それはそれですごいこと
「岩部高明様ですね? お待ちしておりました」
大袈裟でなく、でも事務的すぎない。暖かいけれどクールに抑えが効いている。それがあまりにも絶妙な挨拶だったので、到着した仙台のビジネス・ホテルのフロントで、私は彼女に本当に待たれていたような気持ちになった。
ネットで評判を確かめたとはいえ、適当に決めた駅近の宿泊先だ。値段も手頃だし、特別なことは何も期待していなかった。しかも入り口に掲げてある『コンフォート』のロゴを見て、「あれのことだったのか」と気づき、私は嫌な予感を抱えたままロビーに足を踏み入れていた。
とても自慢にはならないが、私はアメリカの『コンフォート・イン』に数えきれないくらい泊まったことがある。お金を使わずに宿泊しようと思えば、あの国ではモーテルに泊まればいいのだが、ランクをひとつ上げるなら『コンフォート・イン』や『ホリデー・イン』や『デイズ・イン』がある。
どこがいいかといえば、どこでもいい。モーテルに比べてシーツやカーペットの清潔度が増すぐらいで、基本的には何も変わらないのだから。つまり、どれもシャワーを浴びて寝るという行為を効率よくこなすための箱であって、ロビーや室内の見せかけの豪華さはもしろ張りぼて感を増やすだけだ。
でもここは日本だ。あてがわれた部屋にチェックインすると、さっそく部屋の狭さに気がつく。しかし調度はアメリカをモデルにしているようで、ベッドも机もタンスも見慣れたスタイルだ。「なんだ、同じじゃないか」と咄嗟に思ったが、滞在した2日間で私は自分の思い違いを知ることになる。
マグカップ、グラス、ドライヤー、湯沸かしポットのお馴染みキットが新品同様で、すぐ手の届くところに置かれている。これを当たり前と思うなかれ。本元の『コンフォート』では例えすべて揃っていても、なんとなく使う気になれないコンディションだった。
消臭スプレーや靴磨きセットもきちんと並べてあり、電話一本で加湿器、自転車、氷枕、パソコンを貸し出すという。アメリカでは歯ブラシやカミソリですら部屋に常備されていなかったので、私は習慣で今回も持参していたが、もしろんその必要はなかった。
廊下にさりげなく機械がふたつ置いてある。ひとつはズボンのプレス機。もうひとつは見慣れない形をしているので近寄ると、スマートな掃除機のようなボディで、映画鑑賞のトークンの販売機だということがわかる。なるほど、なるほど。
サービスの朝食も充実していた。和風洋風なんでもござれ。サラダもパン類もフルーツも新鮮で、おにぎりだって4種類ある。
10分毎ぐらいに厨房から従業員が現れて、「出来立てのスクランブルエッグをお持ちいたしました。どうぞお召し上がりください!」とアナウンスすると、周りの従業員も「お召し上がりください」と復唱する。私はその度につい顔を上げたが、周りのおっさんたちには当たり前のことなのか、皆黙々と食事を続けていた。
深く感謝されつつチェックアウト。フロントにあるパンフレットによると、全国に4、50の「コンフォート」があるらしい。どこに行っても似たような宿泊体験になるのだろう。風情も土地柄もあったものではないが、日々をリセットして再び仕事に向かうビジネスマンにこれ以上求めるものはないはずだ。
ビジネス・ホテルのクオリティーを世界に誇っても仕方ないし、例の「おもてなし」とも話しが少し違うけれど、これぞジャパニーズだいう感慨が湧いてくる。
出がけに美味しかったコーヒーをもう一杯飲もうと思いロビーの横に戻ると、朝食の時間はすでに終了していた。フロントに声をかけると、思いもよらなかったリクエストを受けたという顔になり、彼はさっそく確認に走る。一杯ごとに豆を挽いて注いでくれるお洒落なマシーンがすぐそこにあった。
しかし、戻ってきた彼は、「申し訳ございません」と本当に申し訳なさそうに言う。期待外れの返事に、すでにすっかりスポイルされていた私は「どうして?」などと言って彼を問い詰めそうになったが、思いとどまってホテルから立ち去った。
贅沢を言ってはいけない。確かにアメリカではロビーのコーヒーはいつだって自由に飲めたけれど、それを美味しいなんて思ったことはなかったのだから。