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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ヒリヒリの空気

Sunday is the most segregated day in America.

「アメリカが最も分断される日は日曜日」という言い方がある。

集う教会が人種間でほぼ別れているから、神聖とされる日に一番バラバラなのは本当だ。午後になれば、NFLとかNBAとか国を挙げての「儀式」があるので、朝の隔離はスポーツ観戦で少し解消されるけど。

私の印象では、日曜日の教会以外にも人種ではっきり別れる場所がアメリカにはあって、それは髪を切る場所です。

ほぼ例外なく白人は白人に切ってもらうし、黒人は黒人の美容師や理容師のもとに通う。フォトエッセイの撮影で、ノースカロライナ州の黒人経営の理髪店に数ヶ月かけて出入りしたことあるけれど、黒人以外の客は現れなかった。テーンエージャーの間でヒップホップの人気は人種を問わず高くて、ミュージシャンのカッコを真似る若者も多いから、ひょっとしたらその手のボーイズが来るかと思ったけれど皆無だった。

髪の質が違うから、と言えばそれまでだけれど、髪の毛を触る、触られることは実はとてもプライベートな行為で、多民族が暮らすこの国でも、人種の違う者に頼むのはハードルの高いことなのかもしれない。

 

ではアメリカにいたころ私はどうしていたかというと、予約を取って行動することを面倒くさがるズボラだから、目についた場所にアポなしで入るという暴挙を行なっていた。それじゃ上手く切ってもらえないし、東洋人の男が突然店に入ってくるのだから、店の方もかなり困惑したと思う。

お洒落な美容室のお姉さん(白人)は、私を担当することが少しだけ誇らし気であるようで、その実かなり緊張していたし、ショッピング・モール内の理容室のおじいさん(黒人)にとっては、長いキャリアの中でも経験のない出来事だったようだ。彼にはすべて切り終えてから、「アイ・アム・ソーリー」と耳元で重々しく謝られた。鏡で見ると、左右の長さが違っていた。

無難なのはガイジンなのだという結論に至り、イラン人や韓国人のおばさんにはよくお世話になった。彼女たちの腕が良かったというよりは、アジア人の髪の毛の扱いに慣れているというだけなのだが、少なくとも仕上がりにドキドキすることはなくなった。

昨今のアメリカの分断のニュースを聞いていると、そんな些細な経験を思い出す。人種をまたいで日常的に起こるちょっとしたフリクションにどう対処するのか。皆あってなきが如しと振る舞うのだけど、そこをスマートに切り抜けるのがリベラルで、前もって回避するのが保守といったらあまりに雑な分け方だろうか。

豊かなリソースと優れた憲法が身近にあり、よそ者には寛容で、正しいことは正しいと理念を振りかざせる場所。タガが外れてしまったようなここ最近は知らないけれど、簡単に言うと、これが私の知っている米国の姿です。

でも沢山いる人種は、大抵は融合なんかしちゃいない。それぞれがそれぞれの場所で暮らしている。仕事場、学校、それにパーティーと、肩を並べる機会はデフォルトとして日常にあるのに(私の娘たちが乗った黄色いスクールバスは、人種のるつぼだった)、お互いのことを知らない。微妙な空気が流れたら、「正しさ」を標榜して明るくドライに乗り切るのだが、その刹那のヒリヒリとした高揚感に私はいつもアメリカを感じていた。

彼らが少しだけハイになっているを私は知っている。

でも近づきすぎてはいけない。

並んでフットボールを見るのはOKだけれど(ハイタッチは一瞬のことだ)、髪の毛を20分ものあいだ触ってもらうのは、客とはいえ少し過ぎたリクエストなのだ。

 

物事の動くスピードが速く、極端に振り子が揺れるこの国のことだ。今叫ばれている分断も、11月3日に向けてもう埋まりつつあるように見える。でもよく指摘されているように、沈みつつあるミドルクラスの暮らしを食い止めないかぎり、寛容さはますます薄れるだろうし、頼みのサブカルもコロナ禍で不調だから、アメリカの前途はやっぱり多難に見える。

