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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

撮らない至福

「最後の最後で、写真はどうでもよくなったんだ」

ケビン・リヴォリはテーブルの上に並んだモノクロのプリントの前で静かに言った。続けて「わかるだろ?」と同意を促した。

ニューヨーク州のロチェスターにある新聞社だった。仕事の面接に訪れていた私に、フォト・エディターの彼は自分の大切な作品を見せてくれた。不治の病を患った40代の女性とその家族の闘病のドキュメンタリーだったが、取材を続けているうちに一家との関係が深まり、彼女の葬儀というストーリーのいわばクライマックスにそんな感慨を抱いてしまったという。

 「このへんでもう、カメラを構えるのは止めたの」

リサ・クランツはスクリーンに大写しになったスライドの下でちょっと肩をすくめた。すぐに「いいでしょ?」と開き直った。

フォトジャーナリストが集まるセミナーでの発表会でのこと。テキサス州サンアントニオの新聞社に勤める彼女は、ハリケーン・カトリーナの被害に苦しんでいるコミュニティーを追い続けてきたが、あるとき撮影を中断したことがあるという。外で無邪気に走り回る子供たちを見ているうちに万感の思いがこみ上げてきて、その日一日を彼らと一緒に遊んで過ごしたらしい。

 

写真をとことん追求しているプロが、カメラを置くという行為に意味を見出しているのだから矛盾している。

でも目的に向かってひたすら進んでいる過程で、目的自体が一瞬どうでもよくなるという話はよく耳にする。

大体何をするにも、物事をやりきったとき、あるいは人とのつながりを実感できたときに湧く喜びはひとしおで、案外そんな感慨を求めて誰もが仕事に取り組んでいるのかもしれない。

 

この二人のようなレベルの作品は残せなかったが、私も撮らないという至福を経験したことがある。

サウス・カロライナ州の沖合に浮ぶ島々にガラーと呼ばれる文化がある。

マラリアなどの伝染病がはこびっていたこともあり、建国前から島々で行われた稲作業には、西アフリカの海沿い出身の黒人たちが他の奴隷よりも自由を与えられて従事していた。農園自体は20世紀の初めに廃れたが、長い間橋が架けられなかったことも手伝って、西アフリカとアメリカの入り交じった独特の言語と習慣は今日まで300年生き延びてきた。

近年の島のリゾート化によってその文化の存続が危ぶまれている。この現状を伝える特集記事の企画を私は立てたが、いざ始めると、マスコミの相手をしても自分たちの得にはならないと考えているガラーの人たちは多く、彼らはなかなか心を開いてくれなかった。

しかし足繁く通ううちに出会った一人の島の女性の案内のおかげで、我慢を重ねた取材は後半から俄然うまく行き始めた。私は力を振りしぼって撮影を行った。

2週間以上に及んだ取材の最終日、彼女は私を荷台に乗せたまま軽トラックを島の奥まで走らせた。「ここに島の外の人間を連れて行くのは初めて」という彼女の好意が嬉しかった。

教会から島の中央の空き地へと続く細道の眺めは格別に美しかったが、なぜかそのとき写真を撮ろうという気は起こらず、私は潮風を身体いっぱいに浴びながら只ドライブを満喫した。

 

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参観ブルース

娘の授業参観に行ってきました。彼女の小学校は私が通った小学校の近くにあります。

教室の広さは変わっていないので、生徒数の少なさが目立ちました。50人近くいた私の頃と比べるとほぼ半数。当時は机で埋まっていた教室の後方もぽっかり空いていて、親たちも余裕を持って参観できました。

生徒たちを観察すると、小学校2年生にしては皆しっかりした身体をしているし、着ている洋服がお洒落です。立ち振る舞いもリラックスしていてごく自然にみえました。

充分にスペースをとって置かれた椅子に悠然と腰掛けている小綺麗な子どもたちを見ていると、ある種の豊かさ、そして時代の隔たりを感じずにはいられませんでした。

 

