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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

孤独な隣人

かつて私は、国境沿いの街に住んでいた。エリーとオンタリオというふたつの湖の間を流れる川の途中に、大量の水が落下するポイントがあり、氷河期にできたというその絶景を見るために世界中から人々が訪れる街だ。ニューイングランド様式の家の一画を借りていた私は、窓を開け放つと聞こえてくる滝の轟音を耳にしながら日々暮らしていた ... 

などど書いて、昔の自分を美化するのはやめよう。私にとってのナイアガラ・フォールズは、ひどく孤独な時間を過ごした場所なのだから。実をいうと、駆け出しの写真記者だった当時の私は、仕事に追われる毎日で、時間もお金もなく、友人と呼べる仲間もいなかった。

観光地化がうまくいっていない街は意外なほど廃れていたし、確かに大きな家の最上階に住んでいたのだが、老朽が激しくて家屋全体がゴキブリとネズミの巣窟になっていた。でも月325ドルの家賃では文句も言えない。全部で9つある部屋の住人たちのなかには、精神を病んだ者やアル中患者がいて、ワケあり人間の集まりだった。私は「風変わりな東洋人」としてそこに色を添えていたことになる。

その家の一階の角部屋に、ひとりの老人が暮らししていた。

大きな窓が通りに面しているため、家を出入りするたびに部屋の中が見えたが、男はいつも同じソファーに同じ姿勢で座ってテレビを見ていた。深夜私が仕事から帰宅するときも、部屋の中でちらちらと青白い光が蠢いていて、壁や天井や彼の眼鏡の上で踊っていた。なんて寂しい老後なのだろうと思った。

胸まで届く大雪が降ったある日曜日、私は気まぐれを起こして彼の部屋を訪ねた。今からフットボールの試合をテレビで観るならお邪魔してもいいかと聞くと、彼は驚いた表情を見せ、しかしドアを開けて私を招き入れた。

テーブルの上に薬や食べ物が散乱していたが、部屋は思ったよりこざっぱりしている。ただ、他人の匂いは微塵もない、まぎれもない独り者の空間だった。私が持参したビールを固辞した彼は、慣れた手つきでティーバックのお茶を入れてゆっくりとすすった。

地元のバッファロー・ビルズが試合に勝ったのか負けたのか思い出せない。ともかく私はゲームが終わるまでその部屋にいた。老人は言葉少なで、私の質問にもあまり反応しなかった。テレビ中毒のような暮らしをしている彼の素性はほとんど何も分からなかったが、私は満足して立ち去った。

彼のことを突然思い出したのは、柳田邦男の新著に以下のような引用があったからだ。渡辺良という神経内科医の文章を論じたもので、つまりこれは「バビンスキーと竹串」という渡辺氏のエッセイからの抜粋。

 会えば足や腰が痛いと訴えるばかりのこの寝たきり老女への訪問診療は、はじめはわたしにいささか退屈と苦痛を感じさせるものであった。ところがあるときから、たったひとりで生活しているこのひとの生きているその息づかいのようなものにこころが向くようになった。足も立たず歩けず、狭い部屋に寝るか坐るかただそれだけの動きに毎日の時間を過ごしている、そのような人のあり方、その生きる世界の可能性がわたしの何かを撃った。老いた身体のなかにこころが徐々に閉じ込められてゆくかのような人生の終末期にあって、その極度に制限された空間のなかで彼女は実は驚くほど主体的に生きているのではないか。そして、その生活空間の狭さゆえに、凝縮されて味わう人生の時間の濃度はそれまでより濃いのではないか、などと想像する。

私はあの老人のことをテレビを観ることぐらいしかできない孤独な男と決めつけて、憐れみの気持ちさえ抱いていたが、何か思い違いをしていたのではないだろうか。寝たきりの老人でも豊かな精神生活をおくることができるということ、そして、健常者よりもよほど濃密な時間を過ごしているかもしれないことをこの文章は教えてくれる。

さらに付け加えるなら、人との会話の温もりを求めていたのはむしろ私の方だった。あの日一人でテレビ観戦をしたくなかったのは私だし、普段の帰宅時も、なぜか彼の様子が気になり、部屋の灯りがついているかをいつも確かめていたことを思い出す。

あの日以来、彼の部屋を訪れることはなかったが、メールボックスや共同使用の洗濯機の前で会うと、我々は「やあ」とか「寒いね」などと挨拶を交わすようになった。

やがてサウス・カロライナに念願の転職先を見つけた私は、喜び勇んで街を出た。

3年間住んだあの家をいよいよ去るとき、彼は玄関先まで出てきて私を見送ってくれた。

「気をつけて行きな。」

 

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