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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ディア・アメリカ

アニメでもSF映画でもいい。空を飛ぶ巨大な乗り物が不時着する場面がある。

例えば宇宙船。風が吹き荒れ、辺りは轟音に包まれる。

周りのものすべてをなぎ倒して、地面を削りながらスライドしてゆくカタストロフィックなシーン。

止める術はない。

アメリカの新大統領の就任演説を見ているときに、なんとなくそんな映像が頭に浮かんだ。

ひと月経った今も、それは残っている。というか今じゃ火柱が見えるし、地響きや怒号も聞こえていて、私の妄想はどんどんハリウッド仕立てになってきている。

 

彼の国は、あの衝撃の意味を考える猶予もないまま、新政権に変わってしまった。で、矢継ぎ早に出される放言やリークや辞任劇に振り回されて、検証も分析もうやむやのまま怒涛のニュースサイクルに入ってしまっている、そんな気がする。

私もあの選挙の意味が知りたくて、就任式までのあいだ3ヶ月、いろいろなサイトをのぞくように心がけた。足元を完全にすくわれたメインストリームのメディアが、どう立て直すのかにも興味があった。

でも、新聞やTVに内省の声が上がりかけていた矢先、就任後の大統領がさっそくケンカを売ってきて、それどころではなくなった。今またメディアは噴き上がっている。

私がひとつ気になっているのは、今のアメリカのメディアのあり方と、トランプ氏のような男が選ばれる世相の関係なのだけど、いろんなことが入り乱れて訳が分からない。少なくとも私のアタマでは整理がつかない。

 

印象に残っている文章がある。

どこに載っていたか忘れたが、メインストリーム・メディアの失態は、世論調査を読み違えたからでも、トランプ氏を過小評価したからでもなく、保守層を完全な他者として片付けてしまったことにある、そういう内容の記事だった。

つまり、トランプ支持者を「教育のない貧しい白人」と決めつけ、彼らが誰なのかを知ろうとしなかったという指摘。確かに4割以上の国民が支持していたのだから(それは今でも続いている)いろいろな人間がいたはずだ。

「私はジャーナリストの一人として、トランプがなぜ支持を受けるのかということや彼の支持層について、真摯に取材するべきだったと感じています」

アメリカで活躍する、フォト・ジャーナリストの深田志穂さんから選挙直後に届いたメールの中に、まさにそのことを悔いる言葉があった。

ただ、そう考えたメディアの人間は、果たしてどれくらいいただろうか。

 

更にその記事にはこんな書き込みがあった。

今回のリベラルの詰め甘さには、ひょっとしたら、トランプとトランプ支持者たちの暴走を許す気持がどこかにあったからじゃないか。

これはどういうことだろう。

差別はダメだと正論を言いながら、内実は許容していたと疑っているだろうか。

暴言を表向きでは批判しながら、心のどこかで喝采していなかったかということだろうか。

それを認めたくない気持があるから、心の恥部にフタをするように、「彼ら」にわかりやすいレッテルを貼り、上から目線で切り捨てることにした...そういうことだろうか。

 

ポリティコというサイトに載った「トランプになった男」というタイトルのインタビュー記事は笑えた。これはただの舞台裏の紹介なのだけど、いかにもアメリカっぽいエピソードだった。

ワシントン近郊でコンサルタントをしている、大柄で気性の激しいある男性を、クリントン陣営は大統領選の討論の練習相手に選んだ。フィリップ・レインズという人物だった。

3ヶ月間、彼は取り憑かれたように準備した。映像を繰り返し見て分析し、話し方からロジックまで徹底的に研究した。演壇を買ってきて家に置き、だっぽりとした感じのスーツを手に入れ、どんな状況で何を言うかを予想した。マーロン・ブランドやロバート・デ・ニーロ顔負けの役づくりをしたそうだ。

ちょっとした立ち振る舞いも習得した。例えば、トランプ氏が会話相手とのアイコンタクトを避ける癖があることに気がついたレインズ氏は、壁にXと書いた紙を貼り、そこを見ながら話をする練習を繰り返したという。