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「大草原の小さな家」

週末の朝早く、目が覚めたので何気なくテレビをつけると、「大草原の小さな家」をやっていた。

アメリカの懐かしいドラマだ。

かつて国会でゴタゴタがあり、NHKが放映中のこのドラマを中断して議場から生中継したことがあった。すると翌日の新聞には、「道徳を学んでいた全国の青少年たちに、大人のダメなところを見せて恥ずかしい」という内容の記事が掲載された。

当時のお茶の間の影響力を感じさせる話だが、いかにこれが大人たちに推奨されていたドラマだったかもわかる。

10歳くらいだった私も、家族揃って見た記憶がある。

 

冒頭、一家が馬車で移動の旅に出るところが映し出される。

アメリカ西部の美しい自然。愛すべきインガルス家。

やがて流れの速い、大きな川に出くわす。ママ (Ma)も娘たちも、「危ないから止めておこう」という雰囲気を出しまくるのだが、勇気あるパパ・チャールズ (Pa) の英断で横断を始める。

案の定、馬たちが深みにはまって前になかなか進まない。馬車がぐらりと傾いた瞬間に、飼い犬が川に落ちてしまう。叫ぶ次女ローラ。

結局なんとか無事渡りきるのだが、犬の行方がわからない。パニクったローラが川沿いを走り回る。止めるパパとママ。

「だから渡らない方がいいって言ったじゃない」と言ったかどうか(家人が寝ていたので音を消して見てました)、とにかくローラとパパが一日中ぶつかる。

泣きじゃくるローラの前に、やがてびしょ濡れのワンちゃんが姿を現す。一件落着だ。

場面は月の明るい夜になり、たき火の残り火の前で独りフィドルを奏でるパパが映し出される。と、背後に思い詰めた表情のローラが現れて、「パパごめんね」とかなんとか。パパは許すという感じで何か言い、娘を抱きしめながら夜空を見上げて、ワンちゃんを無事に返してくれた神様にお祈りしようと促す…。

 

おいおいおい。判断間違えてワンちゃんを溺死させそうになったのは Pa のせいじゃないのか?

あのまま立ち往生すれば、家族の身の危険だけでなく、馬車に積んだ家財すべてを失う可能性もあったのだから、リスクマネージメントの甘さを反省すべきは誰なのか。

そういえば出立するとき、持ち馬の一頭が妊娠していてめでたいと喜んでいたけれど、水の中であれだけ無理させたので流産したのではないか(途中コーヒーを入れに立ったので、この部分は不明です)。

唖然として画面を眺めていると、エンドロールに Directed by Michael Landon の文字が流れた。チャールズ役の俳優本人が、番組のディレクターだったのは知らなかった。それなのに、というかだからなのか、際立ったパパのワンマンぶり。あのフィドルの場面も自ら演出したのだろうか。

ちなみにこのエピソードで、視聴者が学ぶべきモラルとは何だったのだろう。

 

原作はローラ・インガルス・ワイルダーの小説ですね。

アメリカの保守の人々のバイブルとも言われる本だが、「風と共に去りぬ」同様、後になってから差別的な表現が問題視されてきた作品だ。フロンティアを美化しているのだから、白人至上主義的になるのは当然といえば当然だろう。

同じ開拓期の物語でも、最近読んだトレイシー・シュヴァリエの「林檎の木から、遠く離れて」はトーンが大違いで、アル中の母と、林檎の木の栽培に狂ったような執念をみせる父との間には、壮絶な喧嘩が絶えない。口論あり、暴力ありで、ロマンのかけらもなければ、モラルも遠くにかすんでいる。

むごすぎる二人の最期はやりすぎかもしれないが、入植という想像を絶する辛苦に荒んでゆく人の心が伝わってくる。新天地といえば響きはいいが、要は辺境の土地に石にかじりついてでも住むことであり、先住民のインディアンの掃討なのだから、当時の人々の生活の実感はあるいはこんな感じではなかったか。

その残酷な現場から逃げるように旅立ったひとりの息子の数奇な人生、そして彼の妹との行き違いと邂逅には胸を揺さぶれるが、漂うのはロマンなどではなく、過去を断ち切って生きることしか選びようのない者たちの悲しみと潔さだ。

おじさんになった今の私は、リアリティーを感じさせるこちらのナラティブにより心惹かれる。

 

