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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

Happiness Is A Warm Gun

先日、見たくないものを目撃した。

近所の大通りを駅に向かっていると、目の前をゆっくりと歩いているお婆さんがいた。傍らには孫娘らしきよちよち歩きの年の頃3、4歳の女の子。すると、ふたりの横に一台の業務用トラックが信号待ちのため停まった。助手席から一人の男の顔が覗いている。20代後半、あるいは30代前半だろうか。ごく普通のなりなのに、目つきが尋常でなかった。誰にも見られていないと思っていたのか、興奮を隠しきれない様子で、口元を緩めたまま少女を舐め回すように眺めている。

後ろから通りかかっただけの私だが、その様子を見ているうちに不快感がこみ上げてきて、トラックの横を通るときに送った彼への視線は鋭いものになった。気づいた彼は慌てて視線を外した。

私はそのまま歩き続けた。ただ信号が青になればトラックは再び追い越してゆくので、男ともう一度すれ違うことになる。不意をついて睨みつけた私に、彼は何か言ってくるだろうか。車から降りて食ってかかってくるだろうか。

ディーゼル音が近づいてきた頃を見計らって振り向くと、男はやはりこちらを見ていたが、その視線は弱々しかった。拗ねたような表情をちらりと見せて、すぐにまた目を反らした。トラックは速度を増して遠ざかった。

 

男を幼児性愛者と決めつけてはいけない。それは分かっている。でもあの目つきを見たらそう疑わずにはいられなかった。

もし彼が「見ていたのは少女じゃなくて、お婆さんの方だ」と弁明してくれたら、私の気持ちはどれだけ楽になったことだろう。他人の性の指向なぞ知ったことではないし、どんな性愛だってありだと思っている。当事者たちの合意で行われる限り。

そして、相手が子供でない限り。

現在の日本の性的同意年齢は男女共に13歳と低いが、青少年保護育成条例によって、既婚者を除く18歳未満の男女との淫行やわいせつ行為には刑事処罰が課せられる。一昔前に比べれば、子供を性の暴力から守る法律は整っている。

 

その一方で、ペディファイラー、つまり幼児や少年少女に性的に欲情する人間がいることも分かっている。

アメリカでもペディファイラーにどう対応すべきかの議論は耳にした。州によって違うが、一度でも法に触れる行為(児童ポルノの所有を含む)に及べば、登録を義務づけ、その情報を公にしているところが多い。自分の住む地域のどこに前科者が住んでいるか、調べればすぐに分かるようにしているのだ。

すると一度の過ちで烙印を押され、更正の道が閉ざされるので畢竟、人権の問題になるのだが、「こればかりは仕方ない」という雰囲気が少なからずあった。この国には珍しくそれに抗う声も小さかった。

 

私も普段からマジョリティーの側に立って安易に物を考えたり言ったりしないよう気をつけているのに、それらしい男を見かけただけで反射的に憎悪の視線を送るのだから、この件については抑制が効いていない。

どんなに美しい文体だという評判を聞いてもナバコフの「ロリータ」は読み進めることができないし、阿部和重の小説群もどうも評価する気になれない。阿部が一筋縄ではいかない優れた作家であることは分かるが、少女趣味の変態中年男(時には警官だったりする)が繰り返し出てくると、作家の意図を考える前に胸糞が悪くなってしまう。

人間の性癖の分析や、治療の可能性、そして何より犯罪の防止のために冷静な議論が求められるべきなのに、どうやら私にはそれができないらしい。制裁する側に加わる気は更々ないのに、不審者を片端から告発してしまいそうな勢いの自分がいる。

あの男が最後に一瞬見せた、拗ねたような暗い表情が目に焼きついている。

仮に私の疑念が当たっていて、彼にその傾向があるのなら、妄想は妄想に留め、カウンセリングなどの治療を受ける努力をして、決して行為に及ばないこと切に願う。取り返しのつかない暴力をふるわないことを。

 

