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f8

暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

博士の異常な薄情

「外国人のアナタに、いったい記者が務まるのかね?」 革張りの大きな椅子に深く身を沈めたまま、クレッカリー博士はこちらをギロリと睨みつけた。彼女の黒い肌は机の上のランプの光でオレンジ色に染まっている。 私は驚いて、抗議の言葉を探した。 「そんな…

ダブルテイク

その女性は輝いていた。窓から差し込む朝日をいっぱいに浴びて、目を閉じながら、ラフマニノフのピアノ協奏曲に聞き惚れていた。 夜が明けて間もない渋谷の松濤。出勤前の一杯が飲みたくて開いたばかりの喫茶店に入ると、先客が一人いた。ブースの一画に座っ…

モノの話し

あの人は買い物が好きだった。私は大嫌いだ。 嫌いだから、買おうと決めた品物へ一直線に向かい、お金を払ってそのまま店を出る。それが私の長年の習慣だった。それなのに、最近はもう少し手間ひまをかけるようになってきた。なぜだろう? 経済的な理由? 昔…

すみません、中間報告です

日本に帰国してもうすぐ7ヶ月になる。妻と娘たちにとっては5ヶ月。いろんな意味でゼロからの再スタートだけれど、今のところ誰もへばらずにやっている。子供の、そして女性のタフさと柔軟性に改めて感心している。 帰ってきてまず何に日本を感じたかというと…

断スマの長い一日

おとといヘマをした。携帯を忘れて出かけた。 その日はとくに忙しかったので、家を出てから帰宅するまでの15時間を「ケータイレス」で過ごしたことになる。ここ数年で初めての事態だ。 出勤してすぐ妻にメールで電話がないことを伝え、昼休み前には同僚に会…

デビュー失敗

「North Marine Drive」 そのバーのサインを見たとき、私にはピンとくるものがあった。ベン・ワットが1983年に出した同名のアルバムは、かつて私のお気に入りだった。若さゆえの煌めきと昏さが内包されたクールなフォーク・ロックに、当時15才だった私は揺さ…

嘘つきリサとパパラッチ

アメリカ東南部で最大規模を誇る私立女子大学、メレディス・カレッジ。 リサ・ジェーン・フィリップスは、空軍の制服を着てキャンパスに現れた。左胸に沢山の勲章を着用した30すぎの新入生に、高校を卒業したばかりのクラスメートたちは圧倒された。2002年の…

橋の下のケンカ

日本の夏が長くなってきているという。帰国した5月半ばは過ごしやすかったが、しばらくして半袖を着るようになり、9月いっぱい衣替えをする必要がなかったから、4ヶ月間夏の装いで過ごしたことになる。これは私の覚えている日本の季節とあきらかにズレがある…

なかなかいい瞬間(写真について 3)

カルティエ・ブレッソンが写真集のタイトルに使った Decisive Moment、「決定的瞬間」という言葉は、1952年の出版以来本の中身の写真と共に世界的に知られるようになったが、これは彼が自分でつけたタイトルではなく、もともとあったフランス語のタイトル「…

湘南新宿ライン 2

「人間ってやっぱ動物なんだよね。匂いなの。ホテル行くって言われても、最近行く気がしないんだ。ビジネスマンなんだから、シャツ着ろよって思うし、そう言うんだけど、ぜんぜん。シャンプーしてるって言い張るけど、メリット使ってる時点で終わりみたいな…

孤独な隣人

かつて私は、国境沿いの街に住んでいた。エリーとオンタリオというふたつの湖の間を流れる川の途中に、大量の水が落下するポイントがあり、氷河期にできたというその絶景を見るために世界中から人々が訪れる街だ。ニューイングランド様式の家の一画を借りて…

私はお客様

「タバコを吸わない人で、暴力的じゃない人」 結婚したいからいい人紹介して下さいと知り合いが言ったので、好みを聞いたらこんな返事が返ってきた。才色兼備を地で行くような彼女にしてはずいぶん低い条件だけど、それが本心らしい。 ひとつ目を見極めるの…

キャラハンのつぶやき

シンプルなビートとメロディーの繰り返し。ギターとベース、ドラムに弦楽器が加わるだけのミニマルな音作り。ひたすら無骨なバリトン。 「ペンキが乾くのを見つめるくらい」という言い回しが英語にはあって、つまらないことや退屈な行為の形容に使うが、ビル…

911

あの朝、私はしけたホテルの駐車場に立っていた。前日のソフトボールの試合で擦りむいた膝の傷がヒリヒリと痛んだ。近くにいたカメラマンが、「飛行機がビルに突っ込んだ?」と携帯電話に囁いているのを、何を寝ぼけたこと言っているんだ思いながら聞いてい…

スウィート ホーム

「アメリカ人は一体、何にお金使うの?」 ある人にそう聞かれて、答えに詰まったことがある。衣服でないことは見れば分かる。食でもない。どちらにもこだわる彼女にとって、そのことはすでに自明なのだ。 では、家だろうか。確かに住居には皆できる限りの贅…

巴里のモス

テレビをつけたら、村上龍氏が出ていた。彼がゲストを呼んでお喋りをする番組らしい。私が学生の頃、彼は同じような番組をやっていたから、ひょっとして20年以上続けてきたのだろうか。そうだとしたら、すごいことだ。 当時彼は、ピカピカのスーツに身を包…