でも美化したからこそ、「大草原の小さな家」は本もテレビも「不朽の名作」になったのは間違いない。世界中で翻訳され、放送されたという。40年後にNHKで4K完全復刻版とか、日本での人気も半端ない。

ウィキペディアをのぞくと、パパ役のマイケル・ランドンはユダヤ人の父を持つニューヨーク出身の俳優で、ヘビースモーカーで大のつくお酒好きだったそうだ。3回結婚して子供が9人いるが、最後のお相手は「大草原の小さな家」の制作スタッフだったメイクさんで、シーズン7の撮影中の不倫の末に結ばれたという。ふーん。

すい臓ガンで54歳で没。

子供のころ好きだったテレビ番組とか、あまりうかつに見るものでもないようだ(強いて言えば、これが今回私が学んだモラルです)。

「刑事コロンボ」はそっとしておこう。

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怪ピアニストの息子

才人の子供は大変だという。

精神的な親殺しが成人するための通過儀礼だとすると、確かに端からしんどい闘いを強いられていることになる。

二世のタレントや議員が幅を利かせているのを見ると、上手く立ち回っているような印象が強くて、「何だかなぁ」という気分になるけれど、皆さんやっぱり大変なのだろうか。何をやっても「親の威光で…」と言われたり、いちいち比較されたりするのは、たまったもんじゃないのだろう。

 

天才と呼ばれる人の息子の写真を撮ったことがある。

ジャズの巨匠セロニアス・モンクは、ノース・カロライナ州のロッキーマウント出身だ。ニューヨークに引っ越すまでの幼年の時代を、この片田舎で過ごしたらしい。

長男の T. S.モンクはドラマーで、自身もプロのミュージシャンなのだが、彼の名前を知っている人はどれくらいいるだろうか? 音楽活動のかたわら、モンクの名で立ち上げた財団の代表も務めているらしい。

ロッキーマウントのとある高校のブラスバンドを、その彼が半日指導にあたるというので、私はカメラを携えて出かけていった。当時私が住んでいた州都から一時間のドライブだった。

細かいことは忘れたが、記者は送らず、写真とキャプションだけで紙面にしようというデスクの判断だったから、大した話題にはならなかったのだろう。ただ私は、世界的なレジェンドの息子がどんな人なのか興味があった。

 

音楽室に集まった学生たちの前に、長軀で細身の男性が現れた。

身なりも地味だし、大人しい口調の挨拶もそこそこに「じゃ、やろうか」と指揮棒を手にする彼に、父親の持っていた奇才のイメージはない。メディアの人間は私ひとりだった。

驚いたのが学生たちの演奏だった。

バンド用にアレンジされた「エピストロフィー」だったが、バラバラで、要するに下手なのだ。素人の私にもわかる明らかな準備不足で、ひと通りどんちゃか演って、ストンと終わった。

ミスター・モンクの動きが止まった。

学生たちと、見学に駆けつけていた教師たちが、固唾を呑んで彼の反応を待っている。指揮棒を投げつけたり、そのまま立ち去るのではないかと心配したが、そのどちらでもなかった。

「君たちは楽譜通り弾いてないね」

「 ... 」

「オーライ、でもそれもジャズだ」

ファインダー越しに彼の顔を見つめながら、私は天才の子の苦労を思った。ややズッコケつつも、その場を救った彼の優しさ、常識ある大人の対応に感じ入っていた。 言動は気鋭の芸術家のそれではなかった。

そのごく普通の感覚を身につけるまでに、どれほどの葛藤があったのだろうか...などと勝手な想像を巡らせる。オヤジにあって、自分にないもの。それを認めて、なんとか折り合いをつけて自我を確立するのに、どれくらいの時間と労力が必要だっただろう。

 

そもそも父・モンクの音楽は、あまりの特殊さゆえか、そのすばらしさを語ることはできても、どう優れているのか論理的に説明するの難しい。私が知らないだけで、立派な評論が確立されているのかもしれないが、何となくそんな気がする。

例えば私が持っている「ストレート、ノーチェイサー」のレコードのジャケットの裏に印刷されているライナーノーツも、「革命的」「アバンギャルド」なんて派手な言葉が並んでいるのに、説明には乏しく、聞けばわかるだろうみたいな調子になっている。それどころか「批判はわかるが...」などと妙に言い訳がましい。