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皆殺しのバラード

街角で見かけたポスターのタイトルだ。落ち窪んだ眼をした白髪混じりの男が歌っている。あるミュージシャンのドキュメンタリー映画だという。

私はそこで初めて山口富士男の死を知った。

1960年代の「ザ・ダイナマイツ」、70代の「村八分」、そして80年代の「ティアドロップス」。メインストリームからは程遠かったが、時代時代で常に影響力を持つバンドを率いてきた日本を代表するロックンローラーだ。

しかし私にとっての山口富士男は、ソロ・アーティストとしての存在が一番大きい。というのも、大学生の頃友人がくれた「PRIVATE SESSION」のテープが長い間私のお気に入りだったからだ。「錆びた扉」で始まるアコースティック・セッションはとびきりかっこよかった。

寂しさに暮れているのに潔く、優しさに満ちているのに尖っている。確かに彼の歌には心をえぐる鋭さがあった。

結局私は劇場公開を見逃すのだが、ネットで予告編を見ると、この映画は彼の晩年のコンサートを撮ったものだという。キース・リチャーズ風のよれっとした趣でギターを弾き、べらんめえ調で歌い、ステージから客に罵声を浴びせる。楽屋裏でも誰かに絡んでいた。

どうやら彼は年を取っても怒れる男で居続けたらしい。

 

その正反対、つまり孫を可愛がり、趣味を嗜み、いつも穏やかで人の手を煩わせないというのが日本における理想の老人の典型だろうか。

でもそれも軽薄だ。「足るを知る」という静かな生き方を若いころから実践してきたのならわかるが、大抵の人は欲望に従順に生きてきたのに、年を取って急に好好爺然とし始める。病気したり引退した途端に禅の本を買い求め、インスタントに悟りを開くなんてちょっと猾くないか。

かといって、いつまでもわがままを貫いて周りに迷惑かけっぱなしというのもみっともないけれど。

20代の頃、自分が中年になったら何を考えているか想像つかなかったように、今の自分に、将来どんな老人になるのかはわからない(長生きしたらの話しだけど)。今年80歳になる自分の父親を見ていると、好好爺が顔を出す日もあれば、まだまだ現役だと自己主張する日もある。

たぶん人は心情的にその両極の狭間を行きつ戻りつ暮らすのではないか。いつか来る、迫りつつある終わりが穏やかであることを願いながら。

 

山口の終わりはちっとも穏やかでなかった。

新聞によると、昨年の7月15日の深夜、彼は横田基地のある東京福生市のタクシー乗り場にいた。その場にいた会社員が女性に道を教えていたところ、女性と面識のある米国軍人とその息子が通りかかった。二人は彼女が絡まれていると勘違いして会社員を殴りつけたという(変な話しだ。本当だろうか)。もみ合いに参加した山口は、息子の方に突き飛ばされて頭部を地面に強打し、脳挫傷を起こす。そして一ヶ月後に病院で死亡した。

仲裁に入ったのか、加担しようとしたのか、あるいは挑発したのか。記事からは事の詳細は不明だ。

ただ突き飛ばされる一瞬前の彼の形相は想像できる。「てめえふざけるな」とか「ファック・オフ」とか叫びながら、凄い眼をして、自分の倍はあろうアメリカ人に歯向かっていったにちがいない。

ケンカによる不慮の死。悲しい結末だ。でも失礼を承知で言わせてもらえば、長患いの末亡くなったり、事故でもお決まりのドラッグのオーバードースで逝ってしまうより、ずっと彼らしいような気がする。享年64だった。

胸に刺さる歌をありがとう。

 

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ラフォーレで健診

東新宿の小綺麗なビルに到着すると、ロビーには出迎えがいた。

スーツを着た女性は、私の来訪の目的を確認しながら素早くエレベーターのボタンに手を伸ばした。エレベーターの降下を待つ間、彼女は少し離れたところで半身に構えていた。話しかけたら機敏に対応してくれたにちがいない。

男性と女性でフロアが違うというので、男の階で降りると、目の前に明るいエントランスが広がった。待ち受けていた別の女性に促されて、スリッパに履き替え椅子に座った。これがこの日何十回と耳にした「こちらにお掛けになってお待ち下さい」の初回だった。