彼のことは陣営内の数人にしか知らされず、すべてが秘密裏に行われた。

最初の模擬討論に現れた彼を見て、ヒラリー氏は驚愕した。

もともと顔見知りなので本名で呼びかけ、冗談を口にしてその場を切り抜けようとしたけれど、すでにモードに入っていた彼は取り合わない。昼休みになり、食事に誘う彼女を彼は無視した。

繰り返し行った彼との特訓のおかげかどうか、ともかくヒラリー氏は本番の討論で3度ともトランプ氏を圧倒した。

クリントン陣営にとって皮肉だったのは、ディベートでの勝利で「行ける」という雰囲気が生まれ、選挙レースの最後の詰めが甘くなったということなのだが...。

ちなみにレインズ氏の立てた予想がいろいろ的中したという。例えばトランプ氏は、一回目の討論の不調をマイクの不具合のせいにしたが、彼は模擬討論中にまったく同じパフォーマンスをしていたらしい。

 

そのレインズ氏が、選挙後に受けた最初のインタビューがこの記事だった。

新大統領について聞かれた彼は、こんなことを言っている。

「彼にとっては、政策を実際に行うことより、政策を発表することの方が大事なんだ。(中略)例えばメキシコとの国境で、カメラを前に壁造りの発表が出来ればそれで満足で、後はどうでもいいはずだ。」

ブラック・ジョークにしか聞こえないけれど、毎日のニュースを見ていると笑えない。一体これからアメリカがどうなるのか、この男の予想を聞いてみたい気がする。

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坂の途中

作家の丸谷才一は、坂のある町が好きだった。家も坂の近くを選んで住んだらしい。確かそんなことを書いたエッセイがあった。

私は住まいを決めるときに、坂のあるなしは考えなかったけれど、思い返してみると、確かに勾配の多い土地での暮らしは楽しかったような気がしてくる。景観が良いから散歩は間違いなく充実した。

ノースカロライナ州のローリーは、もともと起伏の多い街なので、その点で外れは少なかった。最初の家はダウンタウンに近い古い住宅街で、緩やかな斜面の途中にあった。外へ出て右が上りで、左は下り。車なら大通りに出るために必ず右に折れたが、徒歩では住宅街のさらに奥に向かって左に行った。年期の入った家々の佇まいや、前庭の木花を見るともなく見ながら、よく歩き回った。

次に引っ越した郊外のタウンハウスも、玄関を出てしばらく行くきつい上り坂があった。駆け上がると、視界が開けて州立公園の広大な緑が見渡せた。

 

散歩だけでなく、毎日のドライブにもめりはりがついた。

仕事場から自宅までの約20分の道のりは、アップダウンを繰り返しながら、プラタナスや松やハナミズキの巨木の下をくぐった。教会や食料品店やレストランをやり過ごし、ガソリンスタンドや美術館やアダルトグッズの店の前を通った。その間に音楽を聞いたり、ニュースに耳を傾けたり、ぼんやりしたり。

特に私が気に入っていた坂は、自宅から一キロほどのところにあった。

緩やかな弧を描きながら長い距離をかけて降下し、同じようにゆっくり上がってゆくスケールの大きなディップで、相当なスピードで走っても上りきるまで数分はかかった。ちょうどボウルの底にあたる真ん中は、谷間にかかる橋になっていて、その遥か下に小さな川が流れていた。沿道の雑記林の影に鹿の姿を見かけることもあった。

 

その坂のことを考えると、心に浮かぶ人がふたりいる。

まず、バラク・オバマ氏。

2008年の8月の末、民主党の大統領候補として党から指名を受けたとき、彼はコロラド州のデンバーで演説をした。8万人に及ぶ聴衆の前でおこなわれたこのスピーチは、国民に強烈な印象を残した。3ヶ月後の本選の勝利を予感させる、格別のパフォーマンスだった。

私はこの演説を仕事帰りの車の中で聞いていた。

夜もだいぶ更けていたと思う。その坂にさしかかったとき、バックミラーに後続車がいないことを確認してから、私は窓を全開にして、車を大きく減速させた。なぜかそうしたくなった。

