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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

日経、紙で読む

日経新聞を紙で購読している。

「デジタル・メディアに働いてるのに、紙で読んでるですか?」と笑った同僚は20代だ。紙メディアのジリ貧ぶりは皆の知るところだけれど、支えてきた年配層ももう手にとらないのだろうか、公の場で新聞を広げている人をすっかり見かけなくなった。

ネット上で手に入れるニュースにはどうしても偏りが出てきてしまうので、自戒もこめて、他人(しかもプロ)にパッケージされた紙面を日毎眺めるようにしている。その際に、時事を俯瞰しながら、事の大まかな軽重を短時間でインプットできるのが紙の便利なところだ。いっしょに呑むコーヒーだって美味しい。

ただ、私の紙への愛着には別な理由もある。

 

アメリカの新聞社で働いていたとき、印刷部署でひと息入れる習慣があった。

今ではオフサイトで刷る新聞が多いようだが、私が勤めた地方紙にはどれも社内に巨大な輪転機が装備されていた。

刷り始めるのは真夜中近くになってからなので、昼間は誰もいない。いったん稼働したら化け物のように大きな音を立てる輪転機も、日中は微動だにせず、パレットに積み上げられた前日の折り込み広告に囲まれて鎮座している。

強いインクの匂いを嗅ぎながら、しんとしたスペースにひとり佇むと不思議と気が静まった。

日曜日にそこを訪れるときは、別の理由があって、それは自分が深く関わった特集記事を確保しに行くときだ。エゴを笑われそうだが、何部か手元にストックしておかないといずれなるし、切り抜き(クリップ)はコンテストや次の仕事を探すときに役立った。

そういえばあるアメリカ映画で、記者扮するヒロインが未明に家路に着くシーンがあり、その時彼女が両脇に抱えていたのは、自分のスクープ記事が載った刷られたばかりの朝刊だった。こういう細かい演出はうれしい。

 

私がいちばん最初に訪れた新聞の印刷所は、ウェスト・バージニア州の山の中にあった。

当時、田舎の大学の学生新聞でフォト・エディターをしていた私は、撮りためていた自分の作品でフォトエッセイを組むチャンスがあった。週2回発行の新聞は白黒なのだが、ちょうどその学期中に、掲載写真が濃かったり薄かったりということが何度かあったので、仕上がりを気にした私は、大学から委託を受けているその小さな印刷所に乗り込んでいったのだ。

「なんだお前は?」

出てきた責任者はひげ面の大男だった。

真夜中の闖入者に怪訝な顔をしたが、食い下がるうちに私の本気度が伝わったのだろう、途中から表情が和らいで、刷り上がるまで立ち会いを許してくれた。

 

かつてのむちゃぶり。受け止めてくれた異国の人...これじゃまるで日経のコラムか。

実はこの新聞、読んでいてあまり面白くない。圧倒的な情報量にはひれ伏しているし、文化欄にはいつも発見があるのだが、紙面を通して透けて見える日本の会社文化に気分が重くなることが多い。

会社経営者の苦労話や教訓に鼻白むのは私だけだろうか。

「私の履歴書」や「交遊抄」の欄は、目上の人の自慢話につき合わされている気分になる。

だいたい「私の課長時代」は若い人間、つまり紙であれ電子版であれ、これから読み続けてもらうためにアピールすべき層に、どう受け止められているのだろう。作り手にその視点はないのか。それとも電子版の内容はまったく違うのか。

ちなみに日経電子版のCMフレーズは、「365日の差は、かなり大きい」で、この目線の高さも好きになれない。なんだか企業セミナーで煽られてるみたいで、私が今の時代を生きる若者だったら、あえてスルーすると思う。

 

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