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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

香港日記 2

Day 1

入国審査官がパスポートを投げて返した。ボーっとしていた私は、それで目が覚めた。ここは日本じゃないんだ。

香港駅からホテルへはリムジンで行く。前に来たときはタクシーの運ちゃんと口論になったんだった。「ホテルまでいくら?」と尋ねたら、「ここは中国じゃない!そんなこと聞くんじゃねえ!」怒鳴られてたので、「何が悪んいんだ!」と怒鳴り返してしまった。言い合いが続き、最後によろしくない言葉を使って車を降りたら、彼も降りてホテルの入り口まで追いかけてきた。あれにはビビった。

街の中心部にバリケードが張り巡らされている。後で聞いたら、野外コンサートが終わったばかりとのこと。「水曜日のカンパネラ」がウケていたと聞いて嬉しくなる。コムアイのことを「彼女は日本のビョークだね」と同僚が言っていたけれど、おい、それはちょっと褒めすぎじゃないか。

チェックインを済ませてから、ジャージに着替えて外へ出る。街中の球技場で草サッカーをやっているのを前回見たので、混ぜてもらおうという魂胆。でもその日はミリタリー・スクールの催しだろうか、グラウンドは制服姿の若者で溢れていた。諦めて散歩へ。

夕刻の路地を上下ジャージ姿でうろついていると、すっかり街に溶け込んでいるような気分になる。

Day 2

職場は相変わらず寒い。昼休みに外へ出て、でも時間がないので近くのカフェへ。「インスタントラーメン・45ドル」の表示に目が行ったのは、体が冷えていたからか。まさか本当にインスタントじゃないよなと思いつつ頼んだら、スープと麺がそうだった。では出てくるまでの10分間、コックは何をしていたのだろう。

早くも疲れてしまい、夕食はホテルの部屋で。イギリスの統治下にあった香港ならフィッスアンドチップスは美味しいはず、などと雑な考えで注文したら、いたってフツーだった。

パソコンでダウンテンポを聴きながら、音を消したテレビでサッカー観戦。プレミア・リーグ専用のチャンネルだけで3つあるけど、普段見れないスペインリーグ(ビジャレアル対アトレチコ)を選ぶ。すごいプレーの連続に感嘆。見慣れているJリーグとくらべるのはやめておこう。Jリーガーたちだって私から見れば超人なのだ。

Day 3

職場のパントリーに人が集まっている。見に行くと、ゆで卵が出ていた。お皿に二つ三つ取る人もいて、フルーツも山盛りだし、朝から皆食欲がある。そう言えば出勤途中で見かけた勤め人たちの歩き方も、清掃人や新聞を売っている人たちの身のこなしも、エネルギッシュで精力的だった。どんよりとお疲れ感が漂う東京の通勤風景とはテンションが違う気がする。

昨日の記事に「高い技術をもつ外国人への魅力度ランキング」なるものが出ていて、日本はアジア11カ国中なんと最下位にランクされていた。言葉の壁とか、税制とか、いろいろ理由はあるらしいが、働く場所として魅力に乏しいという評価はとても痛い。観光地として人気はあっても、仕事をしたい、住みたいとは思われないのだ。

日本の政府は移民をシャットアウトし続けながら、高度な技術者だけを呼び込もうという身勝手な画策を続けているが、そもそも彼らの方からそっぽを向かれていることになる。

Day 4

今回の出張の目的は、ニューヨークから香港に来ていた、ボスのボス、つまりビジュアル部門の新しい統括者に会うこと。テキサス出身の元フォトジャーナリストの彼は、快活で明朗だった。やはりアメリカ人のことは、そしてカメラマンのことはよくわかる気がする。

就業後の飲み。私は聞き役に。丘の中腹にある中華レストランのテラスは、夜風が爽やかで気持よかった。

シャワーを浴びてそのままベッドで寝入ってしまう。目覚めたら午前2時。このホテルの部屋の調度はすべて重厚な木造りで、建物の古さを感じさせるけど、スピリチュアルな人なら幽霊が見えるにちがいないヤバい雰囲気がある。

