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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

写真について 1

「写真なんて、誰でも撮れる」とは私の父の言葉だが、これには一理も二理もある。シャッターを切れば写るのが写真だから、5歳の子供と写真家を二人並べて目の前の風景を撮らせたら、子供の作品の方がずっと面白かったなんてことは充分にありえる話だ。

昨秋の帰省の折、東京都写真美術館に立ち寄ったのは、操上和美氏の作品を見るためだったが、違うフロアーでやっていた日本写真家協会の展示で印象に残ったことがあった。公募の中から選ばれたアマチュアの作品が受賞のカテゴリー別に入り口付近に置いてあり、プロを中心にした協会メンバーの作品が奥に飾ってあったのだが、すべて見終えて私の心に残ったのは入り口の写真の方だった。プロに比べて技術も見せ方も遥かに劣っているのに、撮ることの喜びが伝わってくるのは断然こちらの方だった。

目の前の風景や人や、今ここにいる時間が愛おしく感じられることがある。心が震えたり、熱くなったりするちょっとした瞬間。もちろんそれがそのまま写るのかと言えばそうではなく、ここから話がややこしくなるのだが、それをカメラに収めたいという衝動あったなら、特別な一枚を撮るための最初のハードルはもうクリアしている。親が撮る子供のスナップや、恋人同士で撮ったポートレートにいいものが多いのはこのためだ。

上手に撮るために機材や技術の話になるのは当然だけど、そのエリアがあまりにも広大なためか、たいていが「カメラ」の話に終始してしまう。技術としての写真と、表現行為としての写真が大きく乖離していて、なかなか同じレベルで語られることがない。なぜだろう?

ダンスをしたり、歌ったり、料理をしたり。表現の方法は人それぞれで、写真というメディアを上手く使えれば、それはそれで楽しい。本当は「押せば写る」ゆえに写真は深くて難しいだが、そこはあまり考えすぎずに、「あー、いいな、これ」と思ったときにカメラに、携帯に手を伸ばしてバンバン撮る。そしてどんどん人に見せる。

先日、友人に写真のコツを聞かれたのでそう答えたら、ちっともアドバイスになってないという顔をされた。確かにソーシャル・メディアを覗いてみれば、そんなことはきょうび皆当たり前にやっているのが分かる。いい時代だと思う。

 

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