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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

写真について 2

以前友人から「ウチで簡単デジカメ教室やってよ」と言われても、いい加減な返事をしてはぐらかしていた私だが、彼女は顔が広くて料理が抜群に上手い人だったので、もし一緒に組んで会を催したらけっこうな数の人が集まったかもしれない。引き受けたとしたら、どんな話ができただろう?

まず、オートはやめようということ。自動ほど便利で素晴らしいものはないが、これに頼っていると撮影の際の選択の理由を考えなくなる。プロでもこの落とし穴にはまるケースがあって、かつての同僚にどんな状況でも絞り優先で撮影する写真記者がいたが、彼女はいつの間にかブレた絵をよく撮るカメラマンになっていた。もちろん「ブレている=悪い写真」ではないのだが、効果をねらってそうしたのではなく、暗いからブレてしまっていたのでこれではアウトだ。

直感的に素早くシャッターを切ったり、動いている被写体を追うのにオート・フォーカスは欠かせないが、少しでも準備できる時間があるのなら、私は今でもマニュアルで焦点を合わせる。それはオート・フォーカスが100セーント正確ではないからで、機械に頼ってショットを逃がしていたら道具に使われていることになる。

もしあなたが一眼レフを使っているのなら、絞りとシャッタースピードを常にマニュアルに設定することをお薦めします。どうしてそのコンビネーションで撮るのかを考えるくせがつくうちに、選択の幅が広がり、いろいろ面白いこともトライできるようになるから。

対象に近づくことは、今さら私が言わなくても、古今東西の著名な写真家や批評家がさんざん口にしてきたことだろう。「もし自分の写真がよくないと思うなら、被写体に近づくことだ」は、ロバート・キャパのあまりにも有名な言葉だが、西井一夫という写真評論家が書いた「基本的に写真は.. (中略)..レンズに飛び込んできた光をすべて受容して、光を通して対象物と触れあう装置だと私は思います。だから写真は見る装置ではなく、光を媒介としてものに触れる接触装置だと思います」という文章なども、究極的には同じことを言っているのではないか。彼のこの見方はいつ思い返しても新鮮だ。

あるいは、米国のドキュメンタリー・フォトグラファーのユージン・リチャーズを評して、チャールズ・ボーデンというライターは“The camera must take him past the document and into the flesh of the thing itself."と表現した。これは「彼(リチャーズ)にとって写真は記録することを越えた、被写体そのものと同化する行為」ということだろうか。

写真を撮り始めたころ、こんなアドバイスを方々で読んでいた私は、人の頭が切れた作品ばかり撮っていた時期があった。単に人に近づきすぎてフレームに納まらなかったからで、これは半分笑い話だが、ただそれでも、いくら構図は破綻していても、思い切り寄ることでしか撮れないものを撮っていたことにちがいはなく、なかには今見ても面白いと思えるものがある。

手で触れられるほどに近づいてみよう。それで相手が身を引いたなら、それはあなたのせいだ。意図が分かってもらえていないのは愛が足りていないから(!)で、そんな時はカメラを顔の前から一刻も早く下ろして、「あなたを決して傷つけません」という無言のメッセージを全身全霊で届けなくてはならない。

絵はシンプルにすること。これは思うほど簡単なことではない。カメラマンとしての経験の有無は、作品の背景を見れば分かるといわれる。どれだけ細部に眼が行き届いているかがよく分かるからだ。

フレーム内に収めるのであれば、遠くの木一本でも意識していなければならないということで、もしそれが不必要なのであれば、例えば左右や上下に数センチ動くなりして枠から取り除かなければならない。

写真はよく絵と比較されるが、作品を創る行為はもしろ彫刻に似ている、そう言ったのはアメリカの写真家、ラルフ・ギブソンだ。彫刻家が石や木の塊を削りながら作品を創るように、フォトグラファーは現前する事物のなかから不必要なものを取り除いてゆくのだ。つまり、絵は加えてゆく (additive) 作業だが、彫刻や写真は引いてゆく(subtractive) 作業だと。もうこれ以上削れなくなったときに作品は完成している。もちろん押せば写るという写真機の特性を生かして、わざとすべてを含むような撮り方もあるのだが、それはまた別の話だ。

最後は共感する力。こればかりは人から教わるものではないかもしれないが、私が会ったことのある優れたフォトジャーナリストたちは皆この部分が抜きん出ていたように思う。コンフェレンスやワークショップで彼ら、彼女らと同席すると、他人の作品を見たり話を聞いたりしているときでも、ちょっとしたエピソードにすぐ感激して涙ぐんだりする。その反応のビビットさにはこちらが驚かされ、その度に私は自分のシニカルさを思い知らされた。

「共感」は英語で「シンパシー」だが、もう一歩踏み込んだ言葉に「エンパシー」がある。他人の境遇を、頭で理解するだけでなく、自分の事のように感じる能力。自分の知らない世界に対するジニュアンな興味 。つまりは、己を空しくして外界と向き合うことであり、それは写真を撮るという行為そのものにつながっている。

こんな事を喋りながら、いろいろな人の作品をスライドで見せる。それからお昼を出して、食後は参加者に近所に散ってもらいスナップを撮ってきてもらう。午後遅くもう一度集まり、お茶をいただきながら皆の写真を見て、お互いを励まし合ったところでお開き。大体こんな感じになったと思うけれど、食事のメニューは何がよかったかな、ミホコさん?

 

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