すっかり目が冴えたので、日本から持ってきた本を広げる。ロベルト・ボラーニョの「2666」は、二段組で850ページを越える超大作だ。相撲取りの弁当みたいで、こんな重い本を出張に携帯するのはナンセンスだけど、普段なかなか読む気にならないので持参した。ひたすら拡散するエピソード。通奏低音として流れる狂気。異国の古いホテルで読むにはぴったりの小説だった。

Day 5

最終日の今日は、昼まで仕事をしてそのまま帰路に。余裕を持って出るつもりだったのに、また日本の会社(三菱電線工業)の改ざんが発覚してカメラ取材の段取りに追われ、空港への到着がギリギリになった。

遠くで誰かが叫んでいる。声の主を探すと、飛行機会社のスタッフ数人がこちらを見ながらカウンター越しに「Mr. Iwabu!?」と聞いている。普通に歩いていたし、周りにもたくさん人がいたのに、遠くからピンポイントで国籍を判別された感じだ。

なんだ、ぜんぜん溶け込んでないのか。今度は空港にもジャージで行こう。

 

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グルメな私

このブログに食べものの話は出てこない。それは私がいわゆる食通じゃないから。

私だって人並みに美味しいものを食べたいと思うし、食べたときはうれしい。でもそのためにどれくらい努力するかというと、ほとんどしない。所詮ただのメシだろ? という野卑な考えが心の底にある。

横浜駅周辺を歩いていると、ラーメン屋の前の行列が目につく。一杯の至福、知ってます。ラーメンって美味しいよね。でも小一時間も並ぶ価値、本当にあるんですか !?

 

ある先輩によると、外食時に他人やシェフにお任せにする人は、「やっぱりダメ」らしい。

初めてのレストランでは、私もちゃんとメニューを見るけれど、何でもいいやという気持があるからすぐ決まる。逆にがんばって選ぶと、美味しくなかったり、その場にそぐわないものが出てきたりして、失敗した感をテーブルに漂せて食べることになる。

どこに入っても美味しそうな料理をさっと注文できる人がいる。あれは見ていて気持がいいし、かっこいい。

椎名誠の小説に、お任せ文化を揶揄するようなシーンがあった。仕事場で新米の主人公が、上司と同僚に昼飯に誘われる。上司がいつものやつ、みたいな感じで定食を注文すると、部下たちもすぐそれに習う。食べたいものを頼みたい主人公がメニューをじっと見ていると、同僚たちが「お前も『◯◯定食』にしろよ」と横から言い始める。やがて合唱みたいに姦しくなったとき、彼は黙ってその場を立ち去る...という場面だった。いいねぇ、主人公。

今どき、部署で揃ってご飯なんか行かないだろうし、行っても新入りはちゃんと食べたいものを食べているような気がする。私なら『◯◯定食』にしてしまいそうだけど。べつに空気を読んでいるわけではなく、基本「何でもいいや」だから。そう、私はダメな口なのだ。

いつだったか、アメリカ人の女性と二人で食事に行ったとき、喋るのに忙しくてメニューをシカと見ていなかった。現れたウェイターに彼女が素早く注文したので、思わず「同じものを」と頼んだら、日本に住んだことのあるその彼女に、That's so Japanese! と言われて赤面したことがあった。確かにあの国では、子供でもサラダのドレッシングから選ぶから、ミーツーじゃ様にならない。


こんな私でも、コーヒーには一応のこだわりを持っていて、好みのダークローストの豆を業務用のミルで挽いて、ケメックスのドリップで手順を踏んで入れる。お湯は沸騰させず、カップは暖める。最近はフィルターの紙の匂いが気になるので、金属かネルに変えようと思っている。

米国に住み始めたころ、外で飲むコーヒーは気の抜けたアメリカンしかなかった。まさか専門店が街に溢れかえるなんて思いもしなかった。グローバリゼーションというと、貧しい国が一方的に恩恵を受けたようなイメージがあるけれど、アメリカの食も当時(1991年)から比べると、劇的に多様化したし、確実に豊かになった。

