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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

山田町再訪

「生きたかったら逃げろ」

何本目かの煙草をくゆらせながら、ボソッと東海林さんは言う。

「で、年寄りから先に見捨てろ」

彼にも家族がいる。だから「自分でもできっかわかんねぇけどな」とつけ加える。

あの日、彼の家族は海から遠いところにいた。自営の看板屋で一人作業していた彼は、車で高台を目指した。道が渋滞した途中からは車を乗り棄てて走った。自宅も店も車もすべて流されたが、命は助かった。

「震災から3年経っての感慨は?」という私の質問に対する答えがこれだった。つまり、また大地震が起これば津波は必ずやってる。その時はめいめいで避難すべきで、人を助けようと思ってはいけない。特に若い者たちは年老りには構わずに逃げなくてはならない、と。

ちょうどその前日、私は釜石市に在住している友人から「津波てんでんこ」について教え聞かされていた。防災の標語としては比較的新しいが、「津波がきたら各自でんでバラバラに逃げろ」という教えは古くから三陸海岸地方で言い伝えられてきたらしい。恥ずかしながら私はこのことを知らなかった。

今回の津波では、その言い伝えが守られたとは言い難い。東海林さんの住む岩手県山田町でも800人以上の人が犠牲になった。多くの知り合いを亡くした彼が、あの教訓をもう一度思い出せという感慨に捕えられても不思議はない。

 

でも東海林さんの話しには続きがあった。

他人を構っていて命を落とした人もいたが、それはごく小数で、実は大半の人が「欲」によって津波にさらわれてしまったと言えるのではないか。一旦は避難していた人々が、お金とか、車とか、何か大事な物を自宅に取りに戻ったタイミングであの波は来たのだから...。

そういえば3年前に避難所で出会ったときも、彼はドキリとするような話しをしてくれた。

役場には家を失くした人たちが寝泊まりしていたが、朝食が済むと、彼らは焦土と化した街に散って行った。3.11から3週間が経っていた。津波に流された大事な物、特に家族の位牌や写真を探すために歩き回っていると聞いて、私は心を痛めた。

しかし、それとなく東海林さんが教えてくれたのは、被災者たちの間で囁かれているある噂だった。

何件かの家から流されたはずの金庫が見つかっておらず、その行方を探し回っている人が少なからずいる。そして、実際これまでにも、瓦礫の中から大金を見つけ出した人がいるらしい... 。 

 

被災前後の人々の行動をとやかく言う資格は私にない。

それどころか、もし私が被災して家を失っていたら、他人の財産でも何でも見つけたいと切望しただろうし、地震直後に一旦避難していても、津波の来る様子が見えなかったら金目の物を取りに帰ったと思う。私が言いたいのはこのことではない。

私が記しておきたいのは、想像を絶する災害と被災者たちを前にして途方にくれていた時、こういうリアルな話しがいつにも増して心に迫ってきたということだ。誤解を怖れずに言えば、何か大事なものを垣間見れたと感じた瞬間だった。

家族の位牌や写真を探して彷徨うのも人の子なら、他人の金を血眼になって探すのも人の子だ。人間の業を感じさせるこんなエピソードにこそ私の心はなびいたし、美談や悲劇と平行して語られるべきものだとも思った。

 

3年ぶりに訪ねた私を東海林さんは暖かく迎えてくれた。

仮設店舗の一画で看板屋を再開させていたが、最近始まった地面の嵩上げのため近々そこも取り壊されてしまう。でも「食っていけるだけ稼げればいいから」なんとかなると思っている。

街の再建の道のりは厳しいというのが彼の見立てだ。このペースでは、10年経っても復興は実現しないだろう。

しかし、「もらうことが当たり前になっている」同胞たちには苦言を呈する。自分も仮設店舗を利用しているので偉そうには言えないが、被災者たちは援助におんぶに抱っこしすぎではないか? はたしてそれでいいのか?

彼の前で、私はただ頭を垂れるのみだ。

元気そうに見えたが、つい最近まで原因不明の高熱で寝込んでいたらしい。病床に臥している間くり返しみる夢があった。闇のなかの一本道を歩く自分の姿と、沿道を埋め尽くす大小の針山。「これが地獄なんだなって思った」と言って、東海林さんは静かに笑う。

一日でも早く、彼の見る夢の中の風景が穏やかなものになりますように。何とかして心の平穏を取り戻しますように。

 

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