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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ベースボールとジャズと憲法と

ケン・バーンズという米国人がいる。ドキュメンタリーの世界の大御所で、彼が好んで使う写真接写のスローモーションは「ケン・バーンズ効果」と呼ばれ業界用語にもなっている。

彼曰く、アメリカには三つの偉大な発明がある。野球、ジャズ、そして合衆国憲法だ。

最初のふたつはうなずける。野球は当然といえば当然だし、ジャズについても異論はない。バーンズ自身ジャズの歴史を俯瞰する作品を手がけて発表している。

でも憲法? 彼のスピーチを聞いたのは90年代だったが、当時の私には今ひとつピンとこなかった。

確かにアメリカにはルールの網の目が張りめぐらされている。自治体の条例があり、州法があり、そして連邦法、つまり合衆国憲法がある。そして事があればすぐ法に基づいて問題解決を計る。

権力集中の排除とか、信教の自由や法の平等保護など合衆国憲法の特徴は物の本に書いてある通りだが、法そのものがいかに人々の暮らしに関わっているかについては、滞在の年数を重ねるうちに私にも少しづつ分かるようになった。

 

写真を撮っていると、ここから先に一歩でも進めば牢屋行きという場面によく出会う。逆に今一歩対象に近づかないと仕事にならないというときもある。報道の自由と他の権利、例えばプライバシーの保護がせめぎあうエリアでの撮影は気を使うし、様々なプレッシャーがある。そんな時いつも私がよりどころにしたのは法律だった。

つまり、自分の行為が憲法に保障されているという事実に寄り添うことで気持ちを奮い立たせる。万が一何かあっても、例えば不当に逮捕されかかったり、誰かが殴りかかられても、法の後ろ盾があるかぎり大丈夫だという確信に背中を押してもらう。(もちろん倫理的に撮るべきかどうかという大事な問いもあるけれど、こちらの方は感覚的に判断できた)

何もこれは特別なことではなく、例えば事故現場なら、その場にいる警察官や見物人もそれぞれの立場から法と照らし合わせて行動しているはずだし、それがデモなら、参加者たちの勇気の源もそこ、つまり言論・集会の自由にあるはずだ。

日本で暮らしていると、法に照らし合わせて自分の言動を決めることはなかなかない。それは多分、人々の行動の規範になっている強固なものがすでに存在しているからだと思う。例えば、常識とか、慣習とか、他人の目とか。

 

恥ずかしながら私は、以上のような素人の雑感を裁判官を相手にしたことがある。東京地裁とノースカロライナ州にあるデゥーク大学のロー・スクールには提携があるらしく、大学近くの郡の裁判所に行くと留学中の日本人裁判官を見かけることがあった。

その日は地元でも注目の裁判の初日だった。ノースカロライナ大学で学生会長を務めていた美人の人気生徒が、彼女の住まいに押し入ったギャング・メンバー二人に拉致され、クレジットカードでお金を下ろさせられた後に路上で射殺されるという衝撃的な事件があり、容疑者の一人の裁判が始まっていた。

休憩中、傍聴に訪れていた若い裁判官と雑談を交わした。アメリカの司法制度についての印象を聞かれたので、私は上記のような話しをした。彼は私の言葉を黙って聞いた。

導入された陪審員制度の評判や、なぜ法廷内カメラを冒頭の2分しか許可しないのかなど、私からも日本の裁判事情について尋たいことがいろいろあったのだが、翌日からは彼は来たり来なかったりで、その後ゆっくり話しをする機会はなかなか得られなかった。

翌週に無期懲役の判決が下された。最終日も彼は姿を見せなかったので、結局質問はできずじまいだった。

 

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