f8

暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

絞りは標準

このブログのタイトル、f8は、「F8. Be there」というフォトジャーナリストへの箴言からとった。どうしたらいい写真を撮れるのか問う弟子に、マスターがひと言、「F8。その場にいること」と答えたというエピソードは、アメリカでよく耳にした。

F8とはFocal8、つまりレンズの絞りの真ん中の数値のこと。ようするに、絞りなどカメラの操作は適当でいいけれど、まずその場に居なくて始まらない、大事な瞬間にそこに居ればいい物が撮れる、マスターはそう答えたのだ。

もちろん、この禅問答的エピソードは、事故現場などに居合わせる運について語っているわけではない。写真を撮る前にていねいな下調べをしたり、人との関係を作ることで、初めて大事な瞬間に居合わせることができるという取材の基本を逆説的に諭しているのだ。大切な回り道をないがしろにするなという教訓だ。また、カメラの技術は「あって当たり前でしょ」という軽い突き放しも含んでいる。

実際に見ないと分からないことは沢山ある。電話ですべてを済ませてしまう記者たちと仕事をすることがあったが、彼らの記事は、現場に足を運んで書く記者の記事には敵わなかった。

写真は外へ出て行かないと撮れないので、写真記者はいつだって現場至上主義的でいられるけれど、今度は逆に、物事の表層を追ってしまうという落とし穴がある。どう見えるかにこだわりすぎると、表面だけを見て分かったような気になりがちになる。そのバランスがむずかしい。

それでも、コンピューターの前に座っていては何も始まらない写真を撮るという行為は、頭でっかちにならずにすむし、もともと身体を動かすことが好きな私には性に合っていた。

他人の家の中、刑務所や裁判所や学校、仕事場に事故現場。新聞社での仕事は私を様々な場所へ連れていってくれた。何を持ち帰ったはともかく、私は現場に居続けることができた。ガイジンには場違いと思われるような所にもずいぶん顔を出したが、強い違和感を感じながらも、心のどこかでそのことを愉しんでいた。

ただ、この仕事を永続させることはできなかった。

カメラを手に、アメリカのコミュニティを徘徊することにマンネリと疲れを感じ始めていた去年のある日、仕事が退けた夕刻にひとり街中を散歩していると、通りすがりの見知らぬ男にドキリとするような事を言われた。

「あなたはカメラを持っていないと、孤独に見えるね」

仕事も住む国も変わり、はたしてどれだけできるのか分からないが、これからも、巷をうろつき、場違いなところにも顔を出す、コアな現場至上主義者でいれたらと思う。

 

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