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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ナショナル・アンセム

 その「事件」は高校入学のオリエンテーション合宿で起きた。

長い一日の終わりにキャンプ・ファイアがあり、クラスごとに歌を披露することになっていた。

次々に発表が終わり、最終組だった私たちが立ち上がった。他のクラスのように流行り歌にすればいいのに、寸前になって「君が代」を歌うことに決めたのは、単に皆と違うことをしたかったからで、選曲にそれ以上の意味はなかった。

低く歌い始めると周囲に「おっ」という空気が流れ、気をよくした私たちは次第に声量を上げた。そしてハイになったのか、最後は大声で叫んでいた。歌い終わると、クラスメイトの誰かが突然始めた「バンザイ」に皆が反応して、あっという間に両手を上げての三唱になってしまった。

ここで終わっていれば問題にならなかったかもしれない。だが、別の誰かが「だいーにっぽんていこくー」という合いの手を入れると、勢いでもう一度バンザイ三唱が起きた。教師たちが真っ青になった。

 

直後にクラスの緊急ミーティングが開かれた。

頭を垂れて担任の話を聞くクラスメイトたちが何を考えていたのかわからなかったけれど、自分自身は釈然としない気持ちで座っていたのを覚えている。調子に乗りすぎたことは認めるが、国歌を大声で歌い、一昔前の軍人や一般人の振る舞いを真似ることがそんなにひどいことなのだろうか、当時の私はそう思っていた。

「あの戦争で日本人が何をしたのか、君たちは知らないのか」

普段は温厚だった担任が険しい顔で尋ねた。私たちは沈黙した。

ベテランのN先生が怒り心頭だとも言った。N先生は長崎出身で、壮絶な被爆体験もしている…。そんな情報もつけ加えられてミーティングは終わった。

 

実はN先生は、その高校の一年生の日本史を受け持っていた。満州事変から太平洋戦争にかけては三学期まで出てこないが、私はそのときを心待ちにした。クラスの「事件」が蒸し返されるのは嫌だったけれど、彼が戦争について何を語り、どうまとめるのかにとても興味があった。

でもN先生は教科書に載っていることにしかふれなかった。解説も分析も検証もなかった。「事件」については蒸し返しどころか言及さえしなかった。被曝体験の話が一度だけあり、さすがにこれには皆引き込まれたが、それ以外はまったっく何も語らなかった。ひどい肩すかしを食らった気がした。

「あの戦争で日本人が何をしたのか」について言えば、私と私のクラスメートたちは、教科書の本文数行といくつかの傍注を読むだけで終わった。

 

こんなことを思い出したのも、辺見庸の「1★9★3★7」を読んだおかげだ。「イクミナ」と読ませ、1937年を「皆が征った」年とし、その年に中国の南京で行われた膨大なスケールの略奪・強姦・殺戮を日本人はいかにしてやってのけ、いかにして忘れてきたかを、当地に従軍していた作家の堀田善衛や武田泰淳や筆者の父親の文章を使ってあぶり出してゆく。

私たち日本人の加害者としての意識の希薄は一体どこからきているのか。それだけでなく、惨禍をもたらした侵略戦争の最高責任者に向かって「総一億懺悔」をしたり、原爆を落とした敵国にすぐにすり寄ったり、被害者としても道理にかなっているとは言い難い一連の行動をどう説明するのか。それらを辺見氏は執拗に問う。

彼が胸ぐらを掴むようにして問いただしている相手は、あったことをなかったとか、それほどでもなかったとか言い出す向きよりも、リベラルを含めたそれ以外の人間たちだ。負の歴史を書き替えようとする者たちよりも、史実そのものを語ろうとしない大勢の人々だ。

辺見氏自身も、軍の士官として蛮行にかかわっただろう自分の父親に対して、当時のことは何も尋ねないで済ませてしまったと書いている。私の周りでもN先生だけではない。改めて思い起こせば、親や祖父母をふくめて、先の戦争について通り一遍のこと以上を語った人などいなかった。

不問に付す。それが日本人の心髄なのだと言われても、仕方ないような気がしてくる。

 

大学卒業後、私はアメリカに渡った。日本で国旗国歌法が成立する7年前のことだ。

そこで私は彼らの国歌斉唱に頻繁に立ち会った。学校、議会、スポーツの会場、軍の基地...。写真記者という仕事柄もあり、普段から聞く機会が多かった。週一回だったとしても、帰国までに千回を超えたことになる。

もちろん歌わずに起立して静聴するだけなのだが、初めは何気なく聞いていたその歌も、国家が時として個人におよぼす暴力というものについて考えをめぐらせればめぐらせるほど、アメリカの傲慢で矛盾に満ちた外交政策を知れば知れるほど、しんどいものになっていった。

特に911のテロの直後、米国内の世論が一気に右傾化した頃の斉唱には、人々の異様な昂揚と陶酔が透けて見えて気味が悪かった。すぐにアフガニスタンへの爆撃が始まり、しばらくしてイラクへの侵攻が始まった。戦時という非常時のもとで聞く「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」は、国歌斉唱という行為が国威の掲揚に果たしている役割の大きさをまざまざと見せつけてくれた。(それでも諸外国と同様、斉唱を強制する法律がないことは強調しておきたい)

この不快に関して、個人的に何か行動を起こしたかと言えば、何もしなかった。2分間我慢してその場をやり過ごした後は、撮影に専念することで忘れた。家に帰って書物で考えを深めることもしなかったし、同僚や友人と議論することもなかった。議論を避けたのは、ひょっとしたら「強いアメリカの恩恵を受けてきた自分の国はどうなんだ」とか、「おまえ『永住権を取りたい』って言っていたじゃないか」と反論されるのが怖かったのかもしれない。

私はこのことを、自分の子供たちにいつかきちんと説明するだろうか。

 

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