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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

グルメな私

このブログに食べものの話は出てこない。それは私がいわゆる食通じゃないから。

私だって人並みに美味しいものを食べたいと思うし、食べたときはうれしい。でもそのためにどれくらい努力するかというと、ほとんどしない。所詮ただのメシだろ? という野卑な考えが心の底にある。

横浜駅周辺を歩いていると、ラーメン屋の前の行列が目につく。

一杯の至福、知ってます。ラーメンって美味しいよね。でも小一時間も並ぶ価値、本当にあるんですか !?

 

ある先輩によると、外食時に他人やシェフにお任せにする人は「やっぱりダメ」らしい。

初めてのレストランでは、私もちゃんとメニューを見るけれど、何でもいいやという気持があるからすぐ決まる。逆にがんばって選ぶと、美味しくなかったり、その場にそぐわないものが出てきたりして、失敗した感をテーブルに漂せて食べることになる。

どこに入っても美味しそうな料理をさっと注文できる人がいる。あれは見ていて気持がいいし、格好がいい。

椎名誠の小説に、日本のお任せ文化を揶揄するようなシーンがあった。

仕事場で新米の主人公が、上司と同僚に昼飯に誘われる。上司がいつものやつ、みたいな感じで定食を注文すると、部下たちもすぐそれに習う。食べたいものを頼みたい主人公がメニューをじっと見ていると、同僚たちが「お前も『◯◯定食』にしろよ」と横から言い始める。やがて合唱みたいに姦しくなったとき、彼は黙ってその場を立ち去る...という場面だった。いいねぇ、主人公。

今どき部署で揃ってご飯なんか行かないだろうし、行っても新入りはちゃんと食べたいものを食べているような気がする。私なら『◯◯定食』にしてしまいそうだけど。べつに空気を読んでいるわけではなく、基本「何でもいいや」だから。

いつだったか、アメリカ人の女性と二人で食事に行ったとき、喋るのに忙しくてメニューをシカと見ていなかった。現れたウェイターに彼女が素早く注文したので、思わず「同じものを」と頼んだら、日本に住んだことのあるその彼女に、That's so Japanese! と言われて赤面したことがあった。確かにあの国では、子供でもサラダのドレッシングから選ぶから、ミーツーじゃ様にならない。


こんな私でも、コーヒーには一応のこだわりを持っていて、好みのダークローストの豆を業務用のミルで挽いて、ケメックスのドリップで手順を踏んで入れる。お湯は沸騰させず、カップは暖める。最近はフィルターの紙の匂いが気になるので、金属かネルに変えようと思っている。

米国に住み始めたころ、外で飲むコーヒーは気の抜けたアメリカンしかなかった。まさか専門店が街に溢れかえるなんて思いもしなかった。グローバリゼーションというと、貧しい国が一方的に恩恵を受けたようなイメージがあるけれど、アメリカの食も当時(1991年)から比べると劇的に多様化したし、確実に豊かになった。

こだわりのない私だから、あちらの食生活も問題なかった。ベーグルとクリームチーズは毎朝の習慣になったし、スーパーでハマスとピタが売られ始めると、夕食に好んで食べるようになった。

南部の人が自慢するバーベキューは大したことないと思ったけれど、ハンバーガーは好きだった。どこそこが美味しいと聞くと、わざわざ行かなくても、近くについでがあればチェックした。あれは横についてくるポテト・フライがいい。ダイナーによくあるラザーニアやパスタも、粉チーズとホットペッパーを大量にかけて食べるとなかなかいけた。 他にもナチョス、クラブ・サンドイッチ、マルガリータ・ピザ...。


こうして書いてみると、自分の舌がチープなのがよくわかる。こだわりがないというよりは、贅沢を知らないということだけなのだろう。

ちなみに私は安価なワインの味にくわしい。アメリカでほぼ毎日飲んでいたから当然で、普段は一本7, 8ドル、節約モードのときは、3.99ドルのカルフォルニア・ワインを買っていた。カベルネ、メルロー、ピノ、どれも20ドル半ばを越えると質がぐんと上がるけれど、10ドル台でそれに匹敵する銘柄を探して楽しんだ時期もあった。

でもその上のクラスを飲んでいないので、ウンチクは語れないし、レストランでも上手に注文できない。

そういえば以前、日本人の留学生が家に遊びにきたとき、アメリカでは食べれないものをご馳走しようと思い、何が恋しいかと聞いたことがある。定番の寿司とかすき焼きなのかと思っていたら、彼が「料亭の食べ物」と答えたのでびっくりした。

裕福なだけでなく、彼の両親はきっと食通にちがいない。少なくとも私のような「何でもいい」派ではないのだろう。

 

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