有色人種が大統領になるなんて絶対にあり得ないと思っていたのに、スピーカーから朗々と流れる自信に満ちた彼の声を聞きながら、「本当に歴史が変わるんだ」と感じていた。民主、共和だけでなく、無党派層にも団結を呼びかける(つまり多様性を訴える)若いリーダーの出現に、そして、かつての奴隷の末裔をトップまで押し上げるこの国の寛容さに、ありていに言えば、私は深く感動していたのだ。

だから速度を落として、ゆっくりと感傷に浸りたかった。秋の予感を孕んだ爽やかな夜風に吹かれながら、このまましばらく走っていたいと思ったのを覚えている。

 

もうひとりは私の次女。

まだ妻のお腹にいた頃だから、もう10年も前の話しだ。彼女がある障害を持っていることを医者に言い渡され、当時私は大きなプレッシャーを感じていた。実際に産まれてくるまで判別しない合併症の可能性も指摘されていて、いろいろ心配だった。

その日、そろそろ夕食を食べようかというころ、妻に大きな陣痛がきたので、私たちは車で産婦人科へ急いだ。

例の坂の途中で、丘と丘のあいだから覗いた夏の夕陽が車内を照らした時、ふと、まだ決まっていなかった彼女の名前を「晶(あきら)」にしようと思い立った。どんな状態で産まれてきても迎える準備はできた。すでに授かっているいのち、もうそこで燦々と輝いているだろう光にリスペクトをという意味もこめて、とびきり明るいイメージ、いや、光そのものを名前にしようと思った。

気持をこめてアクセルを踏むと、すごいスピートが出た。

坂を登りってふたつめの信号の向こうが病院だった。

到着して15分もかからなかったスピード出産だったので、その後はバタバタになり確認しなかったけれど、彼女が産まれたとき空はまだ明るかったと思う。

 

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私の浪費癖

イヤホンに浪費してしまう。しょっちゅう断線するし、うっかり置き忘れたりして長く持てない。ないと通勤が退屈になるので、また新しいものを買い求める。

音圧とか再生周波数帯域とかリケーブルとか、くわしくは語れないけれど、ものによって聞こえる音の違いにはいつも驚される。国産もの、輸入もの、いろいろ使ったけれど、高音が伸びるけどキンキンせず、低音に迫力があってもこもらない、何より音楽を聞いていて疲れない一本に出会うのはけっこう難しい。

お気に入りは大事に使うのに、半年もしないうちにダメになる。もっとも電車の座席の袖にひっかけたまま引っ張ったり、床に落ちているのに気づかないで椅子のコマで踏んだり、自分の不注意が原因で壊してしまうのだけれど。

前回は節約しようと思い安いものを買ったら、音がスカスカでまったく使う気になれなかった。試聴しないで買った自分も悪い。

見た目や装着感のよさはもちろん、音が漏れないことも大事だ。乗り物の中では周りに迷惑をかけたくない。ただ、最近の製品はこの点については問題なくて、外の音が遮断されすぎてもしろ困るくらい。音楽に心を奪われたまま歩くとけっこう危ない。

 

その昔ウォークマンが出たてのころは、皆チープなヘッドホンを頭に載せていて、あれは音漏れがひどかった。

 私の高校の国語の先生は、電車の中で若者のヘッドホンから漏れてくるシャリシャリという音を聞いて、そういう音楽なのだと思っていた。それが流行の音楽なのだと。

「みなさん、あんな音楽聴いて楽しいんですか !?」

大きな声でクラスに問いかける先生に、誰も何も答えなかった。

「違うよ、先生、あれはヘッドフォンから漏れている音なんだよ」

今ならそう言えるけど、当時、ベテランの教師に生徒が面と向かって間違いを指摘できる雰囲気はなかった。忘れものをした生徒の頭に拳骨をふるう人だったし、堅物というイメージであまり人気のない教師だった。

でも授業は面白かったし、好きだった国語を3年間続けて習った先生だ。私は密かに慕っていた。だから皆といっしょにスルーしないで、休み時間に「ほら」とヘッドホンを彼の頭に乗せて教えてあげればよかった。満員電車でふとそんなことを思い出しては、小さく悔いている。

 

