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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

マリー・エレン・マーク (写真について 5)

先月の末、マリー・エレン・マークが亡くなった。その死を海外メディアは一斉に伝えた。こんな扱いを受ける写真家は世界に何人いるだろうか。彼女が指折りだった証拠だ。

私は彼女に一度会ったことがある。そして思いきり睨まれた。

 

アメリカ・メーン州のロックポートという港街で行われるワークショップでのこと。私はユージン・リチャーズが教える一週間のコースを履修していたのだが、同じタイミングでマーク女史も来ていた。

コース枠に関係なく聴講できる彼女のレクチャーがあり、会場は満員になった。最後に設けられたQ&Aコーナーで私は思い切って手をあげた。

「人と成り、というものについてどうお考えになりますか?」
「 ... 」

「というのも、あなたの最近の作品を見ていると、内面より外見、つまり被写体がどんな人物であるかよりも、どう見えるかの方のあまりにも重きが置かれているような気がするので… 」

「作為的なことは一切しないわ!」

質問をさえぎるようにして彼女は答えた。語気の強さに会場の空気が変わった。

「カメラで人を殴るわけじゃあるまいし」

これが最後の質問となり、気まずい雰囲気を残したまま催しが終わった。私は手を挙げたことを後悔した。

ただ帰り際、参加者の一人が近寄ってきて私にこう言った。

「何が言いたかったのかよく分かるよ。いい質問だった」

 

発表するたびに作品が話題になった彼女だが、キャリアの後半にテンションが落ちたのは明らかだった。私が一番気になったのは、双子のシリーズなど、奇を衒ったようなポートレートが当時目立って増えていたことだった。被写体の特異な外見ばかりが強調された肖像に迫力は感じなかった。ずるいとさえ思った。その批判を質問に変えて(しかも下手な英語で)ぶつけたのだから、彼女がムッとしたのも当然かもしれない。

この一件をリチャーズ氏に話すと、マーク女史についてのエピソードをひとつ語ってくれた。

ふたりともニューヨークを拠点にしているので、同じ暗室を借りていて、時折そこでばったり会うらしい。現像したばかりのネガを見せ合うこともあり、お互いの仕事を熟知しているのだが、リチャーズ氏はある傾向に気がついていた。いつの頃からか、マーク女史のネガにはまったく同じ画が延々と並ぶようになっていたという。

彼は「彼女に何かが起こったんだ」とだけ言い、それ以上は語らなかったが、私には象徴的なエピソードに聞こえた。

もちろん撮影の仕方は人それぞれなのだが、いいものをゲットしたときは撮影中にわかるものだ。被写体が動いていれば追いかけるし、アングルや絞りなどの微調整をしながら撮り続けることはある。しかし、まったく同じフレームを撮るためにシャッターを押し続けるカメラマンはいない。

彼女のような偉大な写真家が、なぜ同じ画を繰り返し撮ったのだろうか。

 

ワークショップの最終日、キャンパスでは打ち上げが開かれた。屋外でロブスターを食しながらおしゃべりをするのだが、私が座っていたテーブルにマーク女史も加わった。私に気づいた彼女は、冷たい目をこちらに向けた...ような気がした。

気のせいだったのかもしれない。私は凡百無名のカメラマンであり、彼女にとっても数多くいる生徒の一人にすぎなかったのだから。でも食事のあいだ、彼女は斜め向かいにいる私の方を決して見ようとしなかった。

私にはもうひとつ彼女に伝えたいことがあった。それは、彼女の1970年代、80年代の作品は長いあいだ私のお気に入りで、写真集を何度も何度も見返したということ。家出したアメリカの少年少女やインドのサーカス団員の写真は、被写体の息づかいが聞こえてくるような親密さに溢れていて素晴らしかった。いわゆる異端者や社会の底辺にいる人々を撮り続けたこともあり、奇才と言われたダイアン・アーバスとよく比較されたが、私はマーク女史のより温かく、よりジャーナリスティックな視点の方にずっと魅力を感じていた。

亡くなった翌日、ニューヨーク・タイムズに告知が出た。記事の中に彼女自身の言葉が紹介されていた。

「初めて写真を撮りに出たときのことを覚えているわ。フィラデルフィアの街で、通りを歩きながら見知らぬ人たちとおしゃべりをして、彼らを撮影したの。そして、すぐに思った。『素敵だわ。これなら永遠に続けられる』って。それ以来、この気持ちがぶれることはなかった」