ちなみにグアテマラの作家、エドワルド・ハルフォンの小説「ポーランドのボクサー」に「エピストロフィー」という節があって、モンクの音楽がモチーフになっているのだが、主人公の「私」とセルビア人ピアニストがバーで出会うくだりが印象的だ。作家のモンクへの耽溺ぶりが透けて見える箇所で、評論よりは小説の中のこんな文章のほうがずっと分がいい。

 

 私は、バード、初期のマイルズ、コルトレーン、テイタム、パウエル、ミンガスが好きだと言った。でもモンクには恋してると言ってもいい。おお!とミランがテキーラを少しすすって大声を出した。巨人セロニアス・モンクだな。それから私たちは、まるでアステカの戦士が北欧の奇妙なルーン文字の名前を挙げるように、メロディアス・サンク(モンクの妻は彼をそう呼んだ)のありとあらゆる曲名を交互に唱え始め、それはみな無秩序に並べ立てものだが、口にするとなぜか、あの不協和音と縁なし帽と神秘的なトランス状態と幸せな魚の頬をもつ怪ピアニストの強張った指できちんと秩序をあたえられているように聞こえた。

 

ところで「That’s jazz 」というひと言で、誰からの反論も受け付けつけずに場を収められる人間は、この世にいったい何人いるだろう。何と言っても、彼はモンクなのだ。(これが一番本人が嫌がる言葉なのだろうけど)

氏のことをさして、「オヤジの遺産で食っている」と揶揄するのは簡単だ。実際にそう言う声もあるに違いない。父親が遺した偉大な音楽を次の世代に継承するために、はたして彼がどれほどの活動しているのか、どんな気持で向き合っているのか、私は知らない。

でもその日、若者たちにすぐにダメ出しをせず、セカンドチャンスを与えた彼の姿は悪くなかった。想像していたイメージとはまるで違ったけれど、かっこよかった。

気を取り直して再開した学生たちの演奏にも、緊張が溶けたからだろうか、一度目よりは少しだけグルーヴ感が漂っていたように思う。

 

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道南日記

Day 1
なんとか仕事終えて、丸の内改札から八重洲側に東京駅を横切り、 青森行きのバスに乗った。ひとりで北海道に行くと言うと、同僚に「大丈夫?」と言われた。ほっといてくれ。

ウェスト・バージニアからコロラドまで28時間かけてバスで移動したことがあるけれど、日本では初めての長距離バスだ。しかも夜行。当然ながら夜に乗ると運賃が安いだけでなく、ホテル代が浮き、休み明けの初日から現地で動けるというメリットがある。

でも熟睡はできない。途中で大きく揺れて嫌な連想をしてしまった。乗る前に立ち寄った本屋で「永い言い訳」の文庫本が平積みにしてあるのを見かけたからか。あれはスキー旅行に出かけた妻が、バスの事故にあって還ってこなかった男の話だ。

 

Day 2
青森のフェリー・ターミナルで降りたときは、眠くて朦朧としていた。津軽海峡フェリーは思いの外大きかった。雑魚寝の「スタンダード」から「ビューシート」にアップグレード。両隣は観光中らしい大人しい若いカップルと、こざっぱりした身なりの白髪の中年男性。このオヤジが旅行なのか出張なのか見た感じで判別がつかない 。隙がなく、話しかけられる雰囲気でもない。強いて言えば刑事みたいだった。

3時間半で函館に着く。東京を出てから約15時間。ターミナルから街に向かって歩くと、大通りなのに歩道に人の姿がない。そこかしこに停っている車内には人影が目立ち、スマホをいじったり、居眠りしたりしている。ディーラーもたくさん並んでいた。 地方ではまだまだ車が生活の中心ということか。 

函館駅の前に出ると、突如スーツケースを引いた群衆が現れる。一斉に向かう先に観光客相手のいかにもという感じの市場。これだけ情報で溢れているのに、だからこそなのか、観光客は同じものを見て食べている。それに反撥する気持になり、お昼は市場ではなく、地元民が行く風情の食堂に入ったけど、出て来たイカ刺しはまあまあだった。