こだわりのない私だから、あちらの食生活も問題なかった。ベーグルとクリームチーズは毎朝の習慣になったし、スーパーでハマスとピタが売られ始めると、夕食に好んで食べるようになった。お米がなくても平気だった。

南部の人が自慢するバーベキューは大したことないと思ったけれど、ハンバーガーは好きだった。どこそこが美味しいと聞くと、わざわざ行かなくても、近くについでがあればチェックした。あれは横についてくるポテト・フライがいい。ダイナーによくあるラザーニアやパスタも、粉チーズとホットペッパーを大量にかけて食べるとなかなかいけた。 他にもナチョス、クラブ・サンドイッチ、マルガリータ・ピザ...。


こうして書いてみると、いかに私の舌がチープなのかがわかる。こだわりがないというよりは、いろいろと食べたことがない、要は贅沢を知らないということだけなのだろう。

ちなみに私は安価なワインの味にくわしい。アメリカでほぼ毎日飲んでいたから当然で、普段は一本7, 8ドル、節約モードのときは、3.99ドルのカルフォルニア・ワインを買っていた。カベルネ、メルロー、ピノ、どれも20ドル半ばを越えると質がぐんと上がるけれど、10ドル台でそれに匹敵する銘柄を探して楽しんだ時期もあった。

でもその上のクラスをまったく飲んでいないので、ウンチクはまったく語れないし、レストランでも上手に注文できない。

そういえば以前、日本人の留学生が家に遊びにきたとき、アメリカでは食べれないものをご馳走しようと思い、何が恋しいかと聞いたことがある。定番の寿司とかすき焼きなのかと思っていたら、彼が「料亭の食べ物」と答えたのでびっくりした。

裕福なだけでなく、彼の両親はきっと食通にちがいない。少なくとも「何でもいい」派ではないのだろう。

 

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赤信号

仕事帰りの夜道で、車に轢かれそうになった。

いや、ちょっとそれはオーバーか。赤信号の横断歩道を渡る私に、ドライバーがたぶん意地悪をしたのだろう、車を目の前まで寄せてきたのだ。それだけのことだったのに、ぼーっとしていた私は飛び上がらんばかりに驚いた。

私は普段からジェイ・ウォークを習慣にしていて、「自己責任だから」とかなんとか言いながら、車道もどんどん渡る。颯爽と横切る。

だから不注意だったうえに、あんなに慌てたことが恥ずかしかった。

 
世間には100パーセント危険がないとわかっているのに、横断歩道の信号をきちん守る人たちがいる。

これが見ていて歯がゆい。子供や老人ならわかるけど、忙しそうな勤め人とか、エネルギーを持て余していそうな若者が、閑散とした小道でじっと信号待ちしている様を見ると「何で?」と思う。

海外出張の多い同僚曰く、これは日本人特有の行動だという。本当だろうか。

確かに日本のパブリックには「ルールを守ろう」という類い標語が多い。学校でもそう。間違っても「状況をみて、自分で判断しよう」とは謳っていない。

隣国ではどうなのか知らないが、あのセオル号転覆事故のとき、「動かないで」という指示が船内にくり返し流れたことは大きく報道された。

傾いてゆく客室の中で、これは絶対にやばいと思いながら、なんとなく指示に従い続けた韓国の学生はどれくらいいただろう。

究極な例えだし、軽々しく語れない悲劇だけれど、いざというときの自主性について考えたくなるエピソードだ。ルール遵守を刷り込まれている若い人たちに、ほら、ディレクション(=信号)は守ればいいってもんじゃないだよ、と添えて話したくなる。

 

でも一方で、こんな話も思い出す。

アメリカで安全運転の講習を受けたとき、途中でシートベルト着用の話になった。案の定「国や州から強制させられる筋合いはない」と言い出す受講者が数人いて、講師とディベートを始めた。

「自己責任」とか「個の自由」とか華やかな言葉が飛び交った。講師はそれを面白がり、余裕で受け答えていたが、最後はこんなシナリオを作って彼らを黙らせた。

あなたが運転しているスピードに乗った車が、他車と接触したとする。シートベルトをしていたら身体が大きくぶれず、ハンドルをコントロールできたはずなのに、着用していないばかりに車を立て直すことができず、結局近くの歩行者に突っ込んでしまったとしたら…

