薬の恐さをわかりやすく説いていたのは日本版のBuzz Feedぐらいで、後は清原氏身辺のゴシップばかりだった。元スター・アスリートの逮捕は確かにインパクトがあるが、それがそのまま犯罪防止に繋がっているかは疑わしい。むしろ芸能人のような扱いを受けているので、一歩間違うと、若い人たちにはグラマラスな印象を与えそうだ。

ひょっとしたら、警察にとっての有名人の検挙は、ゴシップを扱うメディアにとっての特ダネと同じ位置づけなのかもしれない。罪の軽重よりもそのインパクトにおいて大事な案件であり、ひとたび挙げれば社会の熱狂という当事者たちにとってたまらないインセンティブが待っている。

 

もうひとつ気になったのが、清原氏の過去を隠そうとする動き。

掲げていた彼の写真を撤去したという報告がいくつかあったし、西宮市にある甲子園歴史館では、彼の高校時代のユニホーム、帽子、バットの3点セットの展示を取りやめたという。理由は「教育的配慮」。壁に金具で固定されている写真とパネルもこれから外す意向らしいから、並々ならぬ意欲が伝わってくる。

でも、これは逆でしょう。

子供たちに夢を持てと諭し、がんばれば君もこうなれると説くのが今の一般的な教育なのだから、その延長で、ほら、やっぱりヒーローだってフツーの人間じゃないか、と教える方がよほど一貫している。彼らもまた弱く、道はいつでも誤るんだよと。

それ以外にも、成功の代償だとか、一生は短いようで長いんだとか、使えそうなアングルはいくらでもあるから、写真やグッズを取り除く必要なんてない。犯罪の容疑者をヒーローとして祀り続けることがまずいと感じるなら、ぜんぜん心配しなくてもいいと思う。これだけ大人の世界で連日報道していれば、歴史館を訪れる少年少女たちは展示物の不完全さにすぐ気づいて、飾られていない部分をちゃんと頭の中で補いながら見てくれるはずだ。

 

最後は、彼の朋友でありライバルだったとされる、桑田氏の言葉。

「野球はピンチになれば、代打やリリーフがあるけど、人生にはそれがない。彼はそれがわかっていると思う」

「数々のホームランを打ってきた男だから、自分の人生できれいな放物線を描く逆転満塁本塁打を打ってほしい」

どちらも逮捕数日後に朝日新聞に掲載された談話だが、これはできすぎている。例え記者がうまくまとめたのだとしても、格好がよすぎる。

あまりにも決まっているコメントを目にして、私はつい「この二人はやっぱりウマが合わなかったんだろうな」などと考えてしう。

同じ高校の同学年に天才が二人いたという奇跡のような巡り合わせ。それが彼らの野球人生とその後の人生にどんな影響を与えてきたのか、他人の私には知る由もない。 

それにしてもだ。

TVで繰り返し流される、護送車の中で頭を抱えるひとりの「K」と、その失意の友人に対して、本の帯に使えるようなコメントを記者に語るもうひとりの「K」。そのイメージは、ドラフトで意中の球団にそっぽ向かれて号泣した無骨そうな男と、同じ球団の指名を周囲の予想をあざむくかたちで手に入れた小賢しそうな男という、30年前世間をあっと言わせたあの事件当時のイメージそのままなので、妙に感慨が深くなる。

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ナショナル・アンセム

 その「事件」は高校入学のオリエンテーション合宿で起きた。

長い一日の終わりにキャンプ・ファイアがあり、クラスごとに歌を披露することになっていた。

次々に発表が終わり、最終組だった私たちが立ち上がった。他のクラスのように流行り歌にすればいいのに、寸前になって「君が代」を歌うことに決めたのは、単に皆と違うことをしたかったからで、選曲にそれ以上の意味はなかった。