奥田瑛二の短編「家においでよ」は、妻との別居を機会にがらんどうなったマンションのリビングに、物を買い足してゆく40男の話しだ。 家具に頓着しなかった男が、炊飯器やカーテンを買い、ソファやテーブルを探しているうちに興に乗ってしまい、ついにはオーディオ・セットに手を出す。そのマンションに妻帯者の同僚たちが集まって、80年代のレコードを聴きながらこんな会話をする。

「おれ、思うんだけど、男が自分の部屋を持てる時期って、金のない独身生活時代までじゃないか。でもな、本当に欲しいのは三十を過ぎてからなんだよな。CDやDVDならいくらでも買える。オーディオセットも高いけどなんとかなる。けれどそのときは自分の部屋がない…」

「まったくだ。おれなんかCDを買っても聴けるのは車の中だけだぜ」

「まだまし。おれなんか通勤中のiPodだけ。車の中でロックをかけると子供たちがうるさがる」

このあたりの言い分はとてもよく分かる。私も自分の部屋は持ってないし、リビングでオルタナティブ・ロックをかけるとすぐに娘たちのブーイングが飛んでくる。誰にも気兼ねなく、大音量で好きな音楽を聴けるのは通勤中だけなのだ。だから最高の音質で聞きたい!

という言い訳を胸に、近いうちにまた電気屋さんに行こう。

ちなみに気に入ったイヤホンがない間、つなぎで使うのがアップルの例の白いやつだ。なぜかこれだけは断線しないし、iPhoneを買い替えるたびについてくるからいつも手元に数本ある。

でもこれを付属品だと思ってなめてはいけない。音は平板だけど慣れるし、ゆるゆるの装着感も使っているうちに気にならなくなる。とくに熱い思いは持てないのに、仕事はきちんとこなすので安心して使えるプロダクトというのは、どの世界にも必ずあるようだ。

 

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飲み会で言えなかったセリフ

「あのさ、せっかくの場がしらけるし、正論振りかざすのは嫌なんだけど、やっぱり言わしてもらうわ。さっきからそれで何回も笑いとってるし。大体こういう笑いがあるから本性を隠すんだよ。 一人二人の大声で言う悪口より、こうやって大勢でなんとなく笑うほうがよっぽどダメージ大きいから。

ここじゃオレが一番年長者みたいだけど、皆んないろんな所行って、いろんな経験積んでるだろ。今までたくさんの人間とつき合ってるはずだから、身近にそういう人がいないなんてありえない。もしそう言い張るなら、それは周りが隠してるんだよ。言えないんだよ。

もちろん随分変わったよ。オレが学生のころなんかひどかったから。今みたいにメディアで取り上げられるなんてこともなかったし、誰かがちょっとでもそんな素振り見せればよからぬ噂になってすぐ広まった。でもこういう揶揄を見るとまだまだだと思う。偏見の根は深いんだなって。そういう芸人をメインストリームとして受け入れることはできても、隣に座ってる同僚には眉をひそめるんだから。

自分の身近に最後までクローゼットから出なかった人がいたんだけど、家族を含めて、ほぼ誰も知らなかったと思う。彼が死んでしまったことと、そのことにどれくらい関係があったのかわからない。でも苦しかったんだろうなと思う。何か力になれることがあったんじゃないかってずっと思ってる。

だからって特に何をしている訳じゃないし、そもそもこうして『自分たちvs.彼ら』の図式で語ること自体ダメなんだろうけど、でも妙に腹立ってくるわけ...。マジョリティであることに安心して、ヘラヘラ酒飲みながら、ゲイの悪口を言っているお前らのその面見てると」
 

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究極のPC

「どれがあなたの赤ちゃんですか?」

振り返ると、大柄な黒人男性が立っていた。

彼がそこにいるのは知っていた。しばらくのあいだ二人で、窓越しの新生児たちを黙って眺めていたから。もうすぐ夜が明けるころだった。

私は自分の娘が寝ているベットを指差した。

「とてもかわいい。おめでとう」と彼は笑みたたえたまま言った。

礼を述べながら、私はちょっとした感慨に打たれていた。自分の子供がビューティフルと言われたからではない。私が感心したのはその前の言葉、「どれがあなたの赤ちゃんですか?」だった。

