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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

道南日記

Day 1
なんとか仕事終えて、丸の内改札から八重洲側に東京駅を横切り、 青森行きのバスに乗った。ひとりで北海道に行くと言うと、同僚に「大丈夫?」と言われた。ほっといてくれ。

ウェスト・バージニアからコロラドまで28時間かけてバスで移動したことがあるけれど、日本では初めての長距離バスだ。しかも夜行。当然ながら夜に乗ると、運賃が安いだけでなく、ホテル代が浮き、休み明けの初日から現地で動けるというメリットがある。

でも熟睡はできない。途中で大きく揺れて、嫌な連想をしてしまった。乗る前に立ち寄った本屋に、「永い言い訳」の文庫本が平積みにしてあるのを見かけたからか。あれはスキー旅行に出かけた妻が、バスの事故にあって還ってこなかった男の話だ。

 

Day 2
青森のフェリー・ターミナルで降りたときは、眠くて朦朧としていた。雑魚寝の「スタンダード」から「ビューシート」にアップグレード。両隣は観光中らしい大人しい若いカップルと、こざっぱりした身なりの白髪の中年男性。このオヤジが旅行なのか出張なのか、見た感じで判別がつかない 。隙がなく、話しかけられる雰囲気でもない。強いて言えば刑事みたいだった。

3時間半で函館に着く。東京を出てから約15時間。ターミナルから街に向かって歩くと、大通りなのに歩道に人の姿がない。そこかしこに停っている車内には人影が目立ち、スマホをいじったり、居眠りしたりしている。ディーラーもたくさん並んでいた。 地方ではまだまだ車が生活の中心ということか。 

函館駅の前に出ると、突如スーツケースを引いた群衆が現れる。一斉に向かう先に、観光客相手のいかにもという感じの市場。これだけ情報で溢れているのに、だからこそなのか、観光客は同じものを見て、食っている。それに反撥する気持になり、お昼は市場ではなく、地元民が行く風情の食堂に入ったけど、出て来たイカ刺しはまあまあだった。

でも滞在を通じて食した海の幸は、やっぱり美味しかった。定食の漬物や、居酒屋の突き出しからして味が違うし、寿司なんか、東京で我々は一体何を食わされているのだろうと考えさせられるレベルだった。

 
Day 3
「何泊の旅行ですか?」と聞かれて、「決めてません」と答えると、一様に羨ましがられた。いいでしょう。私だって久しぶりの贅沢だ。

ただ宿を聞かれて、「カプセルホテル」と言うと、皆さん一瞬間が空いた。でもね、最近のカプセルホテルってすごいんだよ、泊まった函館のそれは神レベルの清潔さで、ドアつきの個室タイプもあるし、共有スペースは今時のシェアハウスっぽくお洒落で、つまり他人とふわっと交われるきっかけを与えてくれるのですね。別にそれは求めてないけど。

路面電車の一日乗り放題のパスを買い、函館市内と湯の川を行ったり来たり。適当な駅で降り散歩して、温泉に入り、地ビールを飲んで、また車中に戻る。ゆったりとしたトラムのリズムが心地いい。何度か寝落ちした。

この辺りの店のネーミングが気になった。スナック「無愛憎」とか、バー「Too Late」とか、あまり入る気がしない。理容室「Famous」で散髪は恥ずかしい。 うどん屋「だるま」、これはいいね。ネーミングの問題じゃないけど、「太宰耳鼻咽頭科」には目がいった。ちなみに「太宰心療内科」とかあるのだろうか。流行るのか、ダメなのか。

太宰と言えば、函館文学館には行かなかった。最寄りの駅で下車しようと思いつつ体が動かなかった。石川啄木とか井上光晴とか、土地にゆかりのある作家が取り上げてあるらしい。亀井勝一郎なんて懐かしい名前もあった。