低く歌い始めると周囲に「おっ」という空気が流れ、気をよくした私たちは次第に声量を上げた。そしてハイになったのか、最後は大声で叫んでいた。歌い終わると、クラスメイトの誰かが突然始めた「バンザイ」に皆が反応して、あっという間に両手を上げての三唱になってしまった。

ここで終わっていれば問題にならなかったかもしれない。だが、別の誰かが「だいーにっぽんていこくー」という合いの手を入れると、勢いでもう一度バンザイ三唱が起きた。教師たちが真っ青になった。

 

直後にクラスの緊急ミーティングが開かれた。

頭を垂れて担任の話を聞くクラスメイトたちが何を考えていたのかわからなかったけれど、自分自身は釈然としない気持ちで座っていたのを覚えている。調子に乗りすぎたことは認めるが、国歌を大声で歌い、一昔前の軍人や一般人の振る舞いを真似ることがそんなにひどいことなのだろうか、当時の私はそう思っていた。

「あの戦争で日本人が何をしたのか、君たちは知らないのか」

普段は温厚だった担任が険しい顔で尋ねた。私たちは沈黙した。

ベテランのN先生が怒り心頭だとも言った。N先生は長崎出身で、壮絶な被爆体験もしている…。そんな情報もつけ加えられてミーティングは終わった。

 

実はN先生は、その高校の一年生の日本史を受け持っていた。満州事変から太平洋戦争にかけては三学期まで出てこないが、私はそのときを心待ちにした。クラスの「事件」が蒸し返されるのは嫌だったけれど、彼が戦争について何を語り、どうまとめるのかにとても興味があった。

でもN先生は教科書に載っていることにしかふれなかった。解説も分析も検証もなかった。「事件」については蒸し返しどころか言及さえしなかった。被曝体験の話が一度だけあり、さすがにこれには皆引き込まれたが、それ以外はまったっく何も語らなかった。ひどい肩すかしを食らった気がした。

「あの戦争で日本人が何をしたのか」について言えば、私と私のクラスメートたちは、教科書の本文数行といくつかの傍注を読むだけで終わった。

 

こんなことを思い出したのも、辺見庸の「1★9★3★7」を読んだおかげだ。「イクミナ」と読ませ、1937年を「皆が征った」年とし、その年に中国の南京で行われた膨大なスケールの略奪・強姦・殺戮を日本人はいかにしてやってのけ、いかにして忘れてきたかを、当地に従軍していた作家の堀田善衛や武田泰淳や筆者の父親の文章を使ってあぶり出してゆく。

私たち日本人の加害者としての意識の希薄は一体どこからきているのか。それだけでなく、惨禍をもたらした侵略戦争の最高責任者に向かって「総一億懺悔」をしたり、原爆を落とした敵国にすぐにすり寄ったり、被害者としても道理にかなっているとは言い難い一連の行動をどう説明するのか。それらを辺見氏は執拗に問う。

彼が胸ぐらを掴むようにして問いただしている相手は、あったことをなかったとか、それほどでもなかったとか言い出す向きよりも、リベラルを含めたそれ以外の人間たちだ。負の歴史を書き替えようとする者たちよりも、史実そのものを語ろうとしない大勢の人々だ。

辺見氏自身も、軍の士官として蛮行にかかわっただろう自分の父親に対して、当時のことは何も尋ねないで済ませてしまったと書いている。私の周りでもN先生だけではない。改めて思い起こせば、親や祖父母をふくめて、先の戦争について通り一遍のこと以上を語った人などいなかった。

不問に付す。それが日本人の心髄なのだと言われても、仕方ないような気がしてくる。

 

大学卒業後、私はアメリカに渡った。日本で国旗国歌法が成立する7年前のことだ。

そこで私は彼らの国歌斉唱に頻繁に立ち会った。学校、議会、スポーツの会場、軍の基地...。写真記者という仕事柄もあり、普段から聞く機会が多かった。週一回だったとしても、帰国までに千回を超えたことになる。

