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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

究極のPC

「どれがあなたの赤ちゃんですか?」

振り返ると、大柄な黒人男性が立っていた。

彼がそこにいるのは知っていた。しばらくのあいだ二人で、窓越しの新生児たちを黙って眺めていたから。もうすぐ夜が明けるころだった。

私は自分の娘が寝ているベットを指差した。

「とてもかわいい。おめでとう」と彼は笑みたたえたまま言った。

礼を述べながら、私はちょっとした感慨に打たれていた。自分の子供がビューティフルと言われたからではない。私が感心したのはその前の言葉、「どれがあなたの赤ちゃんですか?」だった。

つまり、こういうことだ。

その夜、アメリカのサウス・カロライナ州のパプティスト病院で産まれた赤ちゃんは6人いた。夜明け前、新生児室に並んで寝かされたその6人のうち、黒髪を生やしたアジア人の赤ん坊は一人しかいなかった。だから、私の外見を見れば私の子は一目瞭然だ。

にもかかわず彼は、「Which one....?」と聞いてきた。

この国のマナー、PC(ポリティカリー・コレクト)を発揮したのだ。

確かに私が他の赤ちゃんの父親や親族である可能性はゼロではない。でもこれは確率の問題じゃない。そんな状況でも、むしろだからこそ、外見で物事を決めつけないという正しさ(コレクトネス)は強調される。

 

あなたがアメリカに住んでいて、パーティーに出たとする。職場や近所での雑談でもかまわない。初対面の話し相手がアジア系で、流暢な英語を喋っている。でも、どうもネイティブには聞こえない。さて彼、もしくは彼女の出自をそれとなく尋ねるのに、最もPCな聞き方は次のうちどれでしょう?

 A) Where are you from?

 B) Are you from this area?

 C) Are you Chinese?

Cはもちろん冗談。聞き方さえ気をつければ、Aでもオーケーなのだけれど、あなたがこの国に通じていることをさりげなくアピールしたいなら、答えはBです。

一見地元の人間に見えない人に、あえて「地元の方ですか?」と尋ねるのは、万が一そうだったときのための予防線なのだが、何よりも、相手のことを外見や言葉のアクセントで判断していませんよというメッセージを送っているだ。そしてこれが、意外に大事なエチケットになる。

 

今回の大統領選挙のサプライズは、ドナルド・トランプ氏の躍進だ。ある程度の支持は予想できても、まさかここまでくるとは思わなかった。今になってようやく自滅してきているとはいえ、もし明日選挙があったら4割以上の人が投票するというから驚きだ。

彼が受けている理由のひとつが、「言いたい事を言ってくれるから」。メキシコ人やイスラム教徒に対する発言だけでなく、彼はマイノリティー全般に対して言いたい放題で、それが支持者の熱狂を呼んでいる。

Compassion fatigue という表現がある。情熱を持ちつづけることに疲れてしまうこと。これになぞらえれば、アメリカの白人たちは今、 PC fatigueに陥っているのではないか。もうこんなに面倒くさいことはせずに、偏見も何もかも含めて、すべて本音をぶちまけたいという彼らの思いが、トランプ氏のようなエキセントリックなアジテーターをここまで押し上げているのではないか。

確かにPCは面倒だ。いわゆる「言葉狩り」になってしまう傾向もある。身体障害者を disabled people と呼ばず、physically challenged people に置き換えることにどんな意義があるのか。

もちろんネガティブな響きがする disabled という言葉を回避することの意義を一番よく知っているのは、実際に身体に障害をもっている人たちだ。同じ意味で、日本人としてアメリカで暮らした私は、PCの大事さを知っている。PCにもとづいた人種に関する言葉のエチケットを受け取ることで、ともすれば折れそうになる心を救ってもらってきた。

偏見のない心も社会もあり得ない。それでも、理想に近づくために、あらゆる手だてを使ってその芽を摘もうとする気概には感心せざるをえないし、それがあの国の魅力なんだと思っている。そして、トランプ氏は必ず敗れるとも。

 

産まれたての娘を褒められたことはもちろんうれしかった。

ひと呼吸おいてから、私は改めて新生児室を見渡した。

みっつ向こうのベットに黒い肌の赤ちゃんが眠っている。寝顔がお世辞でなく可愛らしい。

私はそれを伝えるために、彼の方に向き直ってまず尋ねた。

「どれがあなたの赤ちゃんですか?」

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ここではないどこか

地方の出の人ほど、東京に住みたがる。それもお洒落とされる区や駅の近くに。

なんて書くのは、やっかみが半分。東京の住まいに手がでない私は、自分の生まれ育った神奈川県の戸塚という街に戻り、そこから毎日長い時間をかけて東京駅まで電車通勤している。

