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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

肩がふれたら

ある匂いを嗅ぐと、特定の記憶が蘇るという「プルースト効果」は、よく聞く話だ。

ではある行動をとると、必ず思い出す人がいるというのはどうだろう?

私にはいくつかそのパターンがある。

洗面所に立ってうがいをするとき、なぜか決まって思い出すのはあの老人だ。

その人は、夜の公衆トイレの洗面所でくり返しガラガラとやり、振り向いて「いつもこれで風邪ひかない」と言って笑った。いい笑顔だった。

私たちは当時、共に歩いていた。べつに比喩ではなく、一度だけ、夜を徹して一緒に歩いた。

 

週末の代々木公園の集まりに、埼玉の大宮市から徒歩でくる老人がいると友人から聞いたのは、一昨年のことだ。日曜日にホームレスに朝食を振る舞うグループで、教会がやっているボランティアだった。本人に直接会ってみると、表情の柔らかい小柄な男性だった。

なぜそんな長距離(片道約35キロあるらしい)を歩くのか尋ねると、先の大震災をきっかけに始めた習慣だという。はっきり言わないが、個人的な巡礼でもあるようだ。私は同行を願い出た。

私の勝手な事情を言うと、帰国後に就いた最初の仕事は屋内にいることが多く、現場に慣れていた体が鈍ってしかたがない時期だった。文と写真を掲載してもらう約束をオンライン雑誌にとりつけ、さっそく彼の家に向かった。

 

彼のアパートには家具がほとんどなかった。テーブルがふたつと、壊れた座椅子がひとつ。そのことを恥じるような素振りを少しだけ見せた。

ティーパックの緑茶を飲んでいるうちに外が暗くなり、そろそろ行こうかとなった。

駅近くの繁華街を歩き始める。焼き鳥の屋台、本屋、スーパーを通りすぎる。郊外に入ると闇に包まれるが、それでも街灯があり、自動販売機の灯りがあり、信号があるので不便は感じない。

入り組んだ路地に入ったり、川を渡るのに大きな高架橋の歩道を使ったり、目の前の景色は次々と変わってゆくので飽きることがない。ほぼ2時間おきに、公園のベンチや飲食店の前に設置されている椅子に座って休憩した。缶コーヒーを一本だけ買って飲んだ。

その夜は会わなかったが、パトロール中の警察官とも顔馴染みらしい。スピードに乗った自転車との激突と、強盗には気をつけているが、そもそも金目の物は持っていない。小振りのショルダーに入っているのは、水とタオルと聖書だけだ。

深夜をすぎ、私の息が上がり始めるが、78歳の彼のペースは落ちない。右足だけ円を描くように出す、妙なストライドでひたすら前に進む。新調したばかりのスニーカーが白く光っている。

 

日雇い労働をしながらその日暮らしをしてきた彼だが、70をすぎると急に声がかからなくなった。やがて家賃が払えなくなり、知り合いの土建屋の事務所で寝泊まりするようになった。そこも直に出なくてはならないというとき、渋谷駅前でぼんやり座っていると、見知らぬ若い男に声をかけられた。代々木公園に行きなさいと言う。

言われるままに足を向け、次の日も、また次の日も行って時間を潰していると、ものすごい揺れがあった。東日本大震災だった。

いろんな情報が飛び交ったが、夕刻、居合わせた人たちと埼玉方面に向かって歩き始めた。人で埋め尽くされたハイウェイの光景が今でも忘れられない。

その日、彼は自分について意外な発見をした。長い距離を歩けることがひとつ。もうひとつは、他人と行動を共にすることに喜びを感じたこと。

翌日から彼は歩くことを日課とし、窮地から抜け出すために、代々木公園に集まる人と教会のネットワークに頼った。結局、会社勤めだったころの納税記録を遡ってみつけ、僅かだが今は年金を月々受給していて、たまに回ってくる日雇いの仕事の稼ぎとあわせて日々を乗り切っている。

 

1950年、家族が東京から大阪に引っ越した14歳の彼は、近くで叔父が経営するフィルムの現像所に出入りするようになった。高校を出るとすぐそこで働き始め、最初につきあった女性と結婚した。仕事は忙しく、映画用に撮影されたフィルムの現像を任されることもった。給与は右肩上がりに増えていった。ただ、欲しかった子供には恵まれなかった。

30代になり、離婚をきっかけに劇的な変化を求めた彼は、転職を決心した。後に後悔する決断だったが、洋服のセールスで地方都市を廻るのは楽しかったし、その後も、自動車の部品工場、電気製品売り場、ビルの建築現場を渡り歩いてなんとかやってきた。真面目にやれば働き口はいくらでもあった。

2度目の結婚の話もあったが、子供を切望しているその女性と一緒になることに踏み切れず、彼女と別れた後はずっと一人で暮らしてきた。自由気儘な暮らしは性にあったし、このまま他人を煩わせず生きていけると思っていたのに、この歳になって助けてもらった。ならば同じ境遇の誰かの役に立ちたい。

夜通し歩くのは、忘我の時間を持つためだ。覚えたての祈りの言葉は必要ない。こうして身体を追いむと、頭の中をなぜか去来するのは、若いころ映像所で観た数々の映画のシーンの断片だ。現像したばがりの劇場公開前のフィルムを、一人で夜こっそり観たこともあった。いろんな世界があった。

振り返れば、あのころが一番だった思う。でも当時はそれがわからなかったし、ずっと後にくるこの膨大な時間についても、思いを巡らせることはなかった。

 

東の空が白み始めたころ、彼方に新宿のビル群が見えてきた。

彼の後ろ姿を撮るために、私は足を止めた。構わず離れてゆく小さな背中を眺めながら、私はその夜のちょっとしたハプニングについて考えた。

板橋区に入ったあたりだったか、話が音楽について及んだとき、50年代後半から60年代前半にかけて、彼がジャズ喫茶に出入りしていたことを知った。ジャズが一番熱い時期をリアルタイムで知っているその経験に興味がわき、私がエキサイトして質問を重ねると、淡白だった彼の受け答えも熱が入った。そのとき、二度三度、お互いの肩と肩が触れ合った。

山田太一の小説だったか、かつて恋人や仲間と連れ立って歩くと、肩が触れ合ったものだとぼやく中年男が出てくるが、確かに人はいい年になると、肩と肩がぶつかるほど近づいて他人と歩くことは少なくなる。

だから次に誰かと肩を触れ合わせることがあれば、うがいだけでなく、私はたぶん条件反射的に彼のことを、そして、彼と歩いた夜道のことを思い出すと思う。

 

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