もちろん歌わずに起立して静聴するだけなのだが、初めは何気なく聞いていたその歌も、国家が時として個人におよぼす暴力というものについて考えをめぐらせればめぐらせるほど、アメリカの傲慢で矛盾に満ちた外交政策を知れば知れるほど、しんどいものになっていった。

特に911のテロの直後、米国内の世論が一気に右傾化した頃の斉唱には、人々の異様な昂揚と陶酔が透けて見えて気味が悪かった。すぐにアフガニスタンへの爆撃が始まり、しばらくしてイラクへの侵攻が始まった。戦時という非常時のもとで聞く「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」は、国歌斉唱という行為が国威の掲揚に果たしている役割の大きさをまざまざと見せつけてくれた。(それでも諸外国と同様、斉唱を強制する法律がないことは強調しておきたい)

この不快に関して、個人的に何か行動を起こしたかと言えば、何もしなかった。2分間我慢してその場をやり過ごした後は、撮影に専念することで忘れた。家に帰って書物で考えを深めることもしなかったし、同僚や友人と議論することもなかった。議論を避けたのは、ひょっとしたら「強いアメリカの恩恵を受けてきた自分の国はどうなんだ」とか、「おまえ『永住権を取りたい』って言っていたじゃないか」と反論されるのが怖かったのかもしれない。

私はこのことを、自分の子供たちにいつかきちんと説明するだろうか。

 

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あの交差点を守れ

最近まで渋谷に通勤していた。同僚の中には「若者の街」の喧噪を嫌う者が多かったけれど、私には楽しい風景だった。

自分の住んでいる街にやたら老人が多いので、若い者たちが戯れるのを見てほっとしていたのかもしれない。

スクランブル交差点を渡るのも嫌いじゃなかった。

人を避けながら歩くのは確かにうざったいが、それも自分と異世代の街に突入する前の儀式だと思えばいい。信号待ちの間に聞こえてくる浮ついた会話にも、日々更新されている頭上の広告塔にも、私の知らない世界が垣間見えた。

青信号になり、思わず振り返りたくなる美人や疑いようのない奇人、オタクっぽい外国人が次々と視界を横切ると、通勤の眠気もすっかり醒めた。

 

この交差点でずっと気になっていたことがある。

早朝、ワゴン車やマイクロバスがよく停車していて、若者たちがそこへポツポツと乗り込んで行くのだ。ちょっと怪しげなので、何の待ち合わせなのか本人たちに幾度か尋ねたが、なぜか皆口を閉ざす。「カタログ撮影のモデルで…」と答えた男の子がいたけれど、具体的に聞くと彼は口ごもった。

ある時、何気ない装いでワゴン車に乗り込もうとした。怪訝な顔をする召集係みたいな男に「よろしくです」と適当な挨拶をしたが、手で制されてしまった。

私は悔しくなって踵を返し、背後にある交番に向かった。ハチ公前の交番だ。

 

言いつけにいったわけではない。警察は彼らが何をしているか知っているはずだし、そもそもこの雑踏の只中に車を停めること自体セキュリティー上どうなのかという、以前からの疑問を尋ねるいい機会だと思ったのだ。

例えばニューヨークで同じことをしたら、きっと数分も経たないうちにポリスがすっ飛んでくる。実際に2010年のタイムズ・スクエア爆破未遂事件は、露天商の通報で惨事を免れた。駐車していた無人の車両内を警察が調べると、プロパンタンクと花火で作られた大量の爆発物が発見された。

しかし当ては完全に外れた。交番の前に立っていた渋谷署の二人はワゴン車が何をしているのかまったく把握していなかった。

「ニューヨークじゃ…」とか「東京もオリンピックを控えているのに…」と私が粘ると、警官の一人は中に入ってしまい、もう一人は最後まで聞いてから表情を変えずにこう答えた。

「それは我々の仕事じゃないんで」

耳を疑った。「それ」とは、駐車違反の取り締まりのことらしい。私は腹を立てたまま仕事へ向かった。

 