75歳だった。

 

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サン・キル・ムーンに逢えた夜

「俺の新しいアルバムのどこがいいんだ?教えてくれ」

サン・キル・ムーンことマーク・コズレックがステージの上から尋ねた。

一瞬の沈黙の後、"Honest! (正直なところ)" と誰かが叫ぶ。

そこに "Brutally. (痛々しいほどに)" と付け加えたかったが、私に大きな声を出す度胸はない。

別の誰かが "I can relate to it. (自分のことみたいに感じる)"と言った。

声の主に向かってコズレックは年齢を尋ねる。返ってきた19歳という答えはこの気難しいアメリカ人を失望させた。フンと鼻で笑ってから、「あのアルバムにはな、46になったオレが抱えてる諸々が詰まってるんだよ」と吐き捨てるように言った。若いお前に一体何が分かるだという調子で。

でも彼は間違っている。中年の陰鬱をティーンエイジャーが直感的に理解してしまうことは可能だ。メランコリーが年齢に関係なく人に宿るということは、彼自身そのアルバムで歌っていることじゃないか。

 

「インディーロック界の重鎮、ついに初来日」という触れ込みで先月行われた、渋谷のクアトロでの一回きりのコンサート。

私はコズレックのステージをアメリカで見たことがあるが、一番印象に残ったのは演奏の合間のお喋りだった。客に絡んでくるのだ。

今回、大人しい日本人を相手に何を言い出すのか不安だったが、やり玉に上がったのは客中のオーストラリア人たちだった。「見ろよ、ジャパニーズ・ガールとデートしているデクノボウたちを」から始まって、「お前らの国はアメリカより20年遅れてる」などと案の定言いたい放題だった。

その途中で自分の新しい作品の話しになり、上記のようなやりとりがあったのだが、その時だけ急に聞く耳を持ち、客の言葉を辛抱強く待った。彼はファンが自分の新譜をどう受け止めているのか本当に知りたがっていた。

 

アルバム『ベンジー』は異質だ。自身のバンドであるレッド・ハウス・ペインターの解散以来、十数年間ずっと貫いてきたスタイルが大きく変わった。静謐でなめらかなアコースティック・ギターに荒々しさが加わり、抑えの効いた透明感のあるボーカルは擦れ、ところどころでブレている。

内省的なフォーク・ロックであることに変わりはないのだが、アプローチの違いは明らかで、これまで積み上げてきたものを壊すような方向性には驚かされる。

『ベンジー』はピッチフォークという影響力のある音楽メディアから絶賛されているが、それについて本人は「おまえらあのレビューに洗脳されたんじゃないか?」なんて皮肉を言い、素直に受け止めているようにはとても見えない。

ドラム・スティックを片手に叫ぶようにして歌ったその夜のステージを見ていると (ギターよりもドラムを叩いている時間の方が長かった)、かなり苛ついているようにも感じた。ひょっとしたら彼は、このアルバムが受けている思いがけない高評価に混乱しているのかもしれない。

 

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

初めて遊びに行ったのは、彼女がロスに住んでいたころ。確かハンティントン・パークだった。

マルセロとかサイラス・ハントっていう奴らと友達になったんだ。

ダウンタウンでアイスクリームを食べて、ポテトフライを鳩にあげたり、ベトナム帰りの傷痍軍人と喋ったり。

ハチドリやヤシの木やトカゲを初めて見た。海もそう。

デビッド・ボウイの『ヤング アメリカンズ』を聴いたのも、『ベンジー』を映画館で観たのもこのときだった。

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

すごく苦労したらしい。

でも最初の旦那が死んだ後、カルフォルニアの男と出会って彼がとてもよくしてくれた。

俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん、俺のおばあちゃん。

62歳でガンを宣告された。

彼女の子供たちが面倒をみて、きちんと最後まで看取ったんだ。

 

アルバム中で私が一番好きな曲、『Micheline』の3番の歌詞の後半だ。1番で近所の知的障害の少女・マケリーンについて語り、2番で昔のバンド仲間・ブレットについて語る。二人とも「おばあちゃん」同様この世にはいない。マケリーンは成人した後に悪人の親子に騙され、最後は彼らに殺されたことが示唆されるし、動脈瘤を煩っていたブレットも妻子を残して亡くなってしまった。