佐藤泰志は読んでいない。同世代ということで、村上春樹とも比較される「不遇の作家」(芥川賞候補5回、若くして自死)は、死後に函館市民が盛り上げたことで知名度が全国区になった、まさに郷土の作家だ。でも妻子に暴力を振り続けたなどと聞くと、ちょっと手が出なくなる。

この旅に携帯した単行本は、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」。チェーホフの何かをと思って本屋に立ち寄ったのに、一冊もないので同じ「チ」並びで買った。新しい村上春樹訳と、古い清水俊二訳が並んでいたが、あえて後者に。これ以上ハルキワールドに脳内を侵されてたまるか。

夕刻、函館山頂上へ。60周年記念でロープウェイが無料だったためか大混雑だった。お決まりのコースだが、こちらは一見の価値ある、見事な景色だった。

Day 4
一路、小樽へ。この街は初めてではない。

19の冬、突然「流氷が見たい!」といきり立った私は、金を持たずに横浜の自宅を出た。アルバイト先の運輸会社のトラックの運転手たちに乗せてくれと頼み、あっさり断られると、そのまま2日かけて、青森までほぼ無賃乗車で行った。訪ねた後輩に「キセルはやめてください」と言われ、借りたお金で道内はちゃんと電車に乗った。

到着した紋別駅の外で夜を明かしていると、ちょうど寒波が押し寄せたとかで、安否を気遣った駅員が構内で寝かせてくれた。夜が明けて海まで歩くと、その年の最初の流氷が岸いっぱいに広がっていた。

その帰途に立ち寄ったのが小樽だった。当時どうやって情報を得たのだろう、市内で一番安いと謳っていた「旅人の宿」で一泊したのを覚えている。バックパッカーなどという格好いいものではない。チェックインすると、放浪中の若者たちが7、8人、暗い顔をして集っていた。

夜が更けると、冷たい畳に全員であぐらをかいて車座になり、宿の主を囲んだ宴が始まった。振る舞われたのは、底に水を張って凍らしたコップにウイスキーを少しだけ注いだ即席のロック。開高健がよく回想して書いていた、戦後のトリスバーのスタイルだったのでびっくりした。酔うほどに主の口調が激しくなり、「あいつらサラリーマン」に対する揶揄と呪詛の言葉が繰り返された。傍で美人の奥さんが黙って聞いていた。

あの時、運河を見たのか思い出せない。

今回の小樽は生憎の雨だ。まっすぐ運河まで行き、人気のない遊歩道をひとしきり歩いたが、良さがよくわからなかった。


Day 5

今日は本州への移動日だ。バスで函館に戻り、再び津軽海峡越えのフェリーに。

昨夜は札幌に泊まった。ススキノであわよくば仕事(会社で用意している記事の撮影)をという魂胆だったが、ホテルを出る前にカルロス・ゴーン逮捕のニュースが飛び込んできて、大騒ぎになった同僚たちのチャットに加わることに。

先を急ぐのは、秋田市内でタクシーの運転手を撮ることになったから。結局仕事からは逃れられない。自分でそう仕向けているのだけれど。

この旅でうまく行ったのは函館だけで、慌てて立ち寄った小樽と札幌には振られた感じだ。だから「道南日記」。でも欲張ってはいけない。30年ぶりに訪れた北海道は素敵だった。

今回実感したのは、北海道は「日本のアメリカ」だということ。先に書いた車社会の件しかり。広大な土地しかり。大きくて明るいつくりの家々は、私が見てきた米国の田舎の風景を想起させてくれる。

そして何より、人々の印象だ。居酒屋で、路面電車で、そして街中で声をかけると、彼らは皆フレンドリーだった。でも聞いたぶんしか返ってこない。一歩手前で踏み止まり、立ち入ったことを尋ねてこないので、どこまで会話を進めるのかはこちら次第だった。その陽気さと気遣いの絶妙なバランスがありがたく、オープンだけど馴れ合わない逞しさは、どこかアメリカ人に通じるものがあり、それこそが開拓民の末裔の気質なのだと勝手に解釈しながら、私は道中ずっといい気分で過した。

