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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

海辺にて

「僕みたいな人間をメンバーにするクラブには入りたくないね」とはウディ・アレンのよく知られたジョーク。いかにもな自虐ネタだけど、それは彼に「ユダヤ人」というクラブのレッテルを常に貼りたがる周りへの皮肉であり、異議申し立てでもある。

アメリカのような多民族国家にいると、自分の出自を意識せざるをえない。

黒人、ヒスパニック、アジア系。あなたが人種的マイノリティーに属しているなら話しは早い。LGBTや障害者でも同じだろう。たちまち「ああ、あのグループの人ね」とカテゴライズされてしまう。

でもそれは悪いことではない。立ち位置がはっきりするので、後は自分自身を研ぎすましてマジョリティ(=社会)を撃つだけだ。

 

遍在する人種ヒエラルキー。ただ、あの国には崇高な理念が掲げられているので、マイノリティーにも拠り所がたくさんある。味方についてくれる法律があり、正論と建前がまかり通っている。行きすぎで妙な逆転を起こすことさえある。

人の出入りの激しいパーティーに出たとき、気づくと白人は私の連れだけになっていたことがあった。彼はストレートだったので、「実はゲイで...」という奥の手もなく、ずいぶん肩身の狭い思いをしていた。

彼にアレンほどのユーモアのセンスがあれば、「どこのクラブにも入れない健康な白人男なんかに生まれるんじゃなかった」と言って肩をすくめたにちがいない。

 

とはいえ、やはりマジョリティに属してい方が生きるのは何十倍も楽だ。

反骨というストーリーを語る権利を与えられても、別段何かを手に入れたわけじゃない。そこから這い上がってゆくのは並大抵のことではない。

では一体何で勝負するのか? 

もちろんそれは人それぞれだが、なかには「言葉」を選ぶ者たちがいる。

 

ラップという音楽を面白いなとは思っても、積極的に聞くことはなかった。黒人の反抗が自分に深く関わりのあることだとは思えなかった。

でも最近「いいな」と感じるいくつかの曲を耳にしたので、調べてみると、どれもアジア系アメリカ人の手によるものだった。ビートから激しさが後退して、甘いメロディーに生真面目な歌詞が乗るヒップホップ。そのスタイルをアジアの人間のセンシビリティと言ったら大雑把すぎるだろうか。

言葉を駆使して

ステージの上で輝けなくなっても

認めてくれるかい?

あちこち飛び回って

あなたのことを歌えなくなっても

好きでいてくれる? 

By the Sea」はGOWEという名でパフォーマンスする若い韓国系アメリカ人の曲だ。フリースタイルでラップの腕を競いながら自己実現してきた自らの経験を歌にしているが、地を這うような雰囲気が伝わってくるし、勝負している者が身にまとう矜持と寂しさが感じられて胸に沁みる。

逆に微笑ましいのが、彼の親がパフォーマンスを観にくるくだりだ。もともとラップをやることに反対していた両親が、歌詞もよく分からないまま客席から声援を送ってくれるシーンが語られる。

 

おそらく彼の両親は移民ではないだろうか。言葉や文化の違いに苦労しながら覚悟を決めて生活し、次世代に本当の「アメリカン・ドリーム」を託すファースト・ジェネレーション。ステージの上の息子が大きく見えたにちがいない。

ひょっとしたら、私も初めから彼の親と同じ場所からこの曲を聞いていたのかもしれない。いつまでたっても英語に苦労している私にはラップのようなパフォーマンスはもちろん、詩ひとつ書くこともできない。だから鋭い言葉を世に斬りつけて格闘している若者に憧憬し、胸のすく気持ちになっている。

ちなみに、この歌の中の「あなた」とは GOWE の生まれ育ったシアトルのことで、彼は海辺からスカイラインを眺めながら街への愛着を吐露している。やはり彼はアメリカ人なのだ。

 

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