人が年齢を重ねることとは、周りの者が逝ってしまうことだと言わんばかりに執拗に死者たちのことを取り上げる。火事で不慮の死をとげた再従姉妹の歌で始まり、アルバムが終わるまでの11曲の間に両手で数えきれない程の人間がこの世からいなくなる。

それが必ずしも暗く響かないのは、そのことを受け止めてなお生きていこうとするコズレックの意志が伝わってくるからだ。照れることなく披露している両親と姉への愛情もいい。

以前にも増して独白調になった歌詞は、まるで酒場でする身の上話みたいにも聞こえるが、それこそドキッとするくらいに "Honest" なのでつい聞き耳を立ててしまう。演奏も声も完成度は落ちているのに歌詞に鬼気迫る凄みがあって、それがアルバムの核になっている。

 

これを評価するかは好みの問題だろう。飲み屋に例えれば、結局彼が入り浸っているのは大衆酒場でもお洒落なカフェでもなく、裏通りにある目立たないバーなのだ。そして、例えそのバーに足を踏み入れたとしても、カウンターに居座ってくだを巻いている中年男にはちょっと近寄り難い。

ちなみにその夜彼が観客に向かってついた悪態のひとつが、「今夜のことをせいぜいブログにでも書くんだな」だった。両手を胸の前にかざしてタイプする真似をして、表現のはけ口がそれ位しかない私のような者を揶揄して笑ったのだ。

書いたよ、コズレック。この糞野郎。

 

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Happiness Is A Warm Gun

先日、見たくないものを目撃した。

近所の大通りを駅に向かっていると、目の前をゆっくりと歩いているお婆さんがいた。傍らには孫娘らしきよちよち歩きの年の頃3、4歳の女の子。すると、ふたりの横に一台の業務用トラックが信号待ちのため停まった。助手席から一人の男の顔が覗いている。20代後半、あるいは30代前半だろうか。ごく普通のなりなのに、目つきが尋常でなかった。誰にも見られていないと思っていたのか、興奮を隠しきれない様子で、口元を緩めたまま少女を舐め回すように眺めている。

後ろから通りかかっただけの私だが、その様子を見ているうちに不快感がこみ上げてきて、トラックの横を通るときに送った彼への視線は鋭いものになった。気づいた彼は慌てて視線を外した。

私はそのまま歩き続けた。ただ信号が青になればトラックは再び追い越してゆくので、男ともう一度すれ違うことになる。不意をついて睨みつけた私に、彼は何か言ってくるだろうか。車から降りて食ってかかってくるだろうか。

ディーゼル音が近づいてきた頃を見計らって振り向くと、男はやはりこちらを見ていたが、その視線は弱々しかった。拗ねたような表情をちらりと見せて、すぐにまた目を反らした。トラックは速度を増して遠ざかった。

 

男を幼児性愛者と決めつけてはいけない。それは分かっている。でもあの目つきを見たらそう疑わずにはいられなかった。

もし彼が「見ていたのは少女じゃなくて、お婆さんの方だ」と弁明してくれたら、私の気持ちはどれだけ楽になったことだろう。他人の性の指向なぞ知ったことではないし、どんな性愛だってありだと思っている。当事者たちの合意で行われる限り。

そして、相手が子供でない限り。

現在の日本の性的同意年齢は男女共に13歳と低いが、青少年保護育成条例によって、既婚者を除く18歳未満の男女との淫行やわいせつ行為には刑事処罰が課せられる。一昔前に比べれば、子供を性の暴力から守る法律は整っている。

 

その一方で、ペディファイラー、つまり幼児や少年少女に性的に欲情する人間がいることも分かっている。

アメリカでもペディファイラーにどう対応すべきかの議論は耳にした。州によって違うが、一度でも法に触れる行為(児童ポルノの所有を含む)に及べば、登録を義務づけ、その情報を公にしているところが多い。自分の住む地域のどこに前科者が住んでいるか、調べればすぐに分かるようにしているのだ。

すると一度の過ちで烙印を押され、更正の道が閉ざされるので畢竟、人権の問題になるのだが、「こればかりは仕方ない」という雰囲気が少なからずあった。この国には珍しくそれに抗う声も小さかった。

 

私も普段からマジョリティーの側に立って安易に物を考えたり言ったりしないよう気をつけているのに、それらしい男を見かけただけで反射的に憎悪の視線を送るのだから、この件については抑制が効いていない。