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スキャンダル

もし『週間文春』で働いてみるかと聞かれたら、イエスと答えるだろう。

何しろ今、日本でもっとも読まれているメディアのひとつなのだ。

でも会議の度にアイディアを一ダースも出さなくてはならないとか、有名人の不倫現場の張り込みをしなけばならないとか聞くと、勤まらないかなと思う。

特にスキャンダルの取材はキツそうだ。これでメンタルをやられる記者もいるらしい。途中で「何でこんなことやってるんだ」と思うにちがいない。

「公人、有名人のプラベートより、公共の利害と表現の自由」

「裁きじゃなくて、エンターテイメント」

などと自身を鼓舞しながら、記者たちは今日も必死に仕事をしているのだろうか。後者は編集長の実際の言葉だ。

そしてめでたく「文春砲」が撃たれれば、雑紙は飛ぶように売れる。

駅やコンビニで目にしたら、私も手に取る。面白そうなら買う。

 

アメリカで私が勤めた地方紙では、その手の取材は皆無だったけど、一度だけ偶然にネタを手に入れたことがある。

そのノースカロライナ州の議員は、教育委員会から政界に転じたという触れ込みの新人だった。議会の初日にたまたま撮影したので、そして美人だったので、彼女のことはよく覚えていた。 

同じ年の暮れ、日本への一時帰国を終えた私は、成田空港内を歩いていた。チケットカウンターを通りすぎ、あとは搭乗するだけとのんびり歩を進めていると、その議員にばったり出くわした。

「あれっ」と思い見ていると、向こうも驚いた様子だった。「あっ、あのカメラマン」から「ヤバい」に顔色が変わったのは、傍らに男性がいたからだろう。プロ・アスリート風の大柄な黒人男性と彼女が親密な関係にあるのは、二人の距離と佇まいをみれば明らかだった。

お互い挨拶を交わし、奇遇を笑って別れた。彼の紹介はなかった。

機内に落ち着いてから、あの議員は確か既婚だったはず…という記憶にだどり着いたが、私はアメリカに戻ってからも特に調べなかった。何故かその気にならなかった。

公務での来日と言っていたので、夫が誰かを確認した上で、彼女がどこで何をしていたのかを当ったら、記事になるような話になったかもしれない。記事にならなくても、次の選挙で彼女と争う共和党陣営にとっては喉から手が出るほど欲しい情報だっただろう。

実際サウス・カロライナ州のマーク・サンフォード知事は、アルゼンチンへの不倫旅行の帰りに空港で記者に捕まり、それがきっかけで辞任に追い込まれた。空港を張り込んでスクープをとったジーナ・スミス記者は、私の元同僚だ。

 

州議会の幕開け日。

議場に人が溢れているのは、その日は特別に議員たちがゲストを招いているからだ。大抵が家族を伴い、セレモニーでは、それぞれがパートナーと並んで聖書に手を置いて宣誓する慣しだ。

返り咲いた下院議員たちの中に彼女の姿があった。最初に撮影した日から、ちょうど2年が経っていた。

セレモニーを前に、ひときわ大勢の人が彼女の周りに集まっているは、彼女の腕に新生児が抱かれていたからだ。

透き通るような白い肌の赤子が布に包まれて眠っている。

フロアの端の記者席から見ていると、目があったので、「おめでとう」の気持をこめて微笑すると、彼女はじっと見返してから口パクで応じた。ゆっくり大きく動かしたので、何を言っているのかよくわかった。

「Thank you」

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不思議な話

世の中には、不思議な話がある。そしてそれを頻繁に体験をする人がいるらしい。超人のオカルトの話ではなく、普通の人たちの身に起こる、説明のつかない出来事。

私には窺い知れない世界だ。

50年この世に生きてきて、あれは不思議だったと思い出せることは、せいぜい三つか四つ。それだって、自分で引き起こしたというよりは、他人の力が私に及んだのだと考えた方が説明がつくし、納得もゆく。