煽るつもりもない。でも東京のテロ対策は大丈夫なのか?と本気で心配になる。

パリのテロの報道にソフトターゲットという言葉が多用されたが、この都市はソフトターゲットだらけに見える。そしてその最たるがこの交差点ではないか。間近にいる警察官たちが迷子や酔っぱらいの相手をしているだけなら、犯罪の計画も実行も簡単にできる。

常設のカメラに加えて、通行人や観光客が構えているスマートフォンやカメラの数を考えると、有事があればその映像は瞬く間に世界に拡散されるだろう。テロライズするのにこれほど効果的な場所はない。

村上龍の小説「オールド・テロリスト」はNHKの西館の入り口で起こるテロで始まるが、舞台がスクランブル交差点でもぜんぜん違和感はなかった。いや、警鐘を鳴らすためにも、むしろそうして欲しかった。

これが杞憂に終わることを切に願います。

 

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香港日記

 Day 1

出張で初めて香港へ。キャセイ・パシフィックという航空会社を使った。ほぼ中央に座っていたけれど、反対の通路からアプローチされている隣の人には「チキン」か「フィッシュ」のチョイスも「赤ワイン」か「白ワイン」のチョイスもあったのに、「フィッシュ」と「赤ワイン」しかないと言われた。「まあいいよ」と答えて食べ始めると、自分にだけロールパンがきていないことに気づいた。呼び止める「すみません」の声がつい大きくなってしまう。

ホテルにチェックインしてボスに電話。すぐに顔を出してと言われる。ロビーで道順を聞き、言われたとおりショッピング・モールを抜けて行こうとすると、さっそく迷う。延々と続く地下道が気味悪い。

Day 2

オフィスもモールもホテルも冷房がガンガン効いている。こちらは持参したフリースが重宝しているのに、皆は慣れているのか半袖で悠々としている。夏は暑いんだろうな。

Day 3

街を歩く人の所作はせわしない。足速にJ-Walkする様子は見ていて爽快だけど、譲り合う感じはまったくない。でも群衆なのに統率がとれている、あの日本の人混みの方が不思議なのかも。どんなに混んでてもぶつからずに、周りとなんとなく歩調を合わせられる希有な能力。

背が高くてスタイルのいい女性が多いような気がする。でも服装のセンスはかなり微妙。懐かしき日本のボディコンみたいなのが流行っているのだろうか。そういえばホテルの前にも街中にもヨーロッパの高級車が溢れているので、バブリーな感じがする。「違うよ、ここは栄えて150年以上になるんだよ」と言われるかもしれないけど。

Day 4

風邪が治らず体調がすぐれない。夜はヘトヘトで職場からホテルへ直帰。

Day 5

待望の週末。朝寝してからブランチを食べ、散策に出る。港で行き来するフェリーを見て、市場や大学の周りをうろつく。楽しい。マーケットは眼に刺激的。音楽は聞こえてこないので耳は退屈。大変なのが鼻だった。下水の臭いに、ときおり食べ物の甘い匂いが混じりあう。

大衆食堂で夕食。混んでいたので若い男性と相席になる。香港人のグラフィック・デザイナー。東京と大阪に観光で行ったことがあるらしい。「日本人は礼儀正しくてナイスです」と言う。礼を述べてから「ところで中国への正式返還って、香港の人たちには心配事なの?」と聞くと、 顔が一瞬引きつったように見えた。

Day 6

日本からのメールをチェックしていたら「パリが大変」とあったのでテレビをつける。画面から目が離せなくなった。こういうときは情報の早いCNNを観てしまう。より慎重なBBCの方が誤報の可能性が少ないとわかっていてもだ。NHKにも何度か合わせたが、普段通りの番組編成で「のど自慢」をやっていた。

