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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ここではないどこか

地方の出の人ほど、東京に住みたがる。それもお洒落とされる区や駅の近くに。

なんて書くのは、やっかみが半分。東京の住まいに手がでない私は、自分の生まれ育った神奈川県の戸塚という街に戻り、そこから毎日長い時間をかけて東京駅まで電車通勤している。

そして今更ながら東京の大きさと多様性を知り、驚いている。

ちなみに高校が神奈川県の藤沢市、大学が静岡県の三島市だったので、若いころ私は西へ西へスライドしていったことになる。

高校生の私にとって、東京はレコードを買いに行くかコンサートを見に行く場所だった。卒業後の進路を決めるときも特に意識はしなかった。頑張れば通えてしまう距離なので、都内の大学=一人暮らしというプランも立たなかったし、無理して住みたいとも思わなかった。

大学の4年でもともとあった脱出願望を大きくしていったのだが、いきおい、目指したのは海外だった。自分にとっての「ここではないどこか」は始めから外国だった。

もし地元がもう少し東京から離れてたら、私はまっすぐに日本の首都を目指したと思う。英語に Love depends on geography (出会いは住んでいる場所で決まる)という言い方があるが、それを言えば、Life depends on where you start、つまり、出身地はその後の人生の道のりを左右する大きなファクターのひとつということになる。

 

先日、久しぶりに三島へ行った。かけ足で駅前の「大岡信ことば館」を訪れたことはあったが、ゆっくりするのは何年ぶりだろうか。

東海道線に揺られて西へ向かうと、平塚と大磯の間から風景が変わり始める。延々と続いていた郊外の匂いが消えて、緑が荒々しくなる。やがて海が見える。

この辺りから三島までたくさんのトンネルがあるのだが、ほとんどが数十秒で通り抜けられる短いものだ。海の青、木々の緑、トンネルの闇。このみっつが窓の外に現れては消え、車内が明滅する。

小田原で再び風景が開けるが、すでに街の佇まいが違う。駅前をぶらついたことしかないので語る資格はないけれど、小田原の醸し出す空気は私の知っている神奈川の街の空気とかなり違っている。

そして、熱海駅を出た直後に始まる、今度は長い長いトンネルを抜けると、まるでそれが儀式だったように、時間軸が一変してしまったような函南に入る。もうここは別世界だ。その理由を私は、富士山の呪術力の射程に入ったからだと思っている。三島はすぐそこだ。

 

大学の恩師とお昼を食べた後、思いがけず、一人歩きをする時間ができた。

でも街並を横目で見るようにして歩いたのは、思い出をなぞるような行為にしたくなかったから。かつて通った、三島大社の裏手のアパートから銭湯までの路地を避けたのも、行きつけだったラーメン屋の店先から、聞き覚えのある「マスター」の声が聞こえたのにそのまま通り過ぎたのも、ウェットな訪問にしたくないという気持ちがあったからだ。

富士の湧き水が縦横に流れる、この美しい街を歩きながら、なんて退屈なところだと思った。

そして、当時の私にはそれが好ましかった。

1988年から1991年というキンキラの時代に私は大学生だったが、バブルの喧噪は三島には届かなかった。たとえ渦中にいても、未熟な私に何ができたわけでもなかっただろう。ただ距離があったぶん、醒めた目で見ることはできた。

メディアを通して知る好景気の乱痴気騒ぎを、自分には関係のないことと決めこんで、アルバイトに励み、音楽をたくさん聞き、本を読んだ。好きな女の子を追いかけ、酒と煙草を覚えて、サッカーに夢中になった。それでいていつも自分の将来に不安を募らせているごく普通の大学生だった。

 

結果的に三島は私にとって、東京(バブリーな日本)に対するアンチであり、オルタナティブだったわけだが、この静かな大学街にのんびり住むことで得たエネルギーは、アメリカに渡った後のがむしゃらな時期に役立った。「行きたい」という思いも含めて、4年間溜めこんだものがあったからこそ、大事な時に力を振り絞ることができた。

そんなことを考えながらぶらついていると、25年も経っているからいろいろ変わっていて、記憶にない建物もたくさん見かけた。

そのひとつが、私が通った大学の近くにある4階建てのビルだった。唐突な感じで立っているピカピカの建物に、名の知れた予備校の名前が掲げられている。

ふと若者たちの顔が眼に浮ぶ。

今日も脱出を試みて、地元の学生たちが必死になって勉強しているに違いない。一番多い行く先はやはり東京だろうか。一極集中や過疎の問題を考えると困ったことなのかもしれないが、彼らの意志はきっと固い。

 

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