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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

怪ピアニストの息子

才人の子供は大変だという。

精神的な親殺しが成人するための通過儀礼だとすると、確かに端からしんどい闘いを強いられていることになる。

二世のタレントや議員が幅を利かせているのを見ると、上手く立ち回っているような印象が強くて、「何だかなぁ」という気分になるけれど、皆さんやっぱり大変なのだろうか。何をやっても「親の威光で…」と言われたり、いちいち比較されたりするのは、たまったもんじゃないのだろう。

 

天才と呼ばれる人の息子の写真を撮ったことがある。

ジャズの巨匠セロニアス・モンクは、ノース・カロライナ州のロッキーマウント出身だ。ニューヨークに引っ越すまでの幼年の時代を、この片田舎で過ごしたらしい。

長男の T. S.モンクはドラマーで、自身もプロのミュージシャンなのだが、彼の名前を知っている人はどれくらいいるだろうか? 音楽活動のかたわら、モンクの名で立ち上げた財団の代表も務めているらしい。

ロッキーマウントのとある高校のブラスバンドを、その彼が半日指導にあたるというので、私はカメラを携えて出かけていった。当時私が住んでいた州都から一時間のドライブだった。

細かいことは忘れたが、記者は送らず、写真とキャプションだけで紙面にしようというデスクの判断だったから、大した話題にはならなかったのだろう。ただ私は、世界的なレジェンドの息子がどんな人なのか興味があった。

 

音楽室に集まった学生たちの前に、長軀で細身の男性が現れた。

身なりも地味だし、大人しい口調の挨拶もそこそこに「じゃ、やろうか」と指揮棒を手にする彼に、父親の持っていた奇才のイメージはない。メディアの人間は私ひとりだった。

驚いたのが学生たちの演奏だった。

バンド用にアレンジされた「エピストロフィー」だったが、バラバラで、要するに下手なのだ。素人の私にもわかる明らかな準備不足で、ひと通りどんちゃか演って、ストンと終わった。

ミスター・モンクの動きが止まった。

学生たちと、見学に駆けつけていた教師たちが、固唾を呑んで彼の反応を待っている。指揮棒を投げつけたり、そのまま立ち去るのではないかと心配したが、そのどちらでもなかった。

「君たちは楽譜通り弾いてないね」

「 ... 」

「オーライ、でもそれもジャズだ」

ファインダー越しに彼の顔を見つめながら、私は天才の子の苦労を思った。ややズッコケつつも、その場を救った彼の優しさ、常識ある大人の対応に感じ入っていた。 言動は気鋭の芸術家のそれではなかった。

そのごく普通の感覚を身につけるまでに、どれほどの葛藤があったのだろうか...などと勝手な想像を巡らせる。オヤジにあって、自分にないもの。それを認めて、なんとか折り合いをつけて自我を確立するのに、どれくらいの時間と労力が必要だっただろう。

 

そもそも父・モンクの音楽は、あまりの特殊さゆえか、そのすばらしさを語ることはできても、どう優れているのか論理的に説明するの難しい。私が知らないだけで、立派な評論が確立されているのかもしれないが、何となくそんな気がする。

例えば私が持っている「ストレート、ノーチェイサー」のレコードのジャケットの裏に印刷されているライナーノーツも、「革命的」「アバンギャルド」なんて派手な言葉が並んでいるのに、説明には乏しく、聞けばわかるだろうみたいな調子になっている。それどころか「批判はわかるが...」などと妙に言い訳がましい。

ちなみにグアテマラの作家、エドワルド・ハルフォンの小説「ポーランドのボクサー」に「エピストロフィー」という節があって、モンクの音楽がモチーフになっているのだが、主人公の「私」とセルビア人ピアニストがバーで出会うくだりが印象的だ。作家のモンクへの耽溺ぶりが透けて見える箇所で、評論よりは小説の中のこんな文章のほうがずっと分がいい。

 

 私は、バード、初期のマイルズ、コルトレーン、テイタム、パウエル、ミンガスが好きだと言った。でもモンクには恋してると言ってもいい。おお!とミランがテキーラを少しすすって大声を出した。巨人セロニアス・モンクだな。それから私たちは、まるでアステカの戦士が北欧の奇妙なルーン文字の名前を挙げるように、メロディアス・サンク(モンクの妻は彼をそう呼んだ)のありとあらゆる曲名を交互に唱え始め、それはみな無秩序に並べ立てものだが、口にするとなぜか、あの不協和音と縁なし帽と神秘的なトランス状態と幸せな魚の頬をもつ怪ピアニストの強張った指できちんと秩序をあたえられているように聞こえた。

 

ところで「That’s jazz 」というひと言で、誰からの反論も受け付けつけずに場を収められる人間は、この世にいったい何人いるだろう。何と言っても、彼はモンクなのだ。(これが一番本人が嫌がる言葉なのだろうけど)

氏のことをさして、「オヤジの遺産で食っている」と揶揄するのは簡単だ。実際にそう言う声もあるに違いない。父親が遺した偉大な音楽を次の世代に継承するために、はたして彼がどれほどの活動しているのか、どんな気持で向き合っているのか、私は知らない。

でもその日、若者たちにすぐにダメ出しをせず、セカンドチャンスを与えた彼の姿は悪くなかった。想像していたイメージとはまるで違ったけれど、かっこよかった。

気を取り直して再開した学生たちの演奏にも、緊張が溶けたからだろうか、一度目よりは少しだけグルーヴ感が漂っていたように思う。

 

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