f8

暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

元ちとせの声

観たことのない映画のワンシーンを頭の中に描けるのは、作品のビデオのパッケージに使われていたあの写真のせいだ。

ひとり佇む年配の黒人女性の背後に、白人の若者が立っている。彼の手には釣り竿のようなものが握られていて、持ち上げた棒の先端には小型のマイクがくくり付けられている。海を眺めながら口ずさんでいる女性の歌声を、彼はこっそりと録音しようとしているらしい…。

写真の意味は、映画のあらすじ紹介を読むとわかる。これは天使の歌声の持つといわれる女性を探し続ける青年の物語だという。舞台はモロッコかどこかの海辺の街で、フランス映画だったような気もするが、私がレンタルビデオ店でアルバイトしていたのは大学生のときだから、かれこれ30年も前の記憶だ。細かいところはぜんぶ違っているかもしれない。

先日、コンサート会場に向かう途中で、ふいにこのシーンを思い出した。

たぶんあの青年と同じことをやろうとしていたからだろう。つまり、100年に一度と言われた伝説の歌声を自分の耳で確かめようと、私は密かに意気込んでいた。

 

元ちとせの音楽を聞いたときの驚きは、たくさんの人と共有できるはずだ。何せデビュー曲は、「社会現象的」と今でも形容されるほどの大ヒットだったのだから。

2002年、知人からなぜかカセットテープで送られてきた「ワダツミの木」は衝撃的だった。当時住んでいたアメリカ南部の片田舎をドライブしながら、テープが劣化するまで繰り返し聞いた。

これが奄美の島唄特有のしゃくりなのだと言われても、歌唱法の知識のない私にはよくわからなかったが、ワイルドなのに危うい雰囲気の漂う歌声が、細かいピッチでしっちゅう上に下に揺れるので、いっときも注意を逸らすことができない。特別な何かを聞いているのは明らかだった。

ただその印象が余りに強かったからか、それ以降の彼女の音楽には渇望感がつきまとった。どの曲にも何かが足りないという思いが残ってすっきりしなかった。

「ワダツミの木」の作詞作曲は、希代のミュージシャン、上田現によるものだ。彼の無国籍風のスカのビートとの掛け合わせがなければ、デビューはここまでセンセーショナルなものにはならなったはずだ。その彼が2008年に病死してしまい、マジカルなプロデュースに頼れるのも3枚目のアルバムまでだった。

デビューの評判が生涯つきまとい、それに押し潰されるアーティストは多い。駆け出しのときに夢中にやっていたことが一番よくて、後が続かないという話はどんなキャリアにもおこりうる、ごくありふれた話だ。でも…。

 

ビルボードTOKYOでの演奏は、出だしこそ硬く感じられたけど、だんだんスムースになって、独特のうねりを持って迫っきた。

探しものをする気持で必死に観ていた私だが、途中から「あの衝撃」を探すのをやめた。

民族衣装風のドレス、控えめで滑らかなダンス。深々とするお辞儀に、奄美大島について語るMC。目と耳に入ってくる情報のすべてが好ましく感じられ、ライブという贅沢な空間にいるのだから、古びた記憶にこだわるのはやめようと思った。すると楽になった。

そもそも彼女の音楽は、カタルシスをもたらすというよりは、その一歩手前で心揺さぶるものなのだ。いわゆる癒しではない。はっとさせられて、もっと聞きたくなる声。それだけでも希有で特別なものなのに、わがままな聞き手の私はその先を求めて勝手にイライラしていたのかもしれない。

かつての歌姫は、二人のティーンエイジャーの母になり、故郷の奄美大島に住み続けながら音楽活動を続けているという。

周りが放っとかないのだろう。でもそれだけに、あのデビューの騒ぎを経て、19年後の今も高いインテンシティーを保ちながら歌い続けていることに畏敬の念を覚える。体調を崩して声が思うように出ない時期もあったらしいが、その夜、誰にも真似のできない歌の世界が間違いなくステージの上にあった。

ちなみにあの映画の中の天使の歌は、どんな響きだったのだろう。写真の感じから言っても、使うなら全盛期の頃のエラ・フィッツジェラルドの声しかないと、これも勝手な思い入れで想像をめぐらしている。
 

f:id:majide0:20210505114716j:plain