そして今更ながら東京の大きさと多様性を知り、驚いている。

ちなみに高校が神奈川県の藤沢市、大学が静岡県の三島市だったので、若いころ私は西へ西へスライドしていったことになる。

高校生の私にとって、東京はレコードを買いに行くかコンサートを見に行く場所だった。卒業後の進路を決めるときも特に意識はしなかった。頑張れば通えてしまう距離なので、都内の大学=一人暮らしというプランも立たなかったし、無理して住みたいとも思わなかった。

大学の4年でもともとあった脱出願望を大きくしていったのだが、いきおい、目指したのは海外だった。自分にとっての「ここではないどこか」は始めから外国だった。

もし地元がもう少し東京から離れてたら、私はまっすぐに日本の首都を目指したと思う。英語に Love depends on geography (出会いは住んでいる場所で決まる)という言い方があるが、それを言えば、Life depends on where you start、つまり、出身地はその後の人生の道のりを左右する大きなファクターのひとつということになる。

 

先日、久しぶりに三島へ行った。かけ足で駅前の「大岡信ことば館」を訪れたことはあったが、ゆっくりするのは何年ぶりだろうか。

東海道線に揺られて西へ向かうと、平塚と大磯の間から風景が変わり始める。延々と続いていた郊外の匂いが消えて、緑が荒々しくなる。やがて海が見える。

この辺りから三島までたくさんのトンネルがあるのだが、ほとんどが数十秒で通り抜けられる短いものだ。海の青、木々の緑、トンネルの闇。このみっつが窓の外に現れては消え、車内が明滅する。

小田原で再び風景が開けるが、すでに街の佇まいが違う。駅前をぶらついたことしかないので語る資格はないけれど、小田原の醸し出す空気は私の知っている神奈川の街の空気とかなり違っている。

そして、熱海駅を出た直後に始まる、今度は長い長いトンネルを抜けると、まるでそれが儀式だったように、時間軸が一変してしまったような函南に入る。もうここは別世界だ。その理由を私は、富士山の呪術力の射程に入ったからだと思っている。三島はすぐそこだ。

 

大学の恩師とお昼を食べた後、思いがけず、一人歩きをする時間ができた。

でも街並を横目で見るようにして歩いたのは、思い出をなぞるような行為にしたくなかったから。かつて通った、三島大社の裏手のアパートから銭湯までの路地を避けたのも、行きつけだったラーメン屋の店先から、聞き覚えのある「マスター」の声が聞こえたのにそのまま通り過ぎたのも、ウェットな訪問にしたくないという気持ちがあったからだ。

富士の湧き水が縦横に流れる、この美しい街を歩きながら、なんて退屈なところだと思った。

そして、当時の私にはそれが好ましかった。

1988年から1991年というキンキラの時代に私は大学生だったが、バブルの喧噪は三島には届かなかった。たとえ渦中にいても、未熟な私に何ができたわけでもなかっただろう。ただ距離があったぶん、醒めた目で見ることはできた。

メディアを通して知る好景気の乱痴気騒ぎを、自分には関係のないことと決めこんで、アルバイトに励み、音楽をたくさん聞き、本を読んだ。好きな女の子を追いかけ、酒と煙草を覚えて、サッカーに夢中になった。それでいていつも自分の将来に不安を募らせているごく普通の大学生だった。

 

結果的に三島は私にとって、東京(バブリーな日本)に対するアンチであり、オルタナティブだったわけだが、この静かな大学街にのんびり住むことで得たエネルギーは、アメリカに渡った後のがむしゃらな時期に役立った。「行きたい」という思いも含めて、4年間溜めこんだものがあったからこそ、大事な時に力を振り絞ることができた。

そんなことを考えながらぶらついていると、25年も経っているからいろいろ変わっていて、記憶にない建物もたくさん見かけた。

そのひとつが、私が通った大学の近くにある4階建てのビルだった。唐突な感じで立っているピカピカの建物に、名の知れた予備校の名前が掲げられている。

ふと若者たちの顔が眼に浮ぶ。

今日も脱出を試みて、地元の学生たちが必死になって勉強しているに違いない。一番多い行く先はやはり東京だろうか。一極集中や過疎の問題を考えると困ったことなのかもしれないが、彼らの意志はきっと固い。

 

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A Night in Hiroshima

アメリカには現在、2000発を越える核弾頭が配備されている。未配備や解体待ちを含めると、7000発以上の核弾頭があり、それが相変わらず他国への脅威になっている。そのことを私たちは知っている。