日本政府が作ったコマーシャルがCNNで繰り返し流れていた。このタイミングで放映されたのはもちろん偶然で、事件があったから私を含めて沢山の人が視聴することになった。いろいろな職業の日本人が自分が行っている国際貢献について語る60秒くらいのスポットなのだが、どのバージョンにも〆のカットに安倍晋三の写真がでてきて、「私たちは国際的な貢献を続けます」という彼の言葉が表示されて終わる。何というセンスの悪さ。この男は自分が顔を出すことでPRの効果が上がると本気で考えているのだろうか。

Day 7

中国語のチラシを受け取ろうと思ったら、配っていた女性がさっと手を引っ込めた。地元の人間のふりが上手くいっていると思っていたのにバレていたらしい。

喉の不調の原因は街中の空気だろうか、ホテルの部屋の空気だろうか。

Day 8

街中で目立つのが白人たち。やはりイギリス人が多そうだ。観光客っぽいのに、我がもの顔で歩いている様子はなんとなくむかつく。白人男と歩いているアジア系の女性が美人ばかりなのにはもっとむかつく。

Day 9

仕事の後めずらしく余力があったので、シャワーを浴びて外へ。運動不足を解消しながら夕飯の場所を物色。狭い通りに入ってゆくと露出度が高い服を着た女の子が数名。と、向こうからきた浅黒い肌の巨漢の男が「平日なのにセックスできるなんていいな」と聞こえよがしな独り言。すれ違いざまにチラッと視線を送ってきたので、目をそらすと、ほぼ同時に向こうも目をそらす。声をかけたという事実すら残さない見事な瞬間芸だった。

バカでかい看板を掲げている中華料理屋へ。入り口の女性が案内する前にまずメニューを見ろという。ちょっとバカにされたような気がして「大丈夫」とジェスチャーして中へ入ると、グループの団欒ばかりで嫌な予感。やっぱり値段も張る。気後れして「トマト風味と蟹風味の焼き飯」を頼むと、大皿に盛って出てきた。2~3名用の料理を頼んでしまったらしい。味も大したことない。こういうドジを踏んで異国にいることを実感するんだ、と自分に言い聞かせて店を出る。

Day 10

「最後の夜だから」といって同僚が夕食に連れ出してくれる。イタリア食料品店に椅子とテーブルを置きました、みたいな気取らないレストラン。とても落ち着く。店内にかかるロックは曲ごとに言語が変わるごちゃまぜぶり。同席したのはイギリス人、香港人、スコットランド人。香港人は元オーストラリア在住らしく、英語も当地仕込み。

会話についてゆくのが大変だった。痛感したのは、共通する知識や体験がないと言葉は断然通じにくくなるということ。アクセントに不慣れだし、聞いたことのないフレーズの連発ですでに大変なのだけど、話題自体に知らないものが多かった。「クリスマス時期のロンドンときたら…..」と一人が切り出すと後の二人が「そうそう」となり(めちゃくちゃ混雑して不便らしい)、「こんなときのアイルランド人って…..」と他の一人が口にすると残りがどっと受ける(最後まで何のことかわからなかった)。英語はムズカシイ。

Day 11

早朝チェックアウト。昼まで仕事をしてそのまま空港に直行。疲労困憊しているけど、窓の外の風景が着いたときより優しく見えるのは気のせいか。自分の所属するチームが香港を拠点としているのでまた来るかもしれない。そのときまで、さよなら。

帰りの便はなぜか提携しているJALの飛行機。お腹も空いていないので機内食をパスしたら、皆のトレイにハーゲンダッツのアイスクリームが乗っているのを発見。でも「アイスだけちょうだい」というのも恥ずかしいなと躊躇していると、(たぶん)香港人の機内アテンダントが「アイスダケ、イリマスカ」と日本語で声をかけてくれた。気が利くなぁと感動して待っていると、わざわざ取りに行ってくれた彼女は、キンキンに冷えたカップを差し出しながら「スコシ、タカイデス」と言って微笑んだ。高い? あっ、固いってことか。日本語だってムズカシイのだ。

 

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