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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

すみません、中間報告です

日本に帰国してもうすぐ7ヶ月になる。妻と娘たちにとっては5ヶ月。いろんな意味でゼロからの再スタートだけれど、今のところ誰もへばらずにやっている。子供の、そして女性のタフさと柔軟性に改めて感心している。

帰ってきてまず何に日本を感じたかというと、やはり空気で、といっても「空気が読めない」の「空気」ではなく、文字通り大気中の湿気とか匂いのこと。成田空港で飛行機を降りたときに感じるアレ。

その次はいろいろ一挙に押し寄せたのでどれとは言えないけれど、なだれ込んでくる情報をプロセスするうちによみがえってくる、自分にとっては馴染み深いもろもろのこと。それにいちいちに喜んだり、嘆いたり、加えてこの20数年で変化したことに驚いたりしているとやたら疲れる。私は今ヘトヘトだ。

でも何よりも帰ってきたことを実感させてくれるのは、周りで飛び交う、そして気づけば私も口にしているこんな言葉たちだ。

「すみません」「頑張ろう」「お疲れさまです」「よろしくお願いします」「みんなの思い」「気づいてほしい」「態度で示そう」「感謝の気持ち」「思いやりをもって」「しっかりやろう」「分かってやって」「周りに支えられている」

ちなみにこれらを外国語に正確に訳すことは可能だろうか。少子高齢化の対策に移民の受け入れの必要性が説かれてしばらくになるが、この国の文化に馴染みない人たちと肩を並べて働き暮らそうと思うなら、まずそこから始めなければならないような気がする。

 

これらの言葉を耳にすると、学生時代の部活動を思い出す。22歳で海外に出た私にとって、家庭やアルバイト先を除くと、いわゆる日本的な社会性を身につけた場所は学校だった。なかでもサッカーと野球の練習に注いだエネルギーは膨大なので、当時のことに影響を受けていないはずがない。

もちろん好きで取り組んでいたし、良い思い出もたくさんあるが、パフォーマンスがすべてという米国の合理主義にどっぷりと身を浸してしまった今から振り返ると、あの時グラウンドを支配していたものはやはり異様に感じる。

例えば声を出そうとか、道具を持って走ろうとか、倒れるまでやろうとか。ボール拾いも、挨拶の仕方も、練習皆勤も、すべてプレーのクオリティー以前に問われる何かであり、そこをクリアしないと評価の対象にならないあの世界。

もうそんな時代じゃないよ、という声も聞こえてくるが、メディアに出てくるスポーツ選手のコメントを聞いると、コアな部分はあまり変わっていないように思える。現在私は中学校の横に住んでいるが、風に乗って聞こえてくる運動部員のかけ声やコーチの叱責の言葉は、20数年前に私が使ったり耳にしたものと驚くほどよく似ている。

さらに言えば、場を包む膜のようなもの、意味のないルールの縛り、結果よりプロセスを重視する傾向や異質なものを相容れない雰囲気など、私が今感じている息苦しさの要因は、かつての私が学校の教室やグラウンドでなんとなく感じていた息苦しさの要因と同じということになる。

 

小学4年生の私の娘が昼休みに英語の本を広げると、囃し立ててやめさせようとするクラスメートがいるらしい。日本人の私にはすぐに目に浮かぶ光景だが、アメリカで生まれ育った彼女にはショッキングな出来事にちがいない。他人は他人という大前提があるあの国では、例え彼女がエスペラント語の本を読もうが教室の隅で逆立ちを始めようが誰も余計な干渉はしない。やめさせることはありえない。

私に似たのか、彼女には少し「KY」なところがあるようだ (やっぱりこっちの「空気」の話しになってしまった)。でも、それでいい、そのキャラで押してほしいと思っている。「空気」を読むことなんかに一生懸命にならなくていいから、社会学者の宮台真司が言っていた「KK」でいこうよ、つまり、「空気を変えろ」でいこう、そう言って彼女の背中を押してあげたい。

親の勝手な願いなのかもしれないが、娘たちには、私が振り切れなかったものを振り切って欲しいと思っている。

 

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