「君のその『自由』とやらのおかげで、他人を傷つけることだってあり得るんだ」


ジェイ・ウォークも自分が怪我するだけなら「バカな奴だ」で済むけれど、どんな事故にも相手があるし、二次災害の可能性だってありそうだ。そもそも誰が見ているかわからない。

評論家の勢古浩爾氏は、自転車で街を徘徊するとき信号をいつも無視するが、周りに児童がいるときだけはちゃんと待つらしい。優しい人だ。

私もたぶんそうすべきなのだろう。

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肩がふれたら

ある匂いを嗅ぐと、特定の記憶が蘇るという「プルースト効果」は、よく聞く話だ。

ではある行動をとると、必ず思い出す人がいるというのはどうだろう?

私にはいくつかそのパターンがある。

洗面所に立ってうがいをするとき、なぜか決まって思い出すのはあの老人だ。

その人は、夜の公衆トイレの洗面所でくり返しガラガラとやり、振り向いて「いつもこれで風邪ひかない」と言って笑った。いい笑顔だった。

私たちは当時、共に歩いていた。べつに比喩ではなく、一度だけ、夜を徹して一緒に歩いたことがある。

 

週末の代々木公園の集まりに、埼玉の大宮市から徒歩でくる老人がいると友人から聞いたのは、一昨年のことだ。日曜日にホームレスに朝食を振る舞うグループで、教会がやっているボランティアだった。本人に直接会ってみると、表情の柔らかい小柄な男性だった。

なぜそんな長距離(片道約35キロあるらしい)を歩くのか尋ねると、先の大震災をきっかけに始めた習慣だという。はっきり言わないが、個人的な巡礼でもあるようだ。私は同行を願い出た。

私の勝手な事情を言うと、帰国後に就いた最初の仕事は屋内にいることが多く、現場に慣れていた体が鈍ってしかたがない時期だった。文と写真を掲載してもらう約束をオンライン雑誌にとりつけ、さっそく彼の家に向かった。

 

アパートには家具がほとんどなかった。テーブルがふたつと、壊れた座椅子がひとつ。彼はそのことを恥じるような素振りを少しだけ見せた。

ティーパックの緑茶を飲んでいるうちに外が暗くなり、そろそろ行こうかとなった。

駅近くの繁華街を歩き始める。焼き鳥の屋台、本屋、スーパーを通りすぎる。郊外に入ると闇に包まれるが、それでも街灯があり、自動販売機の灯りがあり、信号があるので不便は感じない。

入り組んだ路地に入ったり、川を渡るのに大きな高架橋の歩道を使ったり、目の前の景色は次々と変わってゆくので飽きることがない。ほぼ2時間おきに、公園のベンチや飲食店の前に設置されている椅子に座って休憩した。缶コーヒーを一本だけ買って飲んだ。

その夜は会わなかったが、パトロール中の警察官とも顔馴染みらしい。スピードに乗った自転車との激突と、強盗には気をつけているが、そもそも金目の物は持っていない。小振りのショルダーに入っているのは、水とタオルと聖書だけだ。

深夜をすぎ、私の息が上がり始めるが、78歳の彼のペースは落ちない。右足だけ円を描くように出す、妙なストライドでひたすら前に進む。新調したばかりのスニーカーが白く光っている。

 

日雇い労働をしながらその日暮らしをしてきた彼だが、70をすぎると急に声がかからなくなった。やがて家賃が払えなくなり、知り合いの土建屋の事務所で寝泊まりするようになった。そこも直に出なくてはならないというとき、渋谷駅前でぼんやり座っていると、見知らぬ若い男に声をかけられた。代々木公園に行きなさいと言う。

