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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

湘南新宿ライン 3

おっさんの耳たぶなんか見たくない。おねえさんのうなじだってそんなに近くで見たくない。

誰のであれ、しみや産毛やほくろは見たくない。

つり革広告に助けを求めたり、目を閉じたり。スマホや文庫本に逃げるのが一番だけど、激混みの状態ではそれすら許されないのだから、これはやはり苦行としか言いようがない。

今さら満員電車の話しかなどと言って突き放さないでほしい。長い時間かけて通勤している私にとっては切実な話題なのだ。日々車中で目にする風景は心のなかに澱のようにたまってゆく。

白状すれば、疲れているとき私はグリーン車に乗る。でも私が利用する路線は混雑するので、ラッシュ時にはグリーン車でも座れないことがある。追加料金を支払ってデッキの片隅に立っていると疲労もかなり割り増しになる。

 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の主人公は電車好きの男だ。

鉄道会社で駅舎の設計を仕事にしているという、ハルキ・ワールドにはそぐわないメイン・キャラの設定で、新宿駅で彼が電車の発着を眺めて心を落ち着けるシーンをはじめ、この交通機関をめぐる諸々が好意的に語られる。

村上春樹と通勤電車? この意外な取り合わせに私はつい勘繰ってしまう。

ひょっとしたらこれは、作者から普通の人間(満員電車に毎日乗っているあなたや私)へのささやかな贈り物ではないか。売れすぎた作家が自分の読者のために作品中に仕込んだポピュリズム、つまり大衆迎合の一種ではないか、などと。

物語の終わりの方では、海外のメディアで話題になったという、日本人の通勤風景を捉えた一枚の写真についてもくわしく書かれている。日本人が下を向いて改札を出るのは、実はうつむいているのではなく足元を気にしているからだなんて、まるで作家本人が海外の読者に向けて弁明しているような箇所がある。

 

通勤電車も悪いことばかりじゃない。

変わったところから言うと、私には閉所恐怖症の気があるが、満員電車では不思議と平気なのだ。車内で息苦しくなると私は「共闘」という言葉を思い浮かべる。周りの人たちを共に何かに取り組んでいる同志に見立てると、心が落ち着いてパニックを起こさない。これは冗談ではない。

もちろんスペースを確保できれば、本や音楽やSNSに没頭できる。仮眠をとってもいいし、人間観察をしてもいい。

そしてたまに妙な体験ができる。

 

「はよ帰ろー、今夜はおいら、はよ帰ろー」

その歌声を聞いたのは最寄り駅の改札だった。声の主は斜め前の中年男性だ。発声練習にしてはいい加減すぎるし、口ずさんでいるにしてはこぶしがきいている。朝からふざけているのか、単にご機嫌なのか。気になった私は彼の後についてホームへ上がった。

私が乗る電車に男も乗るらしく、空いている列に並んだ。真後ろに立った私は、歌の続きが聞けないか耳を澄ました。突然彼が振り返ったのはその直後だ。

ねめつけるような激しい視線だった。不意を突かれた私は目を逸らす余裕すらない。「お前の考えていることはすべてお見通しだ」と言わんばかりの意味深な目で、確かに私はすべてを見透かされたような気持ちになった。

10秒近く経っただろうか、もうこれ以上この状態に耐えられない思った瞬間、彼は視線を外してゆっくり前に向き直った。間もなく電車が到着した。

ところが彼は電車に乗ろうとしない。最後に乗り込んだ私は自然と体をホーム側へ向けたので、ドアが閉まるまでのあいだ彼と再び対面することになった。しかし男は、遠くに視線を預けたまま何事もなかったように穏やかに佇んでいる。

グレーのスーツに淡い緑のネクタイ。ベージュのコート。どれも品が良い。褐色の肌に切れ長の目。白髪は多いが姿勢は良い。なぜ電車に乗らないのか。なぜ私を睨んだのか。混乱した私を乗せたまま電車は走り出した。

そう、なかなか暇しないという点でも、通勤電車は捨てたもんじゃない。

 

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