アメリカ政府は今、爆発力を制御し、狙いをより正確に定められる核兵器開発に1兆ドル(120兆円)のお金ををつぎ込んでいる。巡航ミサイル型という、核兵器の近代化を先頭切って図っているのは紛れもなくこの国で、そのことを私たちは知識としてちゃんと持ち合わせている。

それなのに、私たちの日本人の多くは、オバマ大統領の核兵器廃絶の呼びかけを額面通り受け止めているのか、彼の広島訪問を大いに歓迎したと言う。

その広島の献花では、大統領は頭を垂れることをしなかった。

スピーチでは謝罪はもちろん、投下の是非を問う言葉も周到に避けた。

そして演説の〆では、人類のモラリティについて言及した。つまり、かつて原爆を使った国のリーダーが、使った相手の国で人間としてあるべき道徳について説いたのだ。

それなのに、私たちの日本人の多くは、彼のスピーチに感激したと言う。

 

実は私もぐっときてしまったくちなのだが、それはやはり、オバマ氏本人の思いが見える訪問だったからだと思う。

自国での批判のリスク (控えている大統領選に絶対迷惑をかけられない)、言えば言うほどつっこまれる偽善 (核の超大国に廃絶を呼びける資格はあるのか)、そして、語れば語るほど明るみになる現実 (ぶち上げた削減交渉はまったく進んでいない) を考えれば、行かないほうが賢明だった。周りも反対しただろう。

でも彼は来た。強行スケジュールでやって来て、被爆者の手を握り、抱擁して帰った。岩国の米兵訪問とセットにしたり、記念館を10分だけにしたり、米国内の世論を気を使っている様子がありありだったが、それでも彼は本当に来て、言葉を残していった。

 

もちろんその言葉も、大半がスピーチライターによって準備されたものかもしれない。核兵器使用についての具体的な話を一切しないで、戦争そのものの悪について饒舌に語った演説はある意味ずるい。

でも「我々はなぜ広島に来るのか」という自らの問いに答えた、あの17分間の静かな語りの中に、熱いものを感じたのは気のせいだろうか。いかにもスピーチ然とした表現の羅列の向こうに、氏の底意を見た気がしたのは私だけだろうか。

ある新聞の記事によると、オバマ氏は安倍氏に「これは始まりだ」と言ったそうだが、本当に彼はこれから広島や長崎に何度も訪れて、核兵器の廃絶という難しい問題に力を尽すような気がしている。

 

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6秒の沈黙

トイレに行っていなかったのは失敗だった。小学生の卒業式を甘くみていたわけじゃないけれど、こんなに厳かな雰囲気で、こんなに長い時間やると思っていなかった。

そうは言っても、子供だってちゃんと座っているのに、大人の私がガサガサと席と立っておしっこに行くわけにはいかない。

でも我慢できなくなってきた。じっさいに膀胱がパンパンに膨らんでいたし、私には些細なことを「やってはいけない」と思えば思うほどやりたくなる性癖がある。結局、タイミングをみてパイプ椅子からそそくさと立ち上がった。

体育館の入り口の扉が重いので音を立てないように気をつけた。用を足してから、スピーチとスピーチの合間に席に戻った。ほっと一息。

ところがそれも束の間だった。ちょっとした異変が起こったのだ。

その日は風の強い日だったので、どこからかすき間風が入っていたのだろう、入り口の扉に貼ってあった模造紙が外れてバタバタと大きな音を立て始めた。これでは校長先生の祝辞が聞こえない。

腰を浮かせた私は... 躊躇した。1, 2, 3...

あちこちで父兄が顔を上げているが、誰も動かない。6ぐらいで私は立ち上がり、皆の「またこいつか」という視線を振り切って入り口に向かった。風に激しくなびいている紙を手で押さて貼り直した。一人でできる作業だったが、後から続々と駆けつけた先生やPTA役員たちに手伝ってもらい、補修はあっという間に終わった。

 

きちんとした式典の雰囲気は日本らしい。でも、席を立つのが憚られる空気もそう。あの何となく動けない、物が言いにくいという呪縛が昔から苦手だった。よく考えずに咄嗟に口を開いたり動いたりする子供だったから、学校でも家でも近所でも失敗や失言が多かった。そのうち一拍置くようになり、黙ることも、あえて行動を起こさないことも覚えた。