おしくらまんじゅう

6月の初旬、サッカー日本代表がワールドカップ出場を決めた翌日、全国で話題を集めた人物が二人いた。試合でPKを決めた本田選手と、渋谷で雑踏警備をリードした「DJポリス」だ。 試合後にスクランブル交差点で乱痴気騒ぎをたくらんでいた若者たちに、マイク…

60分のひとり旅

20年以上海外にいたと言うと、「すごいね」と言ってくれる人がいるが、「長けりゃいいってもんでもないし」と答えると「そりゃそうだ」となる。もうひとつよくある反応が「よく帰って来れたね」で、こっちは少し説明を要するので、くどくどとなり、つい歯…

すきっと冷酒

暑い日が続いてますが、皆さんお元気ですか?「熱中症への対策は充分ですか?」「水分をたくさん補給」していますか?「風疹の予防接種は受けましたか?」 今日私は思い切って外出しました。バスに乗り、車内では「手すりやつり革にしっかりつかまり」、下車…

「さようなら、オレンジ」を読んで

岩城けいというオーストラリア在住の日本人のデビュー作で、今年の太宰治賞に輝いた小説だ。一読者の私にとって賞自体はどうでもいいことだが、ネットで書評を見てこの作品のことを知ったので、そしてその書評は受賞しなければ書かれることはなかったので、…

写真について 2

以前友人から「ウチで簡単デジカメ教室やってよ」と言われても、いい加減な返事をしてはぐらかしていた私だが、彼女は顔が広くて料理が抜群に上手い人だったので、もし一緒に組んで会を催したらけっこうな数の人が集まったかもしれない。引き受けたとしたら…

行き倒れ

男は手足をねじ曲げて倒れていた。突っ伏して、失禁し、まるで映画やドラマに出てくる死体を演じているような体勢で微動だにしなかった。濃紺のスーツの袖から出た右手は黒い鞄をつかんだままで、ちらりと見えた横顔はひどい鉛色をしていた。 JR渋谷駅のハチ…

契約社員

今回の転職がほぼ決まりかけたころ、両親に連絡を入れると、二人は揃って動転した。もう日本には帰ってこないと思っていた息子が、妻子と一緒に、つまり彼らの孫娘二人を連れて帰国するらしい。 数日後、電話をかけてきた父親は、先方からの返事を悠長に待っ…

もらえたよ、免許証

二俣川と聞いて、自動車教習所を思い浮かべるなら、きっとあなたは神奈川県民だ。っていうか、それ意外何も思いつかないよな、などと考えながら二俣川駅の改札口に向かっていると、「教習所はこちら」という巨大な看板が正面に掲げてあった。何もそんな大き…

絞りは標準

このブログのタイトル、f8は、「F8. Be there」というフォトジャーナリストへの箴言からとった。どうしたらいい写真を撮れるのか問う弟子に、マスターがひと言、「F8。その場にいること」と答えたというエピソードは、アメリカでよく耳にした。 F8とはFocal8…

ミックステープ

パーティーで出会った男とミックス・テープの話になって盛り上がったことがある。彼も40才台のロックが好きで、気に入った曲を編集して友人にあげることがやめられないらしい。 いい年して中学生みたいだし、著作権の侵害だし、趣味の押し売りははた迷惑だか…

湘南新宿ライン 1

「このないだ席替えがあったときさ、マッツが私の隣がいいって」 「えー」 「でも、押しすぎてもヤバイから、いま様子見で」 「いくつですか?」 「23。アタシより6つ下だけど、前の女は12上だったって」 「げっ、ウソ」 「ヤベ君もいいんだけどさ、ち…

祖母の短歌

引っ越しの整理をしていると、祖母が書き溜めたメモがたくさん出てきた。短歌を詠むのが趣味だった彼女、浜田としえは、同好会の仲間の作品をコピーした紙の余白に、自分の感想や批評を小さな文字でびっしりと書きこんでは何度も読み返していたらしい。 この…

成田空港から実家までの道中で見かけたもの

空港第2ビルの上に架かるオレンジの夕陽。 乗り継ぎに走るラオス人女性のポニーテール。 無言の入国審査官の青い制服。 「清掃中」のサインにもかかわらず小便をしにトイレに入る男たちの非礼に耐えながら掃除を続ける中年女性の背中。 人気の少ない空港出…

押せば開くドア

タフで優しかったアメリカ ― 。 これじゃ三流映画のキャッチコピーにもならないけど、この国を去るにあたって頭に浮かぶ言葉ではある。ここでは、すべてを自己責任に帰する冷徹さが幅をきかせている一方で、求めれば、信じられないような寛容さにめぐり逢え…

写真について 1

「写真なんて、誰でも撮れる」とは私の父の言葉だが、これには一理も二理もある。シャッターを切れば写るのが写真だから、5歳の子供と写真家を二人並べて目の前の風景を撮らせたら、子供の作品の方がずっと面白かったなんてことは充分にありえる話だ。 昨秋…

さあ、帰ろう

あまり遠くまで行くと、人はやがて家路につくことになる。でも駅に佇むばかりで、列車には乗れない。 「ブラインド・ラブ」by トム・ウェイツ とにかく遠くへ行きたかった。そして、ずっと帰りたくなかった。 大学を終えても就職する気持になれず、バックパ…