言われるままに足を向け、次の日も、また次の日も行って時間を潰していると、ものすごい揺れがあった。東日本大震災だった。

いろんな情報が飛び交ったが、夕刻、居合わせた人たちと埼玉方面に向かって歩き始めた。人で埋め尽くされたハイウェイの光景が今でも忘れられない。

その日、彼は自分について意外な発見をした。長い距離を歩けることがひとつ。もうひとつは、他人と行動を共にすることに喜びを感じたこと。

翌日から彼は歩くことを日課とし、窮地から抜け出すために、代々木公園に集まる人と教会のネットワークに頼った。結局、会社勤めだったころの納税記録を遡ってみつけ、僅かだが今は年金を月々受給していて、たまに回ってくる日雇いの仕事の稼ぎとあわせて日々を乗り切っている。

 

1950年、家族が東京から大阪に引っ越した14歳の彼は、近くで叔父が経営するフィルムの現像所に出入りするようになった。高校を出るとすぐそこで働き始め、最初につきあった女性と結婚した。仕事は忙しく、映画用に撮影されたフィルムの現像を任されることもった。給与は右肩上がりに増えていった。ただ、欲しかった子供には恵まれなかった。

30代になり、離婚をきっかけに劇的な変化を求めた彼は、転職を決心した。後に後悔する決断だったが、洋服のセールスで地方都市を廻るのは楽しかったし、その後も、自動車の部品工場、電気製品売り場、ビルの建築現場を渡り歩いてなんとかやってきた。真面目にやれば働き口はいくらでもあった。

2度目の結婚の話もあったが、子供を切望しているその女性と一緒になることに踏み切れず、彼女と別れた後はずっと一人で暮らしてきた。自由気儘な暮らしは性にあったし、このまま他人を煩わせず生きていけると思っていたのに、この歳になって助けてもらった。ならば同じ境遇の誰かの役に立ちたい。

夜通し歩くのは、忘我の時間を持つためだ。覚えたての祈りの言葉は必要ない。こうして身体を追いこむと、なぜか頭の中を去来するのは、若いころ映像所で観た数々の映画のシーンの断片だ。現像したばがりの劇場公開前のフィルムを、一人で夜こっそり観たこともあった。いろんな世界があった。

振り返れば、あのころが一番よかったと思う。でも当時はそれがわからなかったし、ずっと後にくるこの膨大な時間について思いを巡らせることもなかった。

 

東の空が白み始めたころ、彼方に新宿のビル群が見えてきた。

彼の後ろ姿を撮るために、私は足を止めた。どんどん離れてゆく小さな背中を眺めながら、私はその夜のちょっとしたハプニングについて考えた。

板橋区に入ったあたりだったか、話が音楽について及んだとき、50年代後半から60年代前半にかけて、彼がジャズ喫茶に出入りしていたことを知った。ジャズが一番熱い時期をリアルタイムで知っているその経験に興味がわき、私がエキサイトして質問を重ねると、それまでわりに淡白だった彼の受け答えにも急に熱が入った。そのとき、二度三度、お互いの肩と肩が触れ合った。

山田太一の小説だったか、かつて恋人や仲間と連れ立って歩くと、肩が触れ合ったものだとぼやく中年男が出てくるが、確かに人はいい年になると、肩と肩がぶつかるほど近づいて他人と歩くことは少なくなる。

次に誰かと肩を触れ合わせることがあれば、うがいだけでなく、私はたぶん条件反射的に彼のことを、そして、彼と歩いた夜道のことを思い出すと思う。

 

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小説の話

読みかけたままの小説が増えている。以前は一度手にしたら、ちゃんと最後まで読み通したのに。

好きな作家の作品でも、途中でつまらなくなると止めてしまう。こんなはずじゃないと思ってもう一度トライしても続かない。いとうせいこうの「我々の恋愛」も、小川洋子の「ことり」もダメだった。

純文学が何となく面倒になってきていて、そのことと関係しているのだろうか。筋を追いながら読書をするようになっているからだろうか。

でも町田康の「珍妙の峠」は、特にストーリーのない奇譚だったけれど、終わりまで惹きつけられた。途中で何度も笑ったし、ひょっとしたら彼は日本のサミュエル・ベケットなのかもしれないと思うと、ページをめくるのが惜しかった。