 

ひとつは幽霊の話。

学生のとき、男女 7,8人で肝試しに行ったときのこと。静岡の山奥に車で行けるところまで行き、途中から険しい山道を登った。どんな成り行きだったか覚えていないが、女子のグループとは初対面だった。

心霊のスポットとされる場所に着くと、さっそく人の型をした灯が三つ四つ見えた。立ったり座ったりした体勢の、朧げな緑色の光だった。ただ不思議なことに、私がいくら喚起を促しても、私の隣にいた女の子を除くと、他の者にはまったく見えないようだった。

隣のその娘は無口で、夕食でもドライブでも目立たない存在だったのに、肝試しになるといつの間にか先頭に立っていた。闇の中で存在感を増した彼女が伸ばしてきた手を、私はしっかりと握ったまま歩いていた。なんだかビリビリして、体の芯が共振するような、不思議な感触の掌だった。

霊らしきものを私が見たのはこの一度きりだ。あの娘の手を握っていたから見えた...そう思って間違いないと思う。

 

ふたつめは、他人の死に際して感じたこと。

親しい人が自死したその時刻に、私は暗澹とした気持に沈んでいた。猛烈に気分が悪かった。もちろん後から合点がいったことで、その時はどうしてそんなに気持に陥ったのかわからなかった。そんなことが2度あった。

どちらのときも、ざらりとした虚無の塊に心が圧し潰されそうになり、思い出すと今でも怖い。死を前にした彼らの思念の一部が、何かの拍子で私のもとに届いたのだろうか。

とても悲しい記憶だ。

 

みっつめは自分の命を助けてもらった話。

ノースカロライナの田舎道で、トレーラーを運ぶトラックが横転事故を起こした。地平線が見渡せそうなほど平らな土地のハイウェイだった。

ひとしきり写真を撮り終わり、保安官から情報をもらって、さあ新聞社に引き上げようとしたそのときだ。通りの反対に停めていた車に戻ろうと動き出した私を何かが押しとどめた。襟首引っ張るような力がかかり、不自然な体勢でのけぞった。

と、次の瞬間、轟音と共に巨大な車輛が目の前を通りすぎた。

猛スピードで近づいていた大型トラックに、私はまったく気がついていなかったのだ。保安官に掴まれたのかと思い振り返ったが、彼の背中はすでに遠くにあった。

車に戻り、機材をトランクに入れ、エンジンをかけて出発したが、しばらくのあいだ体の震えが止まらなかった。何となく「生かされた」という言葉が頭の中に浮んできて、何かはわからない相手に向かって、畏怖と感謝の念を抱いたままハンドルを握り続けた。

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香港日記 2

Day 1

入国審査官がパスポートを投げて返した。ボーっとしていた私は、それで目が覚めた。ここは日本じゃないんだ。

香港駅からホテルへはリムジンで行く。前に来たときはタクシーの運ちゃんと口論になったんだった。「ホテルまでいくら?」と尋ねたら、「ここは中国じゃない!そんなこと聞くんじゃねえ!」怒鳴られてたので、「何が悪んいんだ!」と怒鳴り返してしまった。言い合いが続き、最後によろしくない言葉を使って車を降りたら、彼も降りてホテルの入り口まで追いかけてきた。あれにはビビった。

街の中心部にバリケードが張り巡らされている。後で聞いたら、野外コンサートが終わったばかりとのこと。「水曜日のカンパネラ」がウケていたと聞いて嬉しくなる。コムアイのことを「彼女は日本のビョークだね」と同僚が言っていたけれど、おい、それはちょっと褒めすぎじゃないか。

チェックインを済ませてから、ジャージに着替えて外へ出る。街中の球技場で草サッカーをやっているのを前回見たので、混ぜてもらおうという魂胆。でもその日はミリタリー・スクールの催しだろうか、グラウンドは制服姿の若者で溢れていた。諦めて散歩へ。