名前を呼ばれてカウンターに行くと、手首にコンピューター・チップの入ったブレスレットをはめられる。私は「30番」らしい。清潔なロッカーでオーシャンブルーのトレーナー上下に着替えてから待つこと数分、もう一度名前を呼ばれ、健康診断が始まった。

 

アメリカできちんとしたものを受けなかったので、フルの健康診断は初めてだ。医療費が高額なアメリカでは、必要に迫られないと病院には近づかない。かかりつけの医者に頼めば受けられる簡単な健診も私はずっとパスしてきた。

ということで今回日本での健診にデビューしたわけだが、クリニックの予想外のサービスに私は面食らってしまった。

まず働いている人がやたら多い。しかもほぼ全員が若い女性。事務員とスチュワーデスの間をとったような制服を着た彼女たちが手取り足取りサポートしてくれるのだが、バリウムの粉が口元についていると言ってはティッシュ・ペーパーを手渡してくれ、トイレに立つ背中にはいちいち「いってらっしゃいませ」と囁いてくれる。(彼女たちの表情を観察すると、かなり辛そうなのだが)

スタッフは数だけでなく、その配置に妙があるようだ。身体測定や視力検査など簡単な作業はこの女性たちが受け持ったが、レントゲンや採血には白衣を着た(たぶん)医療技師が対応した。胃の検査をしたのは小学校教諭風の男性で、採血はお母さん風の女性だった。つまり、持ち場ごとに違うスタッフのイメージがいちいち適材適所なのだ。

最後にピンクの看護服を着た美人に案内されて医者の部屋に通されるのだが、待っていたのはいかにも聡明な感じの女医だったので、私は笑い出しそうになった。これじゃまるでTVドラマだ。

 

労働安全衛生法で法人に従業員の健診を義務づけている日本では、健診サービスは大きなビジネスなのだろう。競争はきっと熾烈なのだろうが、診断に訪れている人の多さを見るかぎり、このクリニックは繁盛しているようだ。

ということは、この過剰な接客サービスの評判は良いのだろう。さらに言えば、昨今の日本男子が求めているものがここに提供されているということになる。診断が終了した後に立ち寄れるネット環境完備のラウンジでは、おっさんたちが満足げにコーヒーの飲みながらまったりしていた。

私がひとつ気になったのは、スタッフの喋り方だった。優しさは接客の域を微妙に越えているのだが、よく聞くと子供に話しかけているようなトーンなのだ。バリウムを飲んでベッドの上でぐるぐる回る私に教諭風は小学生を諭すような調子で指示を出したし、採血に固くなっている私にお母さん風は近所の子を言い含めるように喋った。

 

バリウムを出すための下剤を飲んだ私は、健診を終えて外へ出た。ほんの数時間のことだったが解放されるとやはりほっとする。

「食事は普通に」ということだったので、私は目についた牛丼屋に入った。

「いらっしゃい」という突き放すような力強い声が耳に心地よかった。子供のように扱われることに私は居心地の悪さを感じていたのだ。

声の主が注文を取りにきたので顔を上げると、意外に若い、色白の青年だった。社員なのかアルバイトなのかわからないが、頑張って働いている感じが滲み出ている。

彼はもう健診は済ませたのだろうか。

 

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偏向報道と私の偏見

兵庫県西宮市の今村岳司市長が発表した、偏向報道への対策が議論を呼んでいる。

今後メディアの取材を受けるときは、市の職員もその様子をビデオで撮影をするという。そして、報道が偏っていると市が判断した場合は、その特定の報道機関の取材には一切応じないというのだ。

決断のきっかけになったのは、阪神大震災の被害者の復興住宅についてのテレビ番組らしい。住宅の市への返還日が迫っているが、番組は市が行っている支援策には触れることなく、一方的に入居者を追い出しているように報じたという。

偏っているかどうか判断するのは視聴者で、市長の役目などではないし、彼は何か大きな勘違いをしているようだが(その後「取材拒否」方針は撤回すると発表があった)、メディアに対して難癖をつけたくなる気持ちもわかる。少なくともその番組が市に対してアンフェアだったことは容易に想像がつく。最近私は似たような話で似たような偏向報道を目にしているからだ。