 

小説の魅力といってもいろいろだけど、まず語り口がしっくりくること。ここは好みの問題ですね。そのうえで、私はいつも違和感を感じたいと思っている。齟齬とか意外性とか。何これ? みないな感覚。読みながら自明なものが揺らぐ感覚は、小説を読むことの醍醐味のひとつです。

でもこれはけっこうエネルギーがいる行為だ。よく若いうちに乱読しておけと言うけれど、確かに時間と体力があるうち出会っておかないと、おそらく一生手に取らない本はたくさんある。勤め人は忙しくて時間がないし、中年になると頭も固くなってくるので、没頭することが求められる読書が億劫になる。

だいたいベケットの作品がそう。いまさら埴谷雄高やトーマス・ピンチョンに挑戦しろと言われても困るし、「百年の孤独」も「ユリシーズ」も「失われた時を求めて」も、いつかいつかと思いながら結局そのままになっている。永遠の積読(つんどく)という言い方があるらしいけど、買わずに考えているだけだから完読はさらに遠そうだ。

学生のころは、読んでも理解できない本が多かった。誤読もあっただろう。そう言う意味では、ある程度の人生経験を積んだ今こそもう少し豊かな読書体験をできそうだけど、平日は仕事に追われて、休日は休日でダラダラして終わるのだから話にならない。

開高健は青年のころ、本屋の書架を埋め尽くす大量の書物の前で、「全部読破してやる!」と心を燃やしたらしい。私も学生のときは、「あれを読もう」「これもあったか」と本屋で気持が昂ったのを覚えている。それが今では、本屋に立ち寄っても何も買わずに出てくることが多い。情報量の多さに屈してしまう。

そういえば、帰国後わりに頻繁に行った渋谷の本屋は、キューレーションの小さな書店だった。店のオーナーとスタッフが選んだ(ということになっている)本のみが置いてあり、新刊や新書はほとんどない。そんなおせっかいしてくれるなと、以前の私なら反撥を感じただろうけど、正直ありがたく感じた。仕事場が変わったのでもうそこにも行かないけれど。

 

そもそも帰国する前から、本屋は微妙な場所になっていた。

アメリカの本屋は広いし、置いてあるソファーもゆったりしていてとても贅沢な空間だ。でも自分が知っている作家、読める本がめったにないから、楽しいというより途方に暮れることの方が多かった。

読みやすい平明な文章で書く、コーマック・マッカーシーやポール・オースターの新作が出てないかチェックしたら、それで終わり。あとは写真集の書架の前で時間を過ごした。

たまに奇跡的にわかりやすい話題の本があったけれど、それはかなり稀なことだった。評判の現代作家と聞いてチャレンジしても、私の語学力では歯が立たなかった。ジョイス・キャロル・オーツもドン・デリーロも挫折したし、カズオ・イシグロは何の話かさっぱりわからなかった。ジュンパ・ラヒリは短編が読めたので長いのを買ったら、数ペーシしか続かなかった。

ちなみに原文のとっつきやすさは、その作家が海外で売れるためのひとつの条件ではないか。例えば、オースターが地元アメリカより日本やフランスで人気があるのは、彼の文章の読みやすさが助けになっている気がするし、村上春樹があれほど海外で読まれているのも、日本語を学んでいる外国人が原書で挑戦できることがひとつ要因になっている気がする。「ライ麦畑でつかまえて」がロングセラーなのも、世界中で若者が英語のテキストとしてふれ続けるからじゃないか。

 

映画「麗しのサブリナ」に、主人公の執事だったか、物静かな中年男性が脇役で出てくる。彼は与えられた仕事を最低限こなす以外は、屋敷の一室に引きこもってひたすら本を読んでいる。男がその仕事を選び、世捨て人のような生活をしているのは、すべて読書に没頭するため...。確かそういう設定だった。

ストーリーに関係なくちらりと出てくるその場面が、なぜか印象に残っている。

仕事より趣味、趣味を持続してやるために働いている、という人は結構いそうだ。アメリカでも目にしたし、日本にも沢山いるだろう。そしてその趣味が小説を読むことという人は、どれくらいるのだろうか。

