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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ダブルテイク

その女性は輝いていた。窓から差し込む朝日をいっぱいに浴びて、目を閉じながら、ラフマニノフのピアノ協奏曲に聞き惚れていた。

夜が明けて間もない渋谷の松濤。出勤前の一杯が飲みたくて開いたばかりの喫茶店に入ると、先客が一人いた。ブースの一画に座っているその中年女性を眼の端にとらえながら、私はコーヒーをブラックで注文した。

マフラーを外して上着を脱ぎ、店の中央にある椅子に腰を落ち着ける。両手をカップで温めながらふと見ると、その女性がコートを着たままでいるのに気がついた。店内は暖かいのに、寒いのだろうか?

よく見ると、きちんとした身なりだったが全体的にくすんだ印象がある。相変わらず目を閉じていたが、店内の音楽に聞き入っているように見えた表情は、実は何かにじっと耐えているように見える。座席には大きな手提げ鞄が置いてあった。

最初の一瞥で、コーヒーとクラシック音楽を優雅に楽しんでいる婦人だと私は決めつけたが、どうやらその見立ては違ったようだ。彼女には何か事情があり行く場所がないのではないか。この店に来る前もどこか他の店にいて、同じように座わり続けて夜を明かしたのではないか。彼女の身体から滲み出ている色濃い疲労を見ると、そう考えるのが自然だった。

始業の時間が迫っていた私は立ち上がった。一瞬迷ったが、私は彼女に声をかけずに店を出た。横を通り過ぎるとき見下ろすと、後ろでまとめた髪型は崩れかかり、はねた白髪が数本頭の上で光っていた。

 

その朝から数日後の帰り道に、こんなことがあった。

「マジでそれ、やばくね?」

「そっちかよ!」

ボキャ貧の女子高生の会話は耳障りだ。カラフルなマフラーに丈の短いスカートというお馴染みの装い。鞄についたぬいぐるみ。二人とも馬鹿笑いしている。

彼女たちと同じタイミングで地下鉄の改札口を出たので、そして偶然同じ方向に歩き続けたので、私は数分間二人のおしゃべりにつきあうことになった。

自分たちのお弁当の話題になったとき、一人のトーンが変わり、自嘲ぎみに言った。

「今日も、ふりかけだけ」

なぜ?と問う相手に、その子が早口で語る。お母さんは昔から朝は絶対に起きないし、おばあちゃんも部屋から出てこない。だから自分で作るけど、前日の夜にバイトが入ったときは疲れて起きれない。最近は炊飯器のご飯をとりあえずつめて家を出る… 

深刻だけど相手に媚びないその打ち明け方は悪くなかったし、聞き役の子がとても優しかった。絶妙のタイミングで相づちを打ち、心配している様子がひしひしと伝わってきた。

橋上に続く階段を登り始めた二人は、橋の下を行く私と別れた。寄り添うふたつの背中が薄闇の中に消えたとき、ついさっき改札口で抱いた彼女たちの印象はもう覆されていた。

 

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