夕刻の路地を上下ジャージ姿でうろついていると、すっかり街に溶け込んでいるような気分になる。

Day 2

職場は相変わらず寒い。昼休みに外へ出て、でも時間がないので近くのカフェへ。「インスタントラーメン・45ドル」の表示に目が行ったのは、体が冷えていたからか。まさか本当にインスタントじゃないよなと思いつつ頼んだら、スープと麺がそうだった。では出てくるまでの10分間、コックは何をしていたのだろう。

早くも疲れてしまい、夕食はホテルの部屋で。イギリスの統治下にあった香港ならフィッスアンドチップスは美味しいはず、などと雑な考えで注文したら、いたってフツーだった。

パソコンでダウンテンポを聴きながら、音を消したテレビでサッカー観戦。プレミア・リーグ専用のチャンネルだけで3つあるけど、普段見れないスペインリーグ(ビジャレアル対アトレチコ)を選ぶ。すごいプレーの連続に感嘆。見慣れているJリーグとくらべるのはやめておこう。Jリーガーたちだって私から見れば超人なのだ。

Day 3

職場のパントリーに人が集まっている。見に行くと、ゆで卵が出ていた。お皿に二つ三つ取る人もいて、フルーツも山盛りだし、朝から皆食欲がある。そう言えば出勤途中で見かけた勤め人たちの歩き方も、清掃人や新聞を売っている人たちの身のこなしも、エネルギッシュで精力的だった。どんよりとお疲れ感が漂う東京の通勤風景とはテンションが違う気がする。

昨日の記事に「高い技術をもつ外国人への魅力度ランキング」なるものが出ていて、日本はアジア11カ国中なんと最下位にランクされていた。言葉の壁とか、税制とか、いろいろ理由はあるらしいが、働く場所として魅力に乏しいという評価はとても痛い。観光地として人気はあっても、仕事をしたい、住みたいとは思われないのだ。

日本の政府は移民をシャットアウトし続けながら、高度な技術者だけを呼び込もうという身勝手な画策を続けているが、そもそも彼らの方からそっぽを向かれていることになる。

Day 4

今回の出張の目的は、ニューヨークから香港に来ていた、ボスのボス、つまりビジュアル部門の新しい統括者に会うこと。テキサス出身の元フォトジャーナリストの彼は、快活で明朗だった。やはりアメリカ人のことは、そしてカメラマンのことはよくわかる気がする。

就業後の飲み。私は聞き役に。丘の中腹にある中華レストランのテラスは、夜風が爽やかで気持よかった。

シャワーを浴びてそのままベッドで寝入ってしまう。目覚めたら午前2時。このホテルの部屋の調度はすべて重厚な木造りで、建物の古さを感じさせるけど、スピリチュアルな人なら幽霊が見えるにちがいないヤバい雰囲気がある。

すっかり目が冴えたので、日本から持ってきた本を広げる。ロベルト・ボラーニョの「2666」は、二段組で850ページを越える超大作だ。相撲取りの弁当みたいで、こんな重い本を出張に携帯するのはナンセンスだけど、普段なかなか読む気にならないので持参した。ひたすら拡散するエピソード。通奏低音として流れる狂気。異国の古いホテルで読むにはぴったりの小説だった。

Day 5

最終日の今日は、昼まで仕事をしてそのまま帰路に。余裕を持って出るつもりだったのに、また日本の会社(三菱電線工業)の改ざんが発覚してカメラ取材の段取りに追われ、空港への到着がギリギリになった。

遠くで誰かが叫んでいる。声の主を探すと、飛行機会社のスタッフ数人がこちらを見ながらカウンター越しに「Mr. Iwabu!?」と聞いている。普通に歩いていたし、周りにもたくさん人がいたのに、遠くからピンポイントで国籍を判別された感じだ。