でも滞在を通じて食した海の幸は、やっぱり美味しかった。定食の漬物や居酒屋の突き出しからして味が違うし、寿司なんか、東京で我々は一体何を食わされているのだろうと考えさせられるレベルだった。

 
Day 3
「何泊の旅行ですか?」と聞かれて、「決めてません」と答えると、一様に羨ましがられた。いいでしょう。私だって久しぶりの贅沢だ。

ただ宿を聞かれて、「カプセルホテル」と言うと、皆さん一瞬間が空いた。でもね、最近のカプセルホテルってすごいんだよ、泊まった函館のそれは神レベルの清潔さで、ドアつきの個室タイプもあるし、共有スペースは今時のシェアハウスっぽくお洒落で、つまり他人とふわっと交われるきっかけを与えてくれるのですね。別にそこは求めてないけど。

路面電車の一日乗り放題のパスを買い、函館市内と湯の川を行ったり来たり。適当な駅で降り散歩して、温泉に入り、地ビールを飲んで、また車中に戻る。ゆったりとしたトラムのリズムが心地いい。何度か寝落ちした。

この辺りの店のネーミングが気になった。スナック「無愛憎」とか、バー「Too Late」とか、あまり入る気がしない。理容室「Famous」で散髪は恥ずかしい。 うどん屋「だるま」、これはいいね。ネーミングの問題じゃないけど、「太宰耳鼻咽頭科」には目がいった。ちなみに「太宰心療内科」とかあるのだろうか。流行るのか、ダメなのか。

太宰と言えば、函館文学館には行かなかった。最寄りの駅で下車しようと思いつつ体が動かなかった。石川啄木とか井上光晴とか、土地にゆかりのある作家が取り上げてあるらしい。亀井勝一郎なんて懐かしい名前もあった。

佐藤泰志は読んでいない。同世代という括りで村上春樹とも比較される「不遇の作家」(芥川賞候補5回、若くして自死)は、死後に函館市民が盛り上げたことで知名度が全国区になった、まさに郷土の作家だ。でも妻子に暴力を振り続けたなどと聞くとちょっと手が出なくなる。

この旅に携帯した単行本はレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」。チェーホフの何かをと思って本屋に立ち寄ったのに、なぜか一冊もない。仕方ないので同じ「チ」並びで買った。新しい村上春樹訳と、古い清水俊二訳が並んでいたが、あえて後者に。これ以上ハルキワールドに脳内を侵されてたまるか。

夕刻、函館山頂上へ。60周年記念でロープウェイが無料だったためか大混雑だった。お決まりのコースだが、こちらは一見の価値ある、見事な景色だった。

Day 4
一路、小樽へ。この街は初めてではない。

19の冬、突然「流氷が見たい!」といきり立った私は、金を持たずに横浜の自宅を出た。アルバイト先の運輸会社のトラックの運転手たちに乗せてくれと頼み、あっさり断られると、そのまま2日かけて青森までほぼ無賃乗車で行った。訪ねた後輩に「キセルはやめてください」と言われ、借りたお金で道内はちゃんと電車に乗った。

到着した紋別駅の外で夜を明かしていると、ちょうど寒波が押し寄せたらしく、心配してくれた駅員が構内で寝かせてくれた。夜が明けて海まで歩くと、その年の最初の流氷が岸いっぱいに広がっていた。

その帰途に立ち寄ったのが小樽だった。当時どうやって情報を得たのだろう、市内で一番安いと謳っていた「旅人の宿」で一泊したのを覚えている。バックパッカーなどという格好いいものではない。チェックインすると、放浪中の若者たちが7、8人、暗い顔をして集っていた。

夜が更けると、冷たい畳に全員であぐらをかいて車座になり、宿の主を囲んだ宴が始まった。振る舞われたのは底に水を張って凍らしたコップに、ウイスキーをほんの少しだけ注いだ即席のロック。開高健がよく回想して書いていた、戦後のトリスバーのスタイルだったのでびっくりした。話すうちに主人の口調が激しくなり、「あいつらサラリーマン」に対する揶揄と呪詛の言葉が繰り返された。傍で美人の奥さんがうつむいて聞いていた。

