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f8

暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

デビュー失敗

「North Marine Drive」

そのバーのサインを見たとき、私にはピンとくるものがあった。ベン・ワットが1983年に出した同名のアルバムは、かつて私のお気に入りだった。若さゆえの煌めきと昏さが内包されたクールなフォーク・ロックに、当時15才だった私は揺さぶられた。ワット氏自身、トレーシー・ソーンとのバンド Everything But The Girl の立ち上げ時期にリリースした、21才のデビュー作だった。

このアルバムを好きだったひとがやっているバーにちがいない。

矢印にしたがって路地に入ると、店は小さなビルの2階にあった。様々なジャンルの音楽をランダムかける店ですと書かれたボードが階段の入り口に設置してある。間違いない。

その夜、そのまま階段を登らなかったのは、泊まり業務に行く途中だったからだ。出勤中だったのだ。

小さなサインとはいえ、その界隈をよく通るのに今までその存在に気がつかなかったのは、よほど私に余裕がなかったからだろう。新しい環境と仕事にやっと慣れて、通勤途中のいろんなものが目に入り始めたのはごく最近のことだ。

ついでに言うと、日本で社会人を経験していない私は、この国のいわゆるバー遊びなるものを知らない。アメリカにも当然いろんな酒場があり、居心地のいい素敵な場所はたくさんあったが、趣味を分かち合う輩の空間を作るというバー文化は無いに等しい。あってもせいぜいスポーツ・バーで、特定の音楽を専門に聞かせる酒場など皆無だった。

私は2、3日落ち着かない気分になり、仕事が早く退けた平日の夜、さっそくその路地に戻った。ところが小さな灯りのサインも手書きのボードも見当たらない。あれは夢だったのか… では下手な短編小説のネタにもならない。

3日後、もう一度訪れると、はたしてサインはちゃんとそこにあり、他のネオンに混じって暗い道をしっかりと照らし出していた。

古びた鉄の階段を登りドアを開ける。学校の教室の1/4程のスペースの片側にバーのカウンターがあり、窓際に丸テーブルが3つ4つ並んでいる。壁に面して小さなキーボードが置いてあり、その前に坐っていた男がさっと立ち上がって「いらっしゃいませ」と小さな声を出した。他に客はない。

カウンターに座り、横一列に並べてある酒瓶のラベルを目で追ってゆくと、学生の頃よく飲んだバーボン「Four Roses」がある。ロックで注文してから、もう一度店内を見回すと… やっぱりあった。額入りで壁に飾られた「North Marine Drive」のジャケットとレコード。

飲み物を作り終えた店の男がオーディオ機材の前に立つ。直後に店内に流れ始めたのは、何と私の好きなプリファブ・スプラウトの新作だった。乾杯。

 

その後10分ほどの間に、私はサインを見て飛び込みで入ったことや、バー・シーンに疎い自分にとっていかに嬉しい発見なのかを伝え、ベン・ワットやプリファブ・スプラウトの話しも振ってみた。しかし、穏やかな雰囲気をたたえたその男の返答は必要最小限で、「この辺りで働いているんですか?」と言ったきり何も尋ねてこない。しかも何となく半身だ。

何か間違ったことを口にしたのだろうか。

自分も黙って音楽とお酒を楽しもう、そう考えてステゥールに座り直すと、店のドアが開き、若いカップルが現れてカウンターに坐った。店の男と彼らの間に和んだ空気がすぐにできあがり、共通の知人の話題で盛り上がっている。

仕方がないので本でも読もうと思い、持っていた文庫本を取り出したが、照明が暗すぎて字がよく見えない。一杯目をあっという間に飲み干していた私は手持ち無沙汰になり、ギネスを注文した。心なしかプリファブ・スプラウトの曲調が暗くなっているような気がする。

またドアが開き、近くでバンドのライブを見てきたという女性が元気に入ってきてカウンターに加わった。彼女も常連らしい。

ますます自分の存在が浮いてくるのが分かる。ギネスってこんな味だっけ。

グラスを半分飲んだところで携帯が鳴り、それで私は救われた。実際に次に行くところがあったのだが、時間はたっぷりあるのにいかにも急いでいるという様子で勘定を済ませ、そそくさとバーを後にした。そのくせ「また来ます」などと言い残して未練がましい。

合流した同僚の二人にさっそく何があったのかを報告すると、一人が「シャイなだけかもしれないから、もう一回行ったほうがいい」とアドバイスをくれた。

今はまだその勇気がない。

そう、いい年して私は、意中の人との最初のデートに失敗した中学生のように凹んでいるのだ。

 

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