つまり、こういうことだ。

その夜、アメリカのサウス・カロライナ州のパプティスト病院で産まれた赤ちゃんは6人いた。夜明け前、新生児室に並んで寝かされたその6人のうち、黒髪を生やしたアジア人の赤ん坊は一人しかいなかった。だから、私の外見を見れば私の子は一目瞭然だ。

にもかかわず彼は、「Which one....?」と聞いてきた。

この国のマナー、PC(ポリティカリー・コレクト)を発揮したのだ。

確かに私が他の赤ちゃんの父親や親族である可能性はゼロではない。でもこれは確率の問題じゃない。そんな状況でも、むしろだからこそ、外見で物事を決めつけないという正しさ(コレクトネス)は強調される。

 

あなたがアメリカに住んでいて、パーティーに出たとする。職場や近所での雑談でもかまわない。初対面の話し相手がアジア系で、流暢な英語を喋っている。でも、どうもネイティブには聞こえない。さて彼、もしくは彼女の出自をそれとなく尋ねるのに、最もPCな聞き方は次のうちどれでしょう?

 A) Where are you from?

 B) Are you from this area?

 C) Are you Chinese?

Cはもちろん冗談。聞き方さえ気をつければ、Aでもオーケーなのだけれど、あなたがこの国に通じていることをさりげなくアピールしたいなら、答えはBです。

一見地元の人間に見えない人に、あえて「地元の方ですか?」と尋ねるのは、万が一そうだったときのための予防線なのだが、何よりも、相手のことを外見や言葉のアクセントで判断していませんよというメッセージを送っているだ。そしてこれが、意外に大事なエチケットになる。

 

今回の大統領選挙のサプライズは、ドナルド・トランプ氏の躍進だ。ある程度の支持は予想できても、まさかここまでくるとは思わなかった。今になってようやく自滅してきているとはいえ、もし明日選挙があったら4割以上の人が投票するというから驚きだ。

彼が受けている理由のひとつが、「言いたい事を言ってくれるから」。メキシコ人やイスラム教徒に対する発言だけでなく、彼はマイノリティー全般に対して言いたい放題で、それが支持者の熱狂を呼んでいる。

Compassion fatigue という表現がある。情熱を持ちつづけることに疲れてしまうこと。これになぞらえれば、アメリカの白人たちは今、 PC fatigueに陥っているのではないか。もうこんなに面倒くさいことはせずに、偏見も何もかも含めて、すべて本音をぶちまけたいという彼らの思いが、トランプ氏のようなエキセントリックなアジテーターをここまで押し上げているのではないか。

確かにPCは面倒だ。いわゆる「言葉狩り」になってしまう傾向もある。身体障害者を disabled people と呼ばず、physically challenged people に置き換えることにどんな意義があるのか。

もちろんネガティブな響きがする disabled という言葉を回避することの意義を一番よく知っているのは、実際に身体に障害をもっている人たちだ。同じ意味で、日本人としてアメリカで暮らした私は、PCの大事さを知っている。PCにもとづいた人種に関する言葉のエチケットを受け取ることで、ともすれば折れそうになる心を救ってもらってきた。

偏見のない心も社会もあり得ない。それでも、理想に近づくために、あらゆる手だてを使ってその芽を摘もうとする気概には感心せざるをえないし、それがあの国の魅力なんだと思っている。そして、トランプ氏は必ず敗れるとも。

 

産まれたての娘を褒められたことはもちろんうれしかった。

ひと呼吸おいてから、私は改めて新生児室を見渡した。

みっつ向こうのベットに黒い肌の赤ちゃんが眠っている。寝顔がお世辞でなく可愛らしい。

私はそれを伝えるために、彼の方に向き直ってまず尋ねた。

「どれがあなたの赤ちゃんですか?」

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ここではないどこか

地方の出の人ほど、東京に住みたがる。それもお洒落とされる区や駅の近くに。

なんて書くのは、やっかみが半分。東京の住まいに手がでない私は、自分の生まれ育った神奈川県の戸塚という街に戻り、そこから毎日長い時間をかけて東京駅まで電車通勤している。