あの時、運河を見たのか思い出せない。

今回の小樽は生憎の雨だ。まっすぐ運河まで行き、人気のない遊歩道をひとしきり歩いたが、良さがまったくわからなかった。


Day 5

今日は本州への移動日だ。バスで函館に戻り、再び津軽海峡越えのフェリーに。

昨夜は札幌に泊まった。ススキノであわよくば仕事(会社で用意している記事の撮影)をという魂胆だったが、ホテルを出る前にカルロス・ゴーン逮捕のニュースが飛び込んできて、大騒ぎになった同僚たちのチャットに加わることに。

先を急ぐのは別件で秋田市内のタクシーの運転手を撮ることになったから。結局仕事からは逃れられない。自分でそう仕向けているのだけれど。

この旅でうまく行ったのは函館だけで、慌てて立ち寄った小樽と札幌には振られた感じだ。だから「道南日記」。

でも欲張ってはいけない。30年ぶりに訪れた北海道は素敵だった。

今回実感したのは、北海道は「日本のアメリカ」だということ。先に書いた車社会の件しかり。広大な土地しかり。大きくて明るいつくりの家々は、私が見てきた米国の田舎の風景を想起させてくれる。

そして何より、人々の印象だ。居酒屋で、路面電車で、そして街中で声をかけると、彼らは皆フレンドリーだった。でも聞いたぶんしか返ってこない。微笑みながらでも一歩手前で踏み止まり、立ち入ったことを尋ねてこないので、どこまで会話を進めるのかはこちら次第だった。その陽気さと気遣いの絶妙なバランスがありがたく、オープンだけど馴れ合わない逞しさは、どこかアメリカ人に通じるものがあり、それが開拓民の末裔の気質なのだと勝手に解釈しながら、道中私はずっといい気分で過すことができた。

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スキャンダル

もし『週間文春』で働いてみるかと聞かれたら、イエスと答えるだろう。

何しろ今、日本でもっとも読まれているメディアのひとつなのだ。

でも会議の度にアイディアを一ダースも出さなくてはならないとか、有名人の不倫現場の張り込みをしなけばならないとか聞くと、勤まらないかなと思う。

特にスキャンダルの取材はキツそうだ。これでメンタルをやられる記者もいるらしい。途中で「何でこんなことやってるんだ」と思うにちがいない。

「公人、有名人のプラベートより、公共の利害と表現の自由」

「裁きじゃなくて、エンターテイメント」

などと自身を鼓舞しながら、記者たちは今日も必死に仕事をしているのだろうか。後者は編集長の実際の言葉だ。

そしてめでたく「文春砲」が撃たれれば、雑紙は飛ぶように売れる。

駅やコンビニで目にしたら、私も手に取る。面白そうなら買う。

 

アメリカで私が勤めた地方紙では、その手の取材は皆無だったけど、一度だけ偶然にネタを手に入れたことがある。

そのノースカロライナ州の議員は、教育委員会から政界に転じたという触れ込みの新人だった。議会の初日にたまたま撮影したので、そして美人だったので、彼女のことはよく覚えていた。 

同じ年の暮れ、日本への一時帰国を終えた私は、成田空港内を歩いていた。チケットカウンターを通りすぎ、あとは搭乗するだけとのんびり歩を進めていると、その議員にばったり出くわした。

「あれっ」と思い見ていると、向こうも驚いた様子だった。「あっ、あのカメラマン」から「ヤバい」に顔色が変わったのは、傍らに男性がいたからだろう。プロ・アスリート風の大柄な黒人男性と彼女が親密な関係にあるのは、二人の距離と佇まいをみれば明らかだった。

お互い挨拶を交わし、奇遇を笑って別れた。彼の紹介はなかった。

機内に落ち着いてから、あの議員は確か既婚だったはず…という記憶にだどり着いたが、私はアメリカに戻ってからも特に調べなかった。何故かその気にならなかった。

公務での来日と言っていたので、夫が誰かを確認した上で、彼女がどこで何をしていたのかを当ったら、記事になるような話になったかもしれない。記事にならなくても、次の選挙で彼女と争う共和党陣営にとっては喉から手が出るほど欲しい情報だっただろう。