どんなに美しい文体だという評判を聞いてもナバコフの「ロリータ」は読み進めることができないし、阿部和重の小説群もどうも評価する気になれない。阿部が一筋縄ではいかない優れた作家であることは分かるが、少女趣味の変態中年男(時には警官だったりする)が繰り返し出てくると、作家の意図を考える前に胸糞が悪くなってしまう。

人間の性癖の分析や、治療の可能性、そして何より犯罪の防止のために冷静な議論が求められるべきなのに、どうやら私にはそれができないらしい。制裁する側に加わる気は更々ないのに、不審者を片端から告発してしまいそうな勢いの自分がいる。

あの男が最後に一瞬見せた、拗ねたような暗い表情が目に焼きついている。

仮に私の疑念が当たっていて、彼にその傾向があるのなら、妄想は妄想に留め、カウンセリングなどの治療を受ける努力をして、決して行為に及ばないこと切に願う。取り返しのつかない暴力をふるわないことを。

 

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皆殺しのバラード

街角で見かけたポスターのタイトルだ。落ち窪んだ眼をした白髪混じりの男が歌っている。あるミュージシャンのドキュメンタリー映画だという。

私はそこで初めて山口富士男の死を知った。

1960年代の「ザ・ダイナマイツ」、70代の「村八分」、そして80年代の「ティアドロップス」。メインストリームからは程遠かったが、時代時代で常に影響力を持つバンドを率いてきた日本を代表するロックンローラーだ。

しかし私にとっての山口富士男は、ソロ・アーティストとしての存在が一番大きい。というのも、大学生の頃友人がくれた「PRIVATE SESSION」のテープが長い間私のお気に入りだったからだ。「錆びた扉」で始まるアコースティック・セッションはとびきりかっこよかった。

寂しさに暮れているのに潔く、優しさに満ちているのに尖っている。確かに彼の歌には心をえぐる鋭さがあった。

結局私は劇場公開を見逃すのだが、ネットで予告編を見ると、この映画は彼の晩年のコンサートを撮ったものだという。キース・リチャーズ風のよれっとした趣でギターを弾き、べらんめえ調で歌い、ステージから客に罵声を浴びせる。楽屋裏でも誰かに絡んでいた。

どうやら彼は年を取っても怒れる男で居続けたらしい。

 

その正反対、つまり孫を可愛がり、趣味を嗜み、いつも穏やかで人の手を煩わせないというのが日本における理想の老人の典型だろうか。

でもそれも軽薄だ。「足るを知る」という静かな生き方を若いころから実践してきたのならわかるが、大抵の人は欲望に従順に生きてきたのに、年を取って急に好好爺然とし始める。病気したり引退した途端に禅の本を買い求め、インスタントに悟りを開くなんてちょっと猾くないか。

かといって、いつまでもわがままを貫いて周りに迷惑かけっぱなしというのもみっともないけれど。

20代の頃、自分が中年になったら何を考えているか想像つかなかったように、今の自分に、将来どんな老人になるのかはわからない(長生きしたらの話しだけど)。今年80歳になる自分の父親を見ていると、好好爺が顔を出す日もあれば、まだまだ現役だと自己主張する日もある。

たぶん人は心情的にその両極の狭間を行きつ戻りつ暮らすのではないか。いつか来る、迫りつつある終わりが穏やかであることを願いながら。

 

山口の終わりはちっとも穏やかでなかった。

新聞によると、昨年の7月15日の深夜、彼は横田基地のある東京福生市のタクシー乗り場にいた。その場にいた会社員が女性に道を教えていたところ、女性と面識のある米国軍人とその息子が通りかかった。二人は彼女が絡まれていると勘違いして会社員を殴りつけたという(変な話しだ。本当だろうか)。もみ合いに参加した山口は、息子の方に突き飛ばされて頭部を地面に強打し、脳挫傷を起こす。そして一ヶ月後に病院で死亡した。

仲裁に入ったのか、加担しようとしたのか、あるいは挑発したのか。記事からは事の詳細は不明だ。

ただ突き飛ばされる一瞬前の彼の形相は想像できる。「てめえふざけるな」とか「ファック・オフ」とか叫びながら、凄い眼をして、自分の倍はあろうアメリカ人に歯向かっていったにちがいない。

ケンカによる不慮の死。悲しい結末だ。でも失礼を承知で言わせてもらえば、長患いの末亡くなったり、事故でもお決まりのドラッグのオーバードースで逝ってしまうより、ずっと彼らしいような気がする。享年64だった。