なんだ、ぜんぜん溶け込んでないのか。今度は空港にもジャージで行こう。

 

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グルメな私

このブログに食べものの話は出てこない。それは私がいわゆる食通じゃないから。

私だって人並みに美味しいものを食べたいと思うし、食べたときはうれしい。でもそのためにどれくらい努力するかというと、ほとんどしない。所詮ただのメシだろ? という野卑な考えが心の底にある。

横浜駅周辺を歩いていると、ラーメン屋の前の行列が目につく。

一杯の至福、知ってます。ラーメンって美味しいよね。でも小一時間も並ぶ価値、本当にあるんですか !?

 

ある先輩によると、外食時に他人やシェフにお任せにする人は「やっぱりダメ」らしい。

初めてのレストランでは、私もちゃんとメニューを見るけれど、何でもいいやという気持があるからすぐ決まる。逆にがんばって選ぶと、美味しくなかったり、その場にそぐわないものが出てきたりして、失敗した感をテーブルに漂せて食べることになる。

どこに入っても美味しそうな料理をさっと注文できる人がいる。あれは見ていて気持がいいし、格好がいい。

椎名誠の小説に、日本のお任せ文化を揶揄するようなシーンがあった。

仕事場で新米の主人公が、上司と同僚に昼飯に誘われる。上司がいつものやつ、みたいな感じで定食を注文すると、部下たちもすぐそれに習う。食べたいものを頼みたい主人公がメニューをじっと見ていると、同僚たちが「お前も『◯◯定食』にしろよ」と横から言い始める。やがて合唱みたいに姦しくなったとき、彼は黙ってその場を立ち去る...という場面だった。いいねぇ、主人公。

今どき部署で揃ってご飯なんか行かないだろうし、行っても新入りはちゃんと食べたいものを食べているような気がする。私なら『◯◯定食』にしてしまいそうだけど。べつに空気を読んでいるわけではなく、基本「何でもいいや」だから。

いつだったか、アメリカ人の女性と二人で食事に行ったとき、喋るのに忙しくてメニューをシカと見ていなかった。現れたウェイターに彼女が素早く注文したので、思わず「同じものを」と頼んだら、日本に住んだことのあるその彼女に、That's so Japanese! と言われて赤面したことがあった。確かにあの国では、子供でもサラダのドレッシングから選ぶから、ミーツーじゃ様にならない。


こんな私でも、コーヒーには一応のこだわりを持っていて、好みのダークローストの豆を業務用のミルで挽いて、ケメックスのドリップで手順を踏んで入れる。お湯は沸騰させず、カップは暖める。最近はフィルターの紙の匂いが気になるので、金属かネルに変えようと思っている。

米国に住み始めたころ、外で飲むコーヒーは気の抜けたアメリカンしかなかった。まさか専門店が街に溢れかえるなんて思いもしなかった。グローバリゼーションというと、貧しい国が一方的に恩恵を受けたようなイメージがあるけれど、アメリカの食も当時(1991年)から比べると劇的に多様化したし、確実に豊かになった。

こだわりのない私だから、あちらの食生活も問題なかった。ベーグルとクリームチーズは毎朝の習慣になったし、スーパーでハマスとピタが売られ始めると、夕食に好んで食べるようになった。

南部の人が自慢するバーベキューは大したことないと思ったけれど、ハンバーガーは好きだった。どこそこが美味しいと聞くと、わざわざ行かなくても、近くについでがあればチェックした。あれは横についてくるポテト・フライがいい。ダイナーによくあるラザーニアやパスタも、粉チーズとホットペッパーを大量にかけて食べるとなかなかいけた。 他にもナチョス、クラブ・サンドイッチ、マルガリータ・ピザ...。