実際サウス・カロライナ州のマーク・サンフォード知事は、アルゼンチンへの不倫旅行の帰りに空港で記者に捕まり、それがきっかけで辞任に追い込まれた。空港を張り込んでスクープをとったジーナ・スミス記者は、私の元同僚だ。

 

州議会の幕開け日。

議場に人が溢れているのは、その日は特別に議員たちがゲストを招いているからだ。大抵が家族を伴い、セレモニーでは、それぞれがパートナーと並んで聖書に手を置いて宣誓する慣しだ。

返り咲いた下院議員たちの中に彼女の姿があった。最初に撮影した日から、ちょうど2年が経っていた。

セレモニーを前に、ひときわ大勢の人が彼女の周りに集まっているは、彼女の腕に新生児が抱かれていたからだ。

透き通るような白い肌の赤子が布に包まれて眠っている。

フロアの端の記者席から見ていると、目があったので、「おめでとう」の気持をこめて微笑すると、彼女はじっと見返してから口パクで応じた。ゆっくり大きく動かしたので、何を言っているのかよくわかった。

「Thank you」

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不思議な話

世の中には、不思議な話がある。そしてそれを頻繁に体験をする人がいるらしい。超人のオカルトの話ではなく、普通の人たちの身に起こる、説明のつかない出来事。

私には窺い知れない世界だ。

50年この世に生きてきて、あれは不思議だったと思い出せることは、せいぜい三つか四つ。それだって、自分で引き起こしたというよりは、他人の力が私に及んだのだと考えた方が説明がつくし、納得もゆく。

 

ひとつは幽霊の話。

学生のとき、男女 7,8人で肝試しに行ったときのこと。静岡の山奥に車で行けるところまで行き、途中から険しい山道を登った。どんな成り行きだったか覚えていないが、女子のグループとは初対面だった。

心霊のスポットとされる場所に着くと、さっそく人の型をした灯が三つ四つ見えた。立ったり座ったりした体勢の、朧げな緑色の光だった。ただ不思議なことに、私がいくら喚起を促しても、私の隣にいた女の子を除くと、他の者にはまったく見えないようだった。

隣のその娘は無口で、夕食でもドライブでも目立たない存在だったのに、肝試しになるといつの間にか先頭に立っていた。闇の中で存在感を増した彼女が伸ばしてきた手を、私はしっかりと握ったまま歩いていた。なんだかビリビリして、体の芯が共振するような、不思議な感触の掌だった。

霊らしきものを私が見たのはこの一度きりだ。あの娘の手を握っていたから見えた...そう思って間違いないと思う。

 

ふたつめは、他人の死に際して感じたこと。

親しい人が自死したその時刻に、私は暗澹とした気持に沈んでいた。猛烈に気分が悪かった。もちろん後から合点がいったことで、その時はどうしてそんなに気持に陥ったのかわからなかった。そんなことが2度あった。

どちらのときも、ざらりとした虚無の塊に心が圧し潰されそうになり、思い出すと今でも怖い。死を前にした彼らの思念の一部が、何かの拍子で私のもとに届いたのだろうか。

とても悲しい記憶だ。

 

みっつめは自分の命を助けてもらった話。

ノースカロライナの田舎道で、トレーラーを運ぶトラックが横転事故を起こした。地平線が見渡せそうなほど平らな土地のハイウェイだった。

ひとしきり写真を撮り終わり、保安官から情報をもらって、さあ新聞社に引き上げようとしたそのときだ。通りの反対に停めていた車に戻ろうと動き出した私を何かが押しとどめた。襟首引っ張るような力がかかり、不自然な体勢でのけぞった。

と、次の瞬間、轟音と共に巨大な車輛が目の前を通りすぎた。

猛スピードで近づいていた大型トラックに、私はまったく気がついていなかったのだ。保安官に掴まれたのかと思い振り返ったが、彼の背中はすでに遠くにあった。

車に戻り、機材をトランクに入れ、エンジンをかけて出発したが、しばらくのあいだ体の震えが止まらなかった。何となく「生かされた」という言葉が頭の中に浮んできて、何かはわからない相手に向かって、畏怖と感謝の念を抱いたままハンドルを握り続けた。

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