 

私の家から一番近い本屋は、ヤマダ電機の中にある。正確には本屋じゃなくて、家電量販店の中にある本の売り場なのだけど、ここがけっこうな数の文庫本を揃えている。

このあいだヘア・ワックスを買ったついでに、立ち寄った。

その日はコンタクトも眼鏡もしていなかったので、顔を書架に思い切り近づけて、あ行からタイトルを目で追っていった。なんとなく気になるものを手にとるのだけど、どれも気乗りがしない。だいたい本がキツキツで収められていて、棚から抜いて戻すのがひと苦労なのだ。

池澤夏樹、いとうせいこう、奥田英郎、江國香織… 特になし。

「ヤマーダデンキ!」とキンキン声で連呼する大音量の宣伝を聞きながら、やっと江戸川乱歩までたどり着いた。彼の作品はもう何十年も読んでいない。

「江戸川乱歩名作選」をひっぱりだすと、真っ黒を基調にした表紙には、血まみれの手袋と、階段の踊場と下でそれぞれ佇む男女が灰色で描かれている。題字はゴシックっぽい金色。

そういえば小学生のころ、「怪人二十面相」シリーズに夢中になったんだった。調子に乗って彼の大人向けの作品にも手を出して、怖くて夜眠れなくなったことを思い出した。

なんだかうれしくなり、か行以降はぜんぶ省略することにして、その一冊を買い求めた。

あれからひと月たつけれど、七つある話のうち、まだ最初の「石榴」しか読んでいない。

 

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いいね

承認欲求を捨てなさい。ブッダはそう説いた。

でもSNSを覗くと、誰も彼もが承認中毒気味に見える。

 

「私、病気かもしれない」

知り合いのカメラマンが、聞き捨てならないことを言う。

「褒めらわないとやっていけないの」

一緒に写真を展示したことのある彼女が、近々個展を開くと言うので、「おめでとう」と伝えるとそんな返事をした。

他人に褒められたいから見せ続ける、そのために撮り続けている…

自虐すぎる自己分析だけど、言いたいことはよく分かった。

 

アウト。イン。アウト。アウト。アウト。アウト。イン。

アメリカで報道写真をやったことがある者なら、誰もが知っているこのサウンド。フォトジャーナリズムのコンテストで、審査中のジャッジたちが放つセリフだ。スクリーンに次々と映し出される自分の作品に、目の前で当落がつくのだから、すごい量のアドレナリンが出る。

田舎の小さな新聞社からスタートする若いカメラマンたちが、少しでも大きなマーケットで働こうと思えば、コンテストで入賞を重ねて名前を売ってゆくしかない。キャリアがかかっているから皆必死だ。

私もかつてこのレースに参加した。

12月に入ると、その年のポートフォリオを作り、何が足りないかを頭に置いて仕事をした。事件の現場に向かいながら、ここでいい写真をゲットできたら、地元のフォトグラファー・オブ・ザ・イヤーを穫れるかもしれないと考えたこともある。ひどい話しだ。

やらせがまずない米国の報道写真の世界で、たまにルールを破りが発覚して大騒ぎになることがあるけれど、それも過当な競争のプレッシャーが原因だと思う。

 

もちろんキャリア・ステップだけが、競争過熱の理由じゃない。

小さな賞でもいったん手にすると、人間欲がでるのだ。

あの高揚感をまた味わいたくなる。「いいね」は癖になる。

 

撮る現場から上がった今は、そんな熱狂からも解放さて、クールに対処できると思っていた。いい加減エゴだって飼いならせる歳なんだし。

でも先日、ある人からプロフィールが欲しいと頼まれたとき、以前のものを手直して提出したのだけれど、「写真賞多数」という箇所を迷ったあげく残した。

やたら賞好きの国で長年働いたのだから、そして、上に書いたような業界の事情があるのだから、受賞はあって当然のこと。ほとんどローカルのものだし。

それなのに削らないのは、承認欲というよりは自己顕示欲か。

病気なのは私の方かもしれない。

 

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