でも日本の外に出ると、言うべきことやすべきことを、タイミングを逃さずに言ったりしないとまずいらしい。そのことは渡米直後の留学生の集まりでさっそく教わった。

第一回目というその会合は、地域の大学の留学生のつながりを深めようという意図で開かれていた。後半は10人ほどのグループに分かれて、今後の活動アイディアを出し合う段取りになっていた。

活発な意見が飛び交う中、最後まで発言しなかった学生が二人いて、それが私ともう一人の日本人だった。「相変わらずお静かな人たちでして…」という進行役二人の言葉でグループ・セッションが終わり、ちょっとした日本人バッシングに驚いたが、その饒舌なインド人とニュージーランド人を相手に渡り合うガッツも語学力も当時の私にはなかった。

帰り際、同席の日本人になぜ黙っていたのか尋ねると、「自分の言いたいことは他の人に言われたから」という返事だった。私の方は「車を持ってない留学生ばかりがそもそも集まれるのか」と疑問を感じていたので、水を差すようなことは言わなくてもいいと考えて発言しなかったのだ。

以後、その会は二度と開かれなかったので、私の疑問は的外れではなかったはずだ。今となっては「皆口ばかりじゃないか」というツッコミも成立する。言えばいいというものではない。

ただ、それでも意思表示しなくてはならない、特に多文化の人間が集まる場では、重複しようが水を差そうがとりあえず口にしなければダメで、黙っているだけで周りの心証が悪くなることがあるということを、その集まりで、そしてその後もいろいろな場所で思い知らされた。

「まず口しろ、すぐ動け」という行動原則はシンプルで楽だ。外国語なので言いたいことがうまく言えず、それはそれで相当なストレスだったけれど、そこを差し引いても大きな開放感があった。相変わらず失言はしたし、行動を起こして後悔することもあったが、世によく言う「やらなかったことを後悔する」ことはなくなった。

 

卒業式では、数秒とはいえ席を立つのを躊躇したのだから、私はすっかりまた日本の流儀に染まったようだ。

模造紙がきちんとついていることを確認してから、すぐに忍び足で席に戻った。

校長先生の祝辞が続いている。

後ろの方までちゃんと聞こえているので、ちょっと得意げな気持ちになり、隣に座っている家人を見た。すると彼女は前を向いたままぴしゃりと言った。

「うるさい」

 

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ショーンKに告ぐ

甘いルックス、渋い声、一分の隙もない服装。「報道ステーション」に彼が出てくるたびに、なんとなく身構えたものだ。出来すぎ感が強すぎて、肝心なコメントが印象に残らない。

そのショーン・マクアードル・川上氏、学歴詐称が明るみに出た数日後に涙の声明を出した。とりあえずメディアから身を引いた。

虚偽の経歴を売りにしていた人物にニュースの解説を求めていたのだから、TV局にとっても笑えない話なのだが、翌日から巷の番組がフォーカスしたのは次の二点だった。

彼を許せるか? 彼は復帰すべきか?

つまり、あっという間に彼を裁く側に回ってモノを言っていたことになる。

 

ちなみに学歴や経歴を盛るという行為だが、ばれるリスクを覚悟でやる者がいるということ自体、効果の大きさをあらわしている。

固有名詞ひとつふたつで箔がつく世相は相変わらずだ。

箔のつく学歴とは無縁の私だが、アメリカではそのことをいっさい忘れさせてくれた。仕事をしていて「もっと学歴があれば」と思ったことも一度もなかった。そもそも職場では学歴の話が出ない。肩を並べて何年も一緒に仕事をしていた同僚が実はハーバード出だったということが実際にあったけれど、それくらい話題に上らない。

「いや、アメリカこそ露骨な学歴社会だ。MBAの給料を見ろ」と言う人もいるけど、あれはお金をかけてネットワークを広げた人材を採りたい企業が用意する、直近の転職時(つまり一度きり)のインセンティブで、キャリアについて回るような評価ではない。

もちろん競争は熾烈だ。ただ、日本の受験や就職活動のような全員参加型の一発勝負がないぶん、社会に出るまでの道のりはたくさんある。そして、出てからの評価は普段のパフォーマンスで決まり、常に更新され続ける。

 

日本に帰国後しばらくして、仕事場で面識のほぼのない上司に卒業した大学名を聞かれたことがあった。彼女の唐突な聞き方にこちらの身を固くさせる何かがあって、「あ、これだ」と思った。私の返答への彼女の反応は薄く、会話は弾まないまま終わった。

