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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

偶然のことば

自分より年下が多い職場にいるからだろうか、同僚から恋愛相談をもちかけられることがある。たいしたアドバイスはできないので、話を聞くぐらいなのだが、嘆いたり喜んだりくるくる変わる若い人の顔は端で見ていても気持ちがいい。こういう感想を持つこと自体、自分がおっさん化している証拠なのだろうけど。

心を決めるのにあたって、彼や彼女たちを後押しするのが偶然らしい。街中で続けてばったり会ったとか、同じ日に同じ映画を観ていたとか、実は共通の知人がいたとか。どんな些細なことでも、ふたりに間に起こる必然性の欠如した出来事は諸手を上げて歓迎される。

丸谷才一の小説「女ざかり」には、広い東京で三日続けて出会ったことで結ばれたカップルが主人公として登場する。その偶然について、男はこんな講釈をしてみせる。

神の死といふ事件があってから、いや、これは日本の場合も含めて、宗教の力が失つてからと言ふほうがいいけれど、人間は神とか仏とかまあさういふものを信ずる代わりに、ロマンチックな愛を信ずるようになつた。ところが、このロマンチックな愛の象徴に一番なりやすいものが偶然なんだ。どうもさうらしいや。

 

先日、私にもこんなことがあった。音楽好きの友達にCDを作って渡したのだが、そのうちの一曲がアンジャーニという歌手の「サンクス・フォー・ザ・ダンス」だった。この曲を彼女が気に入ったと聞いて、私は歌詞の一部をメールで送った。ワルツを踊る女性が語るのは、相手男性との美しく物悲しい関係だ。

It was fine it was fast

I was first I was last 

In line at the Temple of Pleasure

But the green was so green

And the blue was so blue

I was so I

And you were so you

The crisis was light as a feather 

翌日、彼女から返信があった。その日図書館で借りた本の中に、件の歌詞によく似た和歌を見つけて驚いたという知らせだった。

嬉しさは空の水色、葉のみどり、君と知りつる夏の夜の色

相容れぬ二つの性を盛る器、我という器、持ちあぐみけり

これは「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子が若いころに書いた詠草の一部らしい。朝ドラ「花子とアン」で最近有名になったとはいえ、彼女が戦後間もない頃「婦人新報」に書いた和歌を、カナダ人のアンジャーニが読んでいるはずがない。しかしメールに抜粋した箇所は、このふたつの和歌をそのまま意訳したみたいだ。

ただ表現が似ていた… ということなのだろう。それで納得することにしよう。

では、私の友人がこの歌詞と詠草をほぼ同時(一日違い)で目にしたことについては、一体どんな説明が可能だろうか?

 

残念ながら彼女と私はロマンチックな関係になる間柄でも何でもないのだが、もし出会いを求めている者同士の誰かに同じことが起きたとしたら、この偶然はそのまま「愛の象徴」となって、ふたりはさっそくつき合いを始めるにちがいない。

 

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