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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

皆殺しのバラード

街角で見かけたポスターのタイトルだ。落ち窪んだ眼をした白髪混じりの男が歌っている。あるミュージシャンのドキュメンタリー映画だという。

私はそこで初めて山口富士男の死を知った。

1960年代の「ザ・ダイナマイツ」、70代の「村八分」、そして80年代の「ティアドロップス」。メインストリームからは程遠かったが、時代時代で常に影響力を持つバンドを率いてきた日本を代表するロックンローラーだ。

しかし私にとっての山口富士男は、ソロ・アーティストとしての存在が一番大きい。というのも、大学生の頃友人がくれた「PRIVATE SESSION」のテープが長い間私のお気に入りだったからだ。「錆びた扉」で始まるアコースティック・セッションはとびきりかっこよかった。

寂しさに暮れているのに潔く、優しさに満ちているのに尖っている。確かに彼の歌には心をえぐる鋭さがあった。

結局私は劇場公開を見逃すのだが、ネットで予告編を見ると、この映画は彼の晩年のコンサートを撮ったものだという。キース・リチャーズ風のよれっとした趣でギターを弾き、べらんめえ調で歌い、ステージから客に罵声を浴びせる。楽屋裏でも誰かに絡んでいた。

どうやら彼は年を取っても怒れる男で居続けたらしい。

 

その正反対、つまり孫を可愛がり、趣味を嗜み、いつも穏やかで人の手を煩わせないというのが日本における理想の老人の典型だろうか。

でもそれも軽薄だ。「足るを知る」という静かな生き方を若いころから実践してきたのならわかるが、大抵の人は欲望に従順に生きてきたのに、年を取って急に好好爺然とし始める。病気したり引退した途端に禅の本を買い求め、インスタントに悟りを開くなんてちょっと猾くないか。

かといって、いつまでもわがままを貫いて周りに迷惑かけっぱなしというのもみっともないけれど。

20代の頃、自分が中年になったら何を考えているか想像つかなかったように、今の自分に、将来どんな老人になるのかはわからない(長生きしたらの話しだけど)。今年80歳になる自分の父親を見ていると、好好爺が顔を出す日もあれば、まだまだ現役だと自己主張する日もある。

たぶん人は心情的にその両極の狭間を行きつ戻りつ暮らすのではないか。いつか来る、迫りつつある終わりが穏やかであることを願いながら。

 

山口の終わりはちっとも穏やかでなかった。

新聞によると、昨年の7月15日の深夜、彼は横田基地のある東京福生市のタクシー乗り場にいた。その場にいた会社員が女性に道を教えていたところ、女性と面識のある米国軍人とその息子が通りかかった。二人は彼女が絡まれていると勘違いして会社員を殴りつけたという(変な話しだ。本当だろうか)。もみ合いに参加した山口は、息子の方に突き飛ばされて頭部を地面に強打し、脳挫傷を起こす。そして一ヶ月後に病院で死亡した。

仲裁に入ったのか、加担しようとしたのか、あるいは挑発したのか。記事からは事の詳細は不明だ。

ただ突き飛ばされる一瞬前の彼の形相は想像できる。「てめえふざけるな」とか「ファック・オフ」とか叫びながら、凄い眼をして、自分の倍はあろうアメリカ人に歯向かっていったにちがいない。

ケンカによる不慮の死。悲しい結末だ。でも失礼を承知で言わせてもらえば、長患いの末亡くなったり、事故でもお決まりのドラッグのオーバードースで逝ってしまうより、ずっと彼らしいような気がする。享年64だった。

胸に刺さる歌をありがとう。

 

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