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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

たすきがけのFUJI(写真について6)

「Nikon huh? 」

「I have a Canon too 」

アメリカの路上で写真を撮っていると、見知らぬ人にカメラ談義に引きずりこまれることが多い。決して嫌ではないが、撮影の最中にこれをやられると困るので、対策に私は機材のロゴを黒いテープで覆うようになった。すると彼らは(たいていは男性)話しかける前に一瞬戸惑うので、その隙にその場から素早く立ち去るというなかなか意地悪なことをやっていた。

戦場カメラマンの沢田教一がライカのロゴを隠したのは、暗がりで光が反射してしまうとスナイパーに狙われるからという壮絶な理由だったが、私の場合は敵の弾ではなく、他人とのおしゃべりから逃げるための姑息なトリックだった。

もっとも今は隠す必要がない。日本の街中では、どんなに大きな機材を振り回そうとも、撮影中のカメラマンに声をかけてくる人はまずいない。

では会話もアイコンタクトもない他人同士、お互いをまったく見ていないかといえば、実はそうでもない。相手が見ていない間に見る行為、気に留めていな装いで瞬時にチェックする観察術は、ストリート・フォトグラファーのそれに似ている。

もちろん状況によるのだが、路上で人を撮る場合、この「見る」「見られる」のせめぎあいになる前に、つまり何をしているのか被写体に悟られる前に撮ってしまいたいケースが多い。「決定的瞬間」の神、ブレッソンの仕事は電光石火のごとく素早かったという。

 

報道写真と言っても、いわゆるデスク業務をしている私は、日がな一日机にへばりついている。取材の段取りから掲載物のリーガルチェックまで、撮る以外フォトジャーナリズムの全てに関わっていて、裏方の仕事の大切さも身を以て知っているくせに、「現場が一番」という捨て切れないこだわりがあり、たまに我慢できなくなり外に出る。

先日、野毛の繁華街を歩いたとき、呼び込みの男たちの前を何度か通った。居酒屋、ガールズ・バー、いかがわしい店。路上にしょっちゅう出ている彼らは人を見るプロだ。

たすき掛けにして肩から下げている私の小型カメラは、撮る時以外は背後に回しているので何をしているのかぱっと見ではわからない。でもそれも最初だけだ。二度目に戻った時に「こいつは何だ?」というちょっとした緊張があり、三度目になると彼らはもう余裕の表情に変わっていた。

 

男たちのはしっこさは特別だが、道行く人たちの機敏さだって一筋縄ではない。

モタモタしていると、そのまま横切ってほしい人が急に立ち止まったり、自然な仕草や動作を突然辞めてしまうことがある。切り取りたかった画が目の前から消えてしまう。彼らはちゃんと見ているのだ。

だからと言って「それってX-Pro2?」などと近寄ってくる人はいないので、やりやすいと言えばやりやすいのだけれど、それはそれで少し寂しい。

 

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