 

2020年に開催される東京オリンピックの影響でなくなる団地がある… という新聞記事を読んだのは半年前のことだ。

メイン・スタジアムの建設にともない、近くの都営団地が取り壊される。そもそもこの団地は1964年の東京オリンピックがきっかけで建てられたらしい。現在の国立競技場を作るため、一帯の木造長屋を取り壊して、住人たちを競技場の近くに建てた団地に移動させた。つまり最初から住んでいる人々にとっては今回が2度目の立ち退きになる。

相談ではなく事後報告だった、という東京都の対応を含めて、記事は「理不尽な強制退去を許していいのか」というトーンで書かれていた。

しかし住人たちに会ってみると、話は違っていた。

確かに皆不満や不安があるのだが、大抵の人が「仕方ない」と感じている様子で、「新しい団地に移れるのだから歓迎」という人も多くいた。都も移転先として他の団地を斡旋していて、すでに半数以上の住人が引っ越しをすませていた。新聞が伝えるようなひどい立ち退き話ではなかったのだ。

これは単なる偏向報道ではすまされない。受けのいい「弱者排除」の話にするために、恣意的にトーンを変えたと言われても仕方がない。

結局私は、団地の現状を伝える4分間の短い番組を作った。「全員が無事に引っ越せるまで頑張る」という町会長に焦点を当て、間もなく消滅する団地で暮らしを続ける老人たちの姿を淡々と伝えた。

 

結果的に当初の予想を裏切る展開になったわけだが、取材中のサプライズはもうひとつあった。こちらの方は、ある人物に対する私個人の偏見を覆す、ありがたい出来事だった。

団地恒例の新年の餅つき大会に立ち合ったとき、一部の住人から強い取材拒否の声が上がった。もうメディアは懲り懲りだと感じている住人がいることは知っていたし、最後の餅つきぐらい静かにやりたいという意見があることも数日前から聞いていたので、会長を介して特別にお願いしていたのだが、うまく伝わっていなかったらしい。

取りなそうとする会長の言葉も受けつけない強い調子だった。この日の映像が撮れないと企画が成り立たないという事情もあり、私は真っ青になった。

このとき、黙って餅つきの準備をしているJ氏が目に入った。

「東京都には誠意がない」「ここを絶対動かない」と声高に主張する彼は、先の新聞記事にも登場していた言わば団地の顔で、移転に関しても会長とは考えを異にする人物だ。私も最初に彼に話を聞きにいったが、4分間の番組に彼を取り上げる余裕はないと判断して、その後は不義理を重ねていた。その経緯もあり、彼は私に腹を立てている、少なくとも私を敬遠していると思っていた。

団地の役員たちが私を追い出すべきか否か協議をしている間、彼と目が合った。しかし今更助けを請うことはできない。

結局会長の粘り強い説得もあり、最終的に遠距離からの撮影許可はおりたが、気まずい雰囲気は強く残った。

 

J氏が中心になって餅つきが始まった。その横で私はカメラと三脚を持ったまま突っ立っていた。

やがて碓に出来上がった最初の餅を手早く丸めたJ氏は、それが習わしなのか、小さくちぎって周りの人たちに手渡し始めた。皆「おめでとう」などと言いながら楽しそうに口に運んでいる。

すると彼は、突然こちらに歩み寄り、機材で手が塞がっていた私の口に一切れの餅を放り込んだ。

驚いた私は、目を白黒させていたに違いない。それを見た何人かが笑い、空気が微妙に動いた。「いいじゃねえか」とは誰も言わなかったが、餅を食することで、私はその集まりに何となく受け入れられたかたちになった。

J氏の粋な行為に救われた私は、その日の長い取材を終えて帰るまでに、おはぎやお汁粉など美味しい餅料理を食べきれないほど頂くことになった。

 

