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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

「さようなら、オレンジ」を読んで

岩城けいというオーストラリア在住の日本人のデビュー作で、今年の太宰治賞に輝いた小説だ。一読者の私にとって賞自体はどうでもいいことだが、ネットで書評を見てこの作品のことを知ったので、そしてその書評は受賞しなければ書かれることはなかったので、新人を発掘しつつ本を売るという出版社の狙いはまだ成功していることになる。作家の登竜門的なこの手の文芸賞の存続が危ぶまれているといわれてしばらく経つが、少なくともこの賞が契機となって作品は一人の熱心な読者を獲得した。

 私はこの小説を二度読んで、それぞれ違う箇所で泣いた。特定のシーンに感激したわけではなく、外国語と格闘しながら異国で生きて行くとはどういうことなのかというテーマと、作品を貫いている、そのことに関する作者の思いの強さに胸を打たれたから。

オーストラリアと思われる国が舞台で、災難を逃れてアフリカから来た難民女性のサリマと、研究者の夫についてきた日本人女性サユリの交流を中心に、英語に苦労しながら自己実現を目指す女性たちの葛藤が描かれている。話の中心にあるのは、それぞれの事情により、母国語という人間にとって大切な礎から離れた生活を強いられている(あるいは選んだ)者たちの内面の揺れだ。

例えば、スーパーで、生鮮食品加工のパートの仕事の求人について尋ねるサユリに、地元の店員が彼女の「言葉遣いとアクセントを耳にして、嫌な笑い方を」する。そのことを大学の恩師に報告するサユリは手紙にこう綴る。

「英語がこれほどまでに権力をもった現状において、この巨大な言葉の怪物のまえに、国力も経済力も持たない言語はひれ伏します。しかしながら、二番目の言葉として習得される言語は必ず母語をひきずります。私たちが自分の母語が一番美しい言葉と信じきることができるのは、その表現がその国の文化や土壌から抽出されるからです。第一言語への絶対の信頼なしに、二番目の言葉を養うことはできません。そうして積み上げられた第二言語(私たちESLの学生にとっては英語)に、新しい表現や価値観が生まれてもよいのではないでしょうか。どんなにみっともなく映っても、あのような嫌な笑い方の報いを受けるべきではありません」

やりたい仕事があり、それに取り組むことができた私のアメリカでの年月は、とても恵まれたものだった。ただ、他人や組織の後ろ盾なしにすべてを自ら積み上げてゆかなければならなかった毎日は決して楽なものではなかった。苦労を苦労と思わない能天気さが幸いしたのかもしれないが、言葉に関して一度だけ、思わぬかたちで感情が噴出したことがある。この小説を読んで、私はあの夜のことを思い出した。

17、8年前、駆け出しの写真記者だった私は、ナイアガラの滝がある街に一人暮らしをしていた。小さな地方紙での仕事は激務で、昼すぎから出勤し、日付が変わるころ身体を引きずるようにしてアパートへ帰る毎日だった。

その夜も帰宅後、チャイニーズのテイク・アウトを食べながら一人でテレビを見ていると、深夜のニュース番組で、イギリスで行われている新しい吃音矯正のプログラムが紹介された。それは軍人をクリニックに連れてきて、どもりがひどい患者を彼の前に立たせ、文字通り怒鳴り散らして矯正するという前代未聞の荒治療法だった。野蛮なやり方に多方面から批判出ていたが、そのクリニックでは驚くほどの成果が上がっているというレポードだった。

軍人の大声に威嚇されながら、必死の形相で言葉を正しく発音しようとしている患者たちを見ているうちに、私は激してくる感情を抑えられなくなった。たかが外国語の習得に苦しんでいるだけの自分を、吃音症の人たちに重ね合わせるのは見当違いだし、とても失礼な話だ。でもその夜はそう考えなかった。疲れも寂しさもピークに達していたのかもしれない。なんとかして言葉を復唱しようともがき、なかには泣き出す者さえいた彼らを見ながら、「これは自分だ」と思った。下手な外国語をそれらしく発音するために懸命になっている自分。日々、ネイティブという名の試験官たちを前に言葉のテストを受けている滑稽なガイジン。吃音の苦しみも少しだけ分かったような気がした。溢れてくる悔し涙はしばらく止まらなかった。

結局その国に永住することになったサユリは、以前から英語で書くことを薦めてくれていた恩師へ宛てて感謝の手紙を送るが、その中で、彼女は母語を「祖国からたったひとつだけ持ち出すことを許されたもの」だと表現し、今後は日本語で書いてゆく決意を固める。 (ここでこの小説そのものについて初めて明らかになることがあるけれど、ネタバレになるのでそれには触れません)そして物語自体も、登場人物たちのこれからを祝福しつつ、移民の国らしい希望に満ちた光のなかで清々しく幕を閉じる。

 

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