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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

マリー・エレン・マーク (写真について 5)

先月の末、マリー・エレン・マークが亡くなった。その死を海外メディアは一斉に伝えた。こんな扱いを受ける写真家は世界に何人いるだろうか。彼女が指折りだった証拠だ。

私は彼女に一度会ったことがある。そして思いきり睨まれた。

 

アメリカ・メーン州のロックポートという港街で行われるワークショップでのこと。私はユージン・リチャーズが教える一週間のコースを履修していたのだが、同じタイミングでマーク女史も来ていた。

コース枠に関係なく聴講できる彼女のレクチャーがあり、会場は満員になった。最後に設けられたQ&Aコーナーで私は思い切って手をあげた。

「人と成り、というものについてどうお考えになりますか?」
「 ... 」

「というのも、あなたの最近の作品を見ていると、内面より外見、つまり被写体がどんな人物であるかよりも、どう見えるかの方のあまりにも重きが置かれているような気がするので… 」

「作為的なことは一切しないわ!」

質問をさえぎるようにして彼女は答えた。語気の強さに会場の空気が変わった。

「カメラで人を殴るわけじゃあるまいし」

これが最後の質問となり、気まずい雰囲気を残したまま催しが終わった。私は手を挙げたことを後悔した。

ただ帰り際、参加者の一人が近寄ってきて私にこう言った。

「何が言いたかったのかよく分かるよ。いい質問だった」

 

発表するたびに作品が話題になった彼女だが、キャリアの後半にテンションが落ちたのは明らかだった。私が一番気になったのは、双子のシリーズなど、奇を衒ったようなポートレートが当時目立って増えていたことだった。被写体の特異な外見ばかりが強調された肖像に迫力は感じなかった。ずるいとさえ思った。その批判を質問に変えて(しかも下手な英語で)ぶつけたのだから、彼女がムッとしたのも当然かもしれない。

この一件をリチャーズ氏に話すと、マーク女史についてのエピソードをひとつ語ってくれた。

ふたりともニューヨークを拠点にしているので、同じ暗室を借りていて、時折そこでばったり会うらしい。現像したばかりのネガを見せ合うこともあり、お互いの仕事を熟知しているのだが、リチャーズ氏はある傾向に気がついていた。いつの頃からか、マーク女史のネガにはまったく同じ画が延々と並ぶようになっていたという。

彼は「彼女に何かが起こったんだ」とだけ言い、それ以上は語らなかったが、私には象徴的なエピソードに聞こえた。

もちろん撮影の仕方は人それぞれなのだが、いいものをゲットしたときは撮影中にわかるものだ。被写体が動いていれば追いかけるし、アングルや絞りなどの微調整をしながら撮り続けることはある。しかし、まったく同じフレームを撮るためにシャッターを押し続けるカメラマンはいない。

彼女のような偉大な写真家が、なぜ同じ画を繰り返し撮ったのだろうか。

 

ワークショップの最終日、キャンパスでは打ち上げが開かれた。屋外でロブスターを食しながらおしゃべりをするのだが、私が座っていたテーブルにマーク女史も加わった。私に気づいた彼女は、冷たい目をこちらに向けた...ような気がした。

気のせいだったのかもしれない。私は凡百無名のカメラマンであり、彼女にとっても数多くいる生徒の一人にすぎなかったのだから。でも食事のあいだ、彼女は斜め向かいにいる私の方を決して見ようとしなかった。

私にはもうひとつ彼女に伝えたいことがあった。それは、彼女の1970年代、80年代の作品は長いあいだ私のお気に入りで、写真集を何度も何度も見返したということ。家出したアメリカの少年少女やインドのサーカス団員の写真は、被写体の息づかいが聞こえてくるような親密さに溢れていて素晴らしかった。いわゆる異端者や社会の底辺にいる人々を撮り続けたこともあり、奇才と言われたダイアン・アーバスとよく比較されたが、私はマーク女史のより温かく、よりジャーナリスティックな視点の方にずっと魅力を感じていた。

亡くなった翌日、ニューヨーク・タイムズに告知が出た。記事の中に彼女自身の言葉が紹介されていた。

「初めて写真を撮りに出たときのことを覚えているわ。フィラデルフィアの街で、通りを歩きながら見知らぬ人たちとおしゃべりをして、彼らを撮影したの。そして、すぐに思った。『素敵だわ。これなら永遠に続けられる』って。それ以来、この気持ちがぶれることはなかった」

75歳だった。

 

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