そして今更ながら東京の大きさと多様性を知り、驚いている。

ちなみに高校が神奈川県の藤沢市、大学が静岡県の三島市だったので、若いころ私は西へ西へスライドしていったことになる。

高校生の私にとって、東京はレコードを買いに行くかコンサートを見に行く場所だった。卒業後の進路を決めるときも特に意識はしなかった。頑張れば通えてしまう距離なので、都内の大学=一人暮らしというプランも立たなかったし、無理して住みたいとも思わなかった。

大学の4年でもともとあった脱出願望を大きくしていったのだが、いきおい、目指したのは海外だった。自分にとっての「ここではないどこか」は始めから外国だった。

もし地元がもう少し東京から離れてたら、私はまっすぐに日本の首都を目指したと思う。英語に Love depends on geography (出会いは住んでいる場所で決まる)という言い方があるが、それを言えば、Life depends on where you start、つまり、出身地はその後の人生の道のりを左右する大きなファクターのひとつということになる。

 

先日、久しぶりに三島へ行った。かけ足で駅前の「大岡信ことば館」を訪れたことはあったが、ゆっくりするのは何年ぶりだろうか。

東海道線に揺られて西へ向かうと、平塚と大磯の間から風景が変わり始める。延々と続いていた郊外の匂いが消えて、緑が荒々しくなる。やがて海が見える。

この辺りから三島までたくさんのトンネルがあるのだが、ほとんどが数十秒で通り抜けられる短いものだ。海の青、木々の緑、トンネルの闇。このみっつが窓の外に現れては消え、車内が明滅する。

小田原で再び風景が開けるが、すでに街の佇まいが違う。駅前をぶらついたことしかないので語る資格はないけれど、小田原の醸し出す空気は私の知っている神奈川の街の空気とかなり違っている。

そして、熱海駅を出た直後に始まる、今度は長い長いトンネルを抜けると、まるでそれが儀式だったように、時間軸が一変してしまったような函南に入る。もうここは別世界だ。その理由を私は、富士山の呪術力の射程に入ったからだと思っている。三島はすぐそこだ。

 

大学の恩師とお昼を食べた後、思いがけず、一人歩きをする時間ができた。

でも街並を横目で見るようにして歩いたのは、思い出をなぞるような行為にしたくなかったから。かつて通った、三島大社の裏手のアパートから銭湯までの路地を避けたのも、行きつけだったラーメン屋の店先から、聞き覚えのある「マスター」の声が聞こえたのにそのまま通り過ぎたのも、ウェットな訪問にしたくないという気持ちがあったからだ。

富士の湧き水が縦横に流れる、この美しい街を歩きながら、なんて退屈なところだと思った。

そして、当時の私にはそれが好ましかった。

1988年から1991年というキンキラの時代に私は大学生だったが、バブルの喧噪は三島には届かなかった。たとえ渦中にいても、未熟な私に何ができたわけでもなかっただろう。ただ距離があったぶん、醒めた目で見ることはできた。

メディアを通して知る好景気の乱痴気騒ぎを、自分には関係のないことと決めこんで、アルバイトに励み、音楽をたくさん聞き、本を読んだ。好きな女の子を追いかけ、酒と煙草を覚えて、サッカーに夢中になった。それでいていつも自分の将来に不安を募らせているごく普通の大学生だった。

 

結果的に三島は私にとって、東京(バブリーな日本)に対するアンチであり、オルタナティブだったわけだが、この静かな大学街にのんびり住むことで得たエネルギーは、アメリカに渡った後のがむしゃらな時期に役立った。「行きたい」という思いも含めて、4年間溜めこんだものがあったからこそ、大事な時に力を振り絞ることができた。

そんなことを考えながらぶらついていると、25年も経っているからいろいろ変わっていて、記憶にない建物もたくさん見かけた。

そのひとつが、私が通った大学の近くにある4階建てのビルだった。唐突な感じで立っているピカピカの建物に、名の知れた予備校の名前が掲げられている。

ふと若者たちの顔が眼に浮ぶ。

今日も脱出を試みて、地元の学生たちが必死になって勉強しているに違いない。一番多い行く先はやはり東京だろうか。一極集中や過疎の問題を考えると困ったことなのかもしれないが、彼らの意志はきっと固い。

 

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