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ファーガソンについて

ひと月ほど前、黒人少年を射殺した白人警察官がアメリカのミズーリ州で不起訴になり、各地で暴動やデモが起こった。

私の同僚によると、「全米が震撼」というフレーズは日本のメディアで最も多用される見出しのひとつらしいが、この話題にもあちこちで使われていた。

ただ今回は見出しだけでなく、報道の内容も似通っていた。マーチン・ルーサー・キング牧師の演説「アイ・ハヴ・ア・ドリーム」を引き合いに出し、公民権運動から50年たっているにもかかわらず黒人への差別は相変わらずで、やはりこの国の人種問題はひどい… というパターンだった。

他国の事情を伝えるのは難しい。でもよく知っているはずのアメリカのことなのに、新聞もテレビも判で押したような報道になるのはなぜだろう。

 

事件直後のワシントン・ポストに「ファーガソンとは警察への黒人の憤りではなく、進歩に対する白人の憤り」と題する文章が掲載された。

街頭での派手な言動は世間の目を引くが、屋内でひっそりと行われる法やルールの制定は注目を浴びない。デモや略奪という黒人の怒りは見ての通りだが、人種差別を助長する取り決め作りに奔走する白人の「怒り」の行為はニュースにならない。アメリカの人種問題を全体像を捉えたいなら、そのことをお忘れなくという痛烈な内容のオピニオン・コラムだった。

例として著者は、現在行われている黒人の投票を封じ込める選挙区割りや、多くの黒人が働いている公務員の人件費削減などを挙げているが、歴史的にみても「白人の怒り」は枚挙にいとまないという。特に奴隷制解放やブラウン判決、そして公民権運動など、人種統合に向けて画期的な出来事が起こった直後に行われた「より戻し」の法改正は火を見るより明らかだと指摘する。

 

このコラムはふたつのことを示唆してくれる。ひとつは人種問題の根の深さ。そしてもうひとつは賢明でない歴史の見方。ある出来事を切り取り象徴として捉えるとわかりやすいが、こぼれ落ちるものも大きい。

キング牧師のスピーチはそれ自体が傑出していた。でも、この演説とそれに続いた公民権運動の勝利がアメリカの黒人に完全な自由をもたらしたわけでは当然ない。理解しているつもりでも、同じコンテクストでくり返し見聞きするうちについそんな印象を抱いてしまう。

アメリカの人種問題を語るたびにキング牧師を出すのであれば、それはまさに紋切り型の伝え方であり、「全米」とくれば「震撼」とつけたがるメディアの人間の怠慢の表れでもある。

 

その記事が出た数日後、巷である写真が話題になった。オレゴン州のデモに参加していた黒人少年と警備にあたっていた白人警官が抱き合っている一枚だ。少年は「フリー・ハグ(抱擁します)」というサインを持っていたらしく、それに気がついた警官が彼にいろいろと話しかけ、ふたりは最後に抱き合ったという。

写真がことさら目を引くのは少年の頬が涙で濡れていたからだ。フェイス・ブックに載るとわずか数時間で15万回シェアされ、「希望の写真」というふれこみでたちまち人々の間に広まった。

ここでアメリカ人の単純さを嗤うのは簡単だ。だが、この感傷こそが理念を掲げて社会を回している彼らのDNAだと思う。

人は人を差別する。根絶はあり得ない人種間差別を考えるとき、アメリカでは問題が突出している分だけむしろ可能性を感じる。彼らはこの問題と常に格闘していて、求めれば、他人種と向き合う(そして抱き合う)機会もすぐそこにある。

 

ちょうど同じ時期に、日本のSNSで拡散された記事があった。

日本に住む中国人が中国語で書いたという文章は、いかに日本が素晴らしい国で、いかに日本人が素晴らしいかを中国人に向かって滔々と述べたものだった。大勢の人が「それ見たことか」という調子で書き込みをしていた。

これを読んで私は昏い気持ちになった。元の文章自体が胡散臭いが、例え実在するものだとしても、この種の憂さ晴らしから透けて見えるのは歪んだ自尊心と優越感だけだ。

特に最近は中国人と韓国人との仲の悪さが伝えられる日本人だが、こういう文を取り上げて溜飲を下げるという行為には、問題を解決しようという姿勢はもちろん、相手と向き合い対話をしようという心意気も感じられない。

