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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

赤信号

仕事帰りの夜道で、車に轢かれそうになった。

いや、ちょっとそれはオーバーか。赤信号の横断歩道を渡る私に、ドライバーがたぶん意地悪をしたのだろう、車を目の前まで寄せてきたのだ。それだけのことだったのに、ぼーっとしていた私は飛び上がらんばかりに驚いた。

私は普段からジェイ・ウォークを習慣にしていて、「自己責任だから」とかなんとか言いながら、車道もどんどん渡る。颯爽と横切る。

だから不注意だったうえに、あんなに慌てたことが恥ずかしかった。

 
世間には100パーセント危険がないとわかっているのに、横断歩道の信号をきちん守る人たちがいる。

これが見ていて歯がゆい。子供や老人ならわかるけど、忙しそうな勤め人とか、エネルギーを持て余していそうな若者が、閑散とした小道でじっと信号待ちしている様を見ると「何で?」と思う。

海外出張の多い同僚曰く、これは日本人特有の行動だという。本当だろうか。

確かに日本のパブリックには「ルールを守ろう」という類い標語が多い。学校でもそう。間違っても「状況をみて、自分で判断しよう」とは謳っていない。

隣国ではどうなのか知らないが、あのセオル号転覆事故のとき、「動かないで」という指示が船内にくり返し流れたことは大きく報道された。

傾いてゆく客室の中で、これは絶対にやばいと思いながら、なんとなく指示に従い続けた韓国の学生はどれくらいいただろう。

究極な例えだし、軽々しく語れない悲劇だけれど、いざというときの自主性について考えたくなるエピソードだ。ルール遵守を刷り込まれている若い人たちに、ほら、ディレクション(=信号)は守ればいいってもんじゃないだよ、と添えて話したくなる。

 

でも一方で、こんな話も思い出す。

アメリカで安全運転の講習を受けたとき、途中でシートベルト着用の話になった。案の定「国や州から強制させられる筋合いはない」と言い出す受講者が数人いて、講師とディベートを始めた。

「自己責任」とか「個の自由」とか華やかな言葉が飛び交った。講師はそれを面白がり、余裕で受け答えていたが、最後はこんなシナリオを作って彼らを黙らせた。

あなたが運転しているスピードに乗った車が、他車と接触したとする。シートベルトをしていたら身体が大きくぶれず、ハンドルをコントロールできたはずなのに、着用していないばかりに車を立て直すことができず、結局近くの歩行者に突っ込んでしまったとしたら…

「君のその『自由』とやらのおかげで、他人を傷つけることだってあり得るんだ」


ジェイ・ウォークも自分が怪我するだけなら「バカな奴だ」で済むけれど、どんな事故にも相手があるし、二次災害の可能性だってありそうだ。そもそも誰が見ているかわからない。

評論家の勢古浩爾氏は、自転車で街を徘徊するとき信号をいつも無視するが、周りに児童がいるときだけはちゃんと待つらしい。優しい人だ。

私もたぶんそうすべきなのだろう。

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