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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

放浪後記

ジャングル、行きてぇ」と言った彼女の眼が光った。

自分よりひと回り半も若いとはいえ、旅に出たいと言って力むような年齢でもない。でもティーンのころから海外で暮らしてきた彼女にとって、東京はもともと一時的な腰掛けの場所なのかもしれない。

「別に奥地で消えてもいいし」と過激なことを言い出すので、私は「まあまあ」ととりなす。我ながらつまらない話し相手だと思う。 

そういえば先日行った香港は、ホテルと仕事場の往復で終わった。忙しいことを言い訳に楽しむ努力をしなかった。勝手を知っている前回と同じホテルに泊まったり、食事をホテルの部屋で食べたり、「いろいろ見てやろう」という気持ちが湧いてこなかった。以前持っていた知らない土地への思いはどこにいったのだろう。「行きてぇ」と叫んでいたのは自分だったのに。

金子光晴の「どくろ杯」。小田実の「何でもみてやろう」。沢木耕太郎の「深夜特急」。藤原新也の「インド放浪」。

10代のころ読んだ放浪記は私の身体と頭を熱くした。日本脱出を決心した私は、出国のタイミングを22歳の夏と決めた。ただバックパッカーになってアジアやヨーロッパを放浪するのか、留学生として米国に行くのか迷った。結局留学にしたのは、旅に出ても一、二年もすればお金と気力が尽きると思ったからだ。簡単には帰国はしないという目標があったので、移民の多い国に行くべきだと考えた。アメリカなら仕事にありつけるんじゃないか、実際に参加できるんじゃないかという予感があった。

 

辺境に行きたい。自分のことを知っている人がいない所に身を置きたい。自分を消したい...。

自然の静けさよりも街の喧噪が好きな私は、大学が休みに入るとシカゴやニューヨーク行き一日中街を歩き回った。夜を徹してうろつき、バス停や路上で寝ることもあった。お金をもたずに外国を彷徨っているとさすがにキツかったが 、自ら好き好んでやっていたことだ。あのとき自分は一体何をしていたのだろう?

ただそれに耐えられたのも、休みが終わればまた学生に戻れることを知っていたからだろう。

「路上」を書いたジャック・ケルアックを評して、「身分をワンランク落として遊んでいるだけ」という評論を目にしたことがある。アメリカ文学界の神を捕まえてずいぶんひどい言い方だと思ったが、意味はよくわかった。確かに主人公サル・パラダイス(つまり作者自身)の放浪も、すべてを賭しているように見えて、実はお坊ちゃんの冒険だとも取れなくはない。決して裕福ではないが、彼はその気になればマサチューセッツの叔母の家に帰れたのだ。

それを言えば上記の日本の作家たちも同じだろう。ギリギリの旅をしていたのとはいえ、必要なら日本に舞い戻れたはすだ。その意味では彼らの放浪も単なる旅行であり、レジャーではなかったと言い切れない。

 

その香港出張の最終日のこと。空港に向かう電車の中で、私の後ろに二人のアメリカ人が座った。自己紹介に続く矢継ぎ早の情報交換。会話を背中で聞いていると、ひとり旅をしている二人が車中で偶然出会ったことがわかる。どちらの口調にも若さと旅の興奮が滲み出ている。

微笑ましく思う反面、いかにアジアの国々がクレイジーで、いかに自分たちがワイルドなのかを酔ったように話し続ける彼らに、醒めた反応をしている自分に気づく。「身分をワンランク落として遊んでいるだけ」という例の批評が頭をよぎる。

ふいに「岩部さんは?」とジャングル行き志望の彼女に聞かれ、私は慌てて言葉をつないだ。

長い間不在にした日本に帰ってきて、ものすごく遠くに投げたブーメランがやっと戻った感じ。遠くに行きたいと今は思わないし、そもそも生活に追われてそんな余裕がない。でも子供が育って家を出たら、いつかまた海外に出ようという気になるかもしれない。

そう言いながら、「ホントかよ」と思っている自分がいる。

 

P.S. 彼女の南米行きが実現しますように。

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