 

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湘南新宿ライン 3

おっさんの耳たぶなんか見たくない。おねえさんのうなじだってそんなに近くで見たくない。

誰のであれ、しみや産毛やほくろは見たくない。

つり革広告に助けを求めたり、目を閉じたり。スマホや文庫本に逃げるのが一番だけど、激混みの状態ではそれすら許されないのだから、これはやはり苦行としか言いようがない。

今さら満員電車の話しかなどと言って突き放さないでほしい。長い時間かけて通勤している私にとっては切実な話題なのだ。日々車中で目にする風景は心のなかに澱のようにたまってゆく。

白状すれば、疲れているとき私はグリーン車に乗る。でも私が利用する路線は混雑するので、ラッシュ時にはグリーン車でも座れないことがある。追加料金を支払ってデッキの片隅に立っていると疲労もかなり割り増しになる。

 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の主人公は電車好きの男だ。

鉄道会社で駅舎の設計を仕事にしているという、ハルキ・ワールドにはそぐわないメイン・キャラの設定で、新宿駅で彼が電車の発着を眺めて心を落ち着けるシーンをはじめ、この交通機関をめぐる諸々が好意的に語られる。

村上春樹と通勤電車? この意外な取り合わせに私はつい勘繰ってしまう。

ひょっとしたらこれは、作者から普通の人間(満員電車に毎日乗っているあなたや私)へのささやかな贈り物ではないか。売れすぎた作家が自分の読者のために作品中に仕込んだポピュリズム、つまり大衆迎合の一種ではないか、などと。

物語の終わりの方では、海外のメディアで話題になったという、日本人の通勤風景を捉えた一枚の写真についてもくわしく書かれている。日本人が下を向いて改札を出るのは、実はうつむいているのではなく足元を気にしているからだなんて、まるで作家本人が海外の読者に向けて弁明しているような箇所がある。

 

通勤電車も悪いことばかりじゃない。

変わったところから言うと、私には閉所恐怖症の気があるが、満員電車では不思議と平気なのだ。車内で息苦しくなると私は「共闘」という言葉を思い浮かべる。周りの人たちを共に何かに取り組んでいる同志に見立てると、心が落ち着いてパニックを起こさない。これは冗談ではない。

もちろんスペースを確保できれば、本や音楽やSNSに没頭できる。仮眠をとってもいいし、人間観察をしてもいい。

そしてたまに妙な体験ができる。

 

「はよ帰ろー、今夜はおいら、はよ帰ろー」

その歌声を聞いたのは最寄り駅の改札だった。声の主は斜め前の中年男性だ。発声練習にしてはいい加減すぎるし、口ずさんでいるにしてはこぶしがきいている。朝からふざけているのか、単にご機嫌なのか。気になった私は彼の後についてホームへ上がった。

私が乗る電車に男も乗るらしく、空いている列に並んだ。真後ろに立った私は、歌の続きが聞けないか耳を澄ました。突然彼が振り返ったのはその直後だ。

ねめつけるような激しい視線だった。不意を突かれた私は目を逸らす余裕すらない。「お前の考えていることはすべてお見通しだ」と言わんばかりの意味深な目で、確かに私はすべてを見透かされたような気持ちになった。

10秒近く経っただろうか、もうこれ以上この状態に耐えられない思った瞬間、彼は視線を外してゆっくり前に向き直った。間もなく電車が到着した。

ところが彼は電車に乗ろうとしない。最後に乗り込んだ私は自然と体をホーム側へ向けたので、ドアが閉まるまでのあいだ彼と再び対面することになった。しかし男は、遠くに視線を預けたまま何事もなかったように穏やかに佇んでいる。

グレーのスーツに淡い緑のネクタイ。ベージュのコート。どれも品が良い。褐色の肌に切れ長の目。白髪は多いが姿勢は良い。なぜ電車に乗らないのか。なぜ私を睨んだのか。混乱した私を乗せたまま電車は走り出した。

そう、なかなか暇しないという点でも、通勤電車は捨てたもんじゃない。

 

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