こうして書いてみると、自分の舌がチープなのがよくわかる。こだわりがないというよりは、贅沢を知らないということだけなのだろう。

ちなみに私は安価なワインの味にくわしい。アメリカでほぼ毎日飲んでいたから当然で、普段は一本7, 8ドル、節約モードのときは、3.99ドルのカルフォルニア・ワインを買っていた。カベルネ、メルロー、ピノ、どれも20ドル半ばを越えると質がぐんと上がるけれど、10ドル台でそれに匹敵する銘柄を探して楽しんだ時期もあった。

でもその上のクラスを飲んでいないので、ウンチクは語れないし、レストランでも上手に注文できない。

そういえば以前、日本人の留学生が家に遊びにきたとき、アメリカでは食べれないものをご馳走しようと思い、何が恋しいかと聞いたことがある。定番の寿司とかすき焼きなのかと思っていたら、彼が「料亭の食べ物」と答えたのでびっくりした。

裕福なだけでなく、彼の両親はきっと食通にちがいない。少なくとも私のような「何でもいい」派ではないのだろう。

 

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赤信号

仕事帰りの夜道で、車に轢かれそうになった。

いや、ちょっとそれはオーバーか。赤信号の横断歩道を渡る私に、ドライバーがたぶん意地悪をしたのだろう、車を目の前まで寄せてきたのだ。それだけのことだったのに、ぼーっとしていた私は飛び上がらんばかりに驚いた。

私は普段からジェイ・ウォークを習慣にしていて、「自己責任だから」とかなんとか言いながら、車道もどんどん渡る。颯爽と横切る。

だから不注意だったうえに、あんなに慌てたことが恥ずかしかった。

 
世間には100パーセント危険がないとわかっているのに、横断歩道の信号をきちん守る人たちがいる。

これが見ていて歯がゆい。子供や老人ならわかるけど、忙しそうな勤め人とか、エネルギーを持て余していそうな若者が、閑散とした小道でじっと信号待ちしている様を見ると「何で?」と思う。

海外出張の多い同僚曰く、これは日本人特有の行動だという。本当だろうか。

確かに日本のパブリックには「ルールを守ろう」という類い標語が多い。学校でもそう。間違っても「状況をみて、自分で判断しよう」とは謳っていない。

隣国ではどうなのか知らないが、あのセオル号転覆事故のとき、「動かないで」という指示が船内にくり返し流れたことは大きく報道された。

傾いてゆく客室の中で、これは絶対にやばいと思いながら、なんとなく指示に従い続けた韓国の学生はどれくらいいただろう。

究極な例えだし、軽々しく語れない悲劇だけれど、いざというときの自主性について考えたくなるエピソードだ。ルール遵守を刷り込まれている若い人たちに、ほら、ディレクション(=信号)は守ればいいってもんじゃないだよ、と添えて話したくなる。

 

でも一方で、こんな話も思い出す。

アメリカで安全運転の講習を受けたとき、途中でシートベルト着用の話になった。案の定「国や州から強制させられる筋合いはない」と言い出す受講者が数人いて、講師とディベートを始めた。

「自己責任」とか「個の自由」とか華やかな言葉が飛び交った。講師はそれを面白がり、余裕で受け答えていたが、最後はこんなシナリオを作って彼らを黙らせた。

あなたが運転しているスピードに乗った車が、他車と接触したとする。シートベルトをしていたら身体が大きくぶれず、ハンドルをコントロールできたはずなのに、着用していないばかりに車を立て直すことができず、結局近くの歩行者に突っ込んでしまったとしたら…

「君のその『自由』とやらのおかげで、他人を傷つけることだってあり得るんだ」


ジェイ・ウォークも自分が怪我するだけなら「バカな奴だ」で済むけれど、どんな事故にも相手があるし、二次災害の可能性だってありそうだ。そもそも誰が見ているかわからない。

評論家の勢古浩爾氏は、自転車で街を徘徊するとき信号をいつも無視するが、周りに児童がいるときだけはちゃんと待つらしい。優しい人だ。

私もたぶんそうすべきなのだろう。

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