そう感じたのは単なる私のコンプレックスなのかもしれないが、20年以上押されることのなかったスイッチを押すトーンが彼女の尋ね方にあったことは間違いない。

ショーンKは何をきっかけに虚偽を始めたのだろう。

あの出で立ちとしゃべりの裏にはとてつもない執心と努力があったはずだ。学歴なんか盛る必要のないほどの執心と努力が。

墓穴を堀ったのは本人だし、許す許さないも、復帰するしないも私にとってはまったく関心外なのだが、少なくとも彼は人生前半のレースの結果を理由に諦めなかった。投げなかった。そして、一時的とはいえ、たぶん自分が望んでいたものを手に入れた。そのことは覚えておこう。

 

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放浪後記

ジャングル、行きてぇ」と言った彼女の眼が光った。

自分よりひと回り半も若いとはいえ、旅に出たいと言って力むような年齢でもない。でもティーンのころから海外で暮らしてきた彼女にとって、東京はもともと一時的な腰掛けの場所なのかもしれない。

「別に奥地で消えてもいいし」と過激なことを言い出すので、私は「まあまあ」ととりなす。我ながらつまらない話し相手だと思う。 

そういえば先日行った香港は、ホテルと仕事場の往復で終わった。忙しいことを言い訳に楽しむ努力をしなかった。勝手を知っている前回と同じホテルに泊まったり、食事をホテルの部屋で食べたりで、「いろいろ見てやろう」という気持ちが湧いてこなかった。以前持っていた知らない土地への思いはどこにいったのだろう。「行きてぇ」と叫んでいたのは自分だったのに。

金子光晴の「どくろ杯」。小田実の「何でもみてやろう」。沢木耕太郎の「深夜特急」。藤原新也の「インド放浪」。

10代のころ読んだ放浪記は私の身体と頭を熱くした。日本脱出を決心した私は、出国のタイミングを22歳の夏と決めた。ただバックパッカーになってアジアやヨーロッパを放浪するのか、留学生として米国に行くのか迷った。結局留学にしたのは、旅に出ても一、二年もすればお金と気力が尽きると思ったからだ。簡単には帰国はしないという目標があったので、移民の多い国に行くべきだと考えた。アメリカなら仕事にありつけるんじゃないか、実際に参加できるんじゃないかという予感があった。

 

辺境に行きたい。自分のことを知っている人がいない所に身を置きたい。自分を消したい...。

自然の静けさよりも街の喧噪が好きな私は、大学が休みに入るとシカゴやニューヨーク行き一日中街を歩き回った。夜を徹してうろつき、バス停や路上で寝ることもあった。お金をもたずに外国を彷徨っているとさすがにキツかったが 、自ら好き好んでやっていたことだ。あのとき自分は一体何をしていたのだろう?

ただそれに耐えられたのも、休みが終わればまた学生に戻れることを知っていたからだろう。

「路上」を書いたジャック・ケルアックを評して、「身分をワンランク落として遊んでいるだけ」という評論を目にしたことがある。アメリカ文学界の神を捕まえてずいぶんひどい言い方だと思ったが、意味はよくわかった。確かに主人公サル・パラダイス(つまり作者自身)の放浪も、すべてを賭しているように見えて、実はお坊ちゃんの冒険だとも取れなくはない。決して裕福ではないが、彼はその気になればマサチューセッツの叔母の家に帰れたのだ。

それを言えば上記の日本の作家たちも同じだろう。ギリギリの旅をしていたのとはいえ、必要なら日本に舞い戻れたはすだ。その意味では彼らの放浪も単なる旅行であり、レジャーではなかったと言い切れない。

 

その香港出張の最終日のこと。空港に向かう電車の中で、私の後ろに二人のアメリカ人が座った。自己紹介に続く矢継ぎ早の情報交換。会話を背中で聞いていると、ひとり旅をしている二人が車中で偶然出会ったことがわかる。どちらの口調にも若さと旅の興奮が滲み出ている。

微笑ましく思う反面、いかにアジアの国々がクレイジーで、いかに自分たちがワイルドなのかを酔ったように話し続ける彼らに、醒めた反応をしている自分に気づく。「身分をワンランク落として遊んでいるだけ」という例の批評が頭をよぎる。

ふいに「岩部さんは?」とジャングル行き志望の彼女に聞かれ、私は慌てて言葉をつないだ。

長い間不在にした日本に帰ってきて、ものすごく遠くに投げたブーメランがやっと戻った感じ。遠くに行きたいと今は思わないし、そもそも生活に追われてそんな余裕がない。でも子供が育って家を出たら、いつかまた海外に出ようという気になるかもしれない。

そう言いながら、「ホントかよ」と思っている自分がいる。

 

P.S. 彼女の南米行きが実現しますように。

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