胸に刺さる歌をありがとう。

 

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ラフォーレで健診

東新宿の小綺麗なビルに到着すると、ロビーには出迎えがいた。

スーツを着た女性は、私の来訪の目的を確認しながら素早くエレベーターのボタンに手を伸ばした。エレベーターの降下を待つ間、彼女は少し離れたところで半身に構えていた。話しかけたら機敏に対応してくれたにちがいない。

男性と女性でフロアが違うというので、男の階で降りると、目の前に明るいエントランスが広がった。待ち受けていた別の女性に促されて、スリッパに履き替え椅子に座った。これがこの日何十回と耳にした「こちらにお掛けになってお待ち下さい」の初回だった。

名前を呼ばれてカウンターに行くと、手首にコンピューター・チップの入ったブレスレットをはめられる。私は「30番」らしい。清潔なロッカーでオーシャンブルーのトレーナー上下に着替えてから待つこと数分、もう一度名前を呼ばれ、健康診断が始まった。

 

アメリカできちんとしたものを受けなかったので、フルの健康診断は初めてだ。医療費が高額なアメリカでは、必要に迫られないと病院には近づかない。かかりつけの医者に頼めば受けられる簡単な健診も私はずっとパスしてきた。

ということで今回日本での健診にデビューしたわけだが、クリニックの予想外のサービスに私は面食らってしまった。

まず働いている人がやたら多い。しかもほぼ全員が若い女性。事務員とスチュワーデスの間をとったような制服を着た彼女たちが手取り足取りサポートしてくれるのだが、バリウムの粉が口元についていると言ってはティッシュ・ペーパーを手渡してくれ、トイレに立つ背中にはいちいち「いってらっしゃいませ」と囁いてくれる。(彼女たちの表情を観察すると、かなり辛そうなのだが)

スタッフは数だけでなく、その配置に妙があるようだ。身体測定や視力検査など簡単な作業はこの女性たちが受け持ったが、レントゲンや採血には白衣を着た(たぶん)医療技師が対応した。胃の検査をしたのは小学校教諭風の男性で、採血はお母さん風の女性だった。つまり、持ち場ごとに違うスタッフのイメージがいちいち適材適所なのだ。

最後にピンクの看護服を着た美人に案内されて医者の部屋に通されるのだが、待っていたのはいかにも聡明な感じの女医だったので、私は笑い出しそうになった。これじゃまるでTVドラマだ。

 

労働安全衛生法で法人に従業員の健診を義務づけている日本では、健診サービスは大きなビジネスなのだろう。競争はきっと熾烈なのだろうが、診断に訪れている人の多さを見るかぎり、このクリニックは繁盛しているようだ。

ということは、この過剰な接客サービスの評判は良いのだろう。さらに言えば、昨今の日本男子が求めているものがここに提供されているということになる。診断が終了した後に立ち寄れるネット環境完備のラウンジでは、おっさんたちが満足げにコーヒーの飲みながらまったりしていた。

私がひとつ気になったのは、スタッフの喋り方だった。優しさは接客の域を微妙に越えているのだが、よく聞くと子供に話しかけているようなトーンなのだ。バリウムを飲んでベッドの上でぐるぐる回る私に教諭風は小学生を諭すような調子で指示を出したし、採血に固くなっている私にお母さん風は近所の子を言い含めるように喋った。

 

バリウムを出すための下剤を飲んだ私は、健診を終えて外へ出た。ほんの数時間のことだったが解放されるとやはりほっとする。

「食事は普通に」ということだったので、私は目についた牛丼屋に入った。

「いらっしゃい」という突き放すような力強い声が耳に心地よかった。子供のように扱われることに私は居心地の悪さを感じていたのだ。

声の主が注文を取りにきたので顔を上げると、意外に若い、色白の青年だった。社員なのかアルバイトなのかわからないが、頑張って働いている感じが滲み出ている。

彼はもう健診は済ませたのだろうか。

 

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偏向報道と私の偏見

兵庫県西宮市の今村岳司市長が発表した、偏向報道への対策が議論を呼んでいる。

今後メディアの取材を受けるときは、市の職員もその様子をビデオで撮影をするという。そして、報道が偏っていると市が判断した場合は、その特定の報道機関の取材には一切応じないというのだ。

決断のきっかけになったのは、阪神大震災の被害者の復興住宅についてのテレビ番組らしい。住宅の市への返還日が迫っているが、番組は市が行っている支援策には触れることなく、一方的に入居者を追い出しているように報じたという。

偏っているかどうか判断するのは視聴者で、市長の役目などではないし、彼は何か大きな勘違いをしているようだが(その後「取材拒否」方針は撤回すると発表があった)、メディアに対して難癖をつけたくなる気持ちもわかる。少なくともその番組が市に対してアンフェアだったことは容易に想像がつく。最近私は似たような話で似たような偏向報道を目にしているからだ。

 

2020年に開催される東京オリンピックの影響でなくなる団地がある… という新聞記事を読んだのは半年前のことだ。

メイン・スタジアムの建設にともない、近くの都営団地が取り壊される。そもそもこの団地は1964年の東京オリンピックがきっかけで建てられたらしい。現在の国立競技場を作るため、一帯の木造長屋を取り壊して、住人たちを競技場の近くに建てた団地に移動させた。つまり最初から住んでいる人々にとっては今回が2度目の立ち退きになる。

相談ではなく事後報告だった、という東京都の対応を含めて、記事は「理不尽な強制退去を許していいのか」というトーンで書かれていた。

しかし住人たちに会ってみると、話は違っていた。

確かに皆不満や不安があるのだが、大抵の人が「仕方ない」と感じている様子で、「新しい団地に移れるのだから歓迎」という人も多くいた。都も移転先として他の団地を斡旋していて、すでに半数以上の住人が引っ越しをすませていた。新聞が伝えるようなひどい立ち退き話ではなかったのだ。

これは単なる偏向報道ではすまされない。受けのいい「弱者排除」の話にするために、恣意的にトーンを変えたと言われても仕方がない。

結局私は、団地の現状を伝える4分間の短い番組を作った。「全員が無事に引っ越せるまで頑張る」という町会長に焦点を当て、間もなく消滅する団地で暮らしを続ける老人たちの姿を淡々と伝えた。

 

結果的に当初の予想を裏切る展開になったわけだが、取材中のサプライズはもうひとつあった。こちらの方は、ある人物に対する私個人の偏見を覆す、ありがたい出来事だった。

団地恒例の新年の餅つき大会に立ち合ったとき、一部の住人から強い取材拒否の声が上がった。もうメディアは懲り懲りだと感じている住人がいることは知っていたし、最後の餅つきぐらい静かにやりたいという意見があることも数日前から聞いていたので、会長を介して特別にお願いしていたのだが、うまく伝わっていなかったらしい。

取りなそうとする会長の言葉も受けつけない強い調子だった。この日の映像が撮れないと企画が成り立たないという事情もあり、私は真っ青になった。

このとき、黙って餅つきの準備をしているJ氏が目に入った。

「東京都には誠意がない」「ここを絶対動かない」と声高に主張する彼は、先の新聞記事にも登場していた言わば団地の顔で、移転に関しても会長とは考えを異にする人物だ。私も最初に彼に話を聞きにいったが、4分間の番組に彼を取り上げる余裕はないと判断して、その後は不義理を重ねていた。その経緯もあり、彼は私に腹を立てている、少なくとも私を敬遠していると思っていた。

団地の役員たちが私を追い出すべきか否か協議をしている間、彼と目が合った。しかし今更助けを請うことはできない。

結局会長の粘り強い説得もあり、最終的に遠距離からの撮影許可はおりたが、気まずい雰囲気は強く残った。

 

J氏が中心になって餅つきが始まった。その横で私はカメラと三脚を持ったまま突っ立っていた。

やがて碓に出来上がった最初の餅を手早く丸めたJ氏は、それが習わしなのか、小さくちぎって周りの人たちに手渡し始めた。皆「おめでとう」などと言いながら楽しそうに口に運んでいる。

すると彼は、突然こちらに歩み寄り、機材で手が塞がっていた私の口に一切れの餅を放り込んだ。

驚いた私は、目を白黒させていたに違いない。それを見た何人かが笑い、空気が微妙に動いた。「いいじゃねえか」とは誰も言わなかったが、餅を食することで、私はその集まりに何となく受け入れられたかたちになった。

J氏の粋な行為に救われた私は、その日の長い取材を終えて帰るまでに、おはぎやお汁粉など美味しい餅料理を食べきれないほど頂くことになった。

 

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