私たちの頃は、参観日と言えばクラス中が静まり返り、逆に誰かのちょっとした発言で爆笑になったりしました。先生も親も含めて皆かなり緊張していたのだと思います。

狭い教室にギュウギュウに詰め込まれて教育を受けた私たちの世代に、ゆとりなど望むべくもなかったのですが、きっかけひとつでクラス全体が爆発するようなエネルギーを孕んでいたことは事実です。例えは悪いのですが、まぶしい何かに向かって皆が電灯の近くの蛾のように寄り集まっているような感じがありました。

では、その求心力のある「何か」とは何だったのか。

比喩ではなく、実際に私は窓の外の風景ばかり眺めているような生徒でしたが、別に夢見がちだったわけではありません。単にボーっとしつつも、校舎の外にあるだろうエキサイティングな世界に常に思いを巡らしていました。そして、退屈な授業を受けるのも部活動に打ち込むのもそこへ出て行くための準備なのだと考えているフシがありました。

 

今の子どもたちに、窓の外はどう見えるのでしょうか。小学校2年生では少し早いでしょうが、高学年にもなれば外の空気を敏感に感じ取っているはずです。衣食住に妙に満たされてしまった世代の目に、万事が不確かな今の世の中はどう写っているのか。実は大したことなさそうだし、期待もできない… 我々大人が回している社会はそんなふうに思われていないでしょうか。

外にいたので私は日本の「失われた20年」を知りませんが、アメリカで国の衰えを垣間見る機会がありました。リーマンショック後しばらく、大学を出ても職のない若者が街の喫茶店にたむろしている時期がありました。屈託がないように見えて、やはり彼らの笑みに力はなかった。予想だにしなかった状況に「時代に裏切られた」では済まされない落胆と苛立ちを抱えている様子でした。

景気がすべてとは到底思えないし、もしろそこばかりを優先してきたことで行き詰まってしまっているのでしょうが、やはり学生という準備期間を終えた10代、20代の者たちに働く場がないという社会というのは相当厳しい。

 

でも下手に先回りしてもダメだという。

「子どもは能力もないし、財産もないし、地位も力もない。彼らが唯一持っているのは、幸福とも不幸ともわからない何ともわからない未来です。そのことを忘れてはいけません」

どうなるかわからない漠然とした将来という、子供が唯一持っている財産を奪ってはいけない、解剖学者の養老孟司はそう説いています。ああすればこうなると考えて合目的に行動させることで、大人は子どもの未来を意識化して食いつくしていると。

分かっているつもりでも、先行きの見えない不安から私もつい世の中にあわせて子どもの将来を考えてしまいます。氏の言う「成り行きという自然に任せる」ことも「行動の理由を意識的に答えなくてもいいことを自由にやらせる」こともなかなかできない。

そういえば先日、散歩中に傍らにいた娘がいきなり全速力で駆け出しました。どうして走ったのか聞くと、「走りたかったから」という返事でした。子どもとはそういうものでしょう。でも、あまりに唐突だったので、歩道の上だったにもかかわらず私はつい「危ないよ」と言ってしまいました。

まずはこの辺りから改めないといけないようです。

 

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ベースボールとジャズと憲法と

ケン・バーンズという米国人がいる。ドキュメンタリーの世界の大御所で、彼が好んで使う写真接写のスローモーションは「ケン・バーンズ効果」と呼ばれ業界用語にもなっている。

彼曰く、アメリカには三つの偉大な発明がある。野球、ジャズ、そして合衆国憲法だ。

最初のふたつはうなずける。野球は当然といえば当然だし、ジャズについても異論はない。バーンズ自身ジャズの歴史を俯瞰する作品を手がけて発表している。

でも憲法? 彼のスピーチを聞いたのは90年代だったが、当時の私には今ひとつピンとこなかった。

確かにアメリカにはルールの網の目が張りめぐらされている。自治体の条例があり、州法があり、そして連邦法、つまり合衆国憲法がある。そして事があればすぐ法に基づいて問題解決を計る。

権力集中の排除とか、信教の自由や法の平等保護など合衆国憲法の特徴は物の本に書いてある通りだが、法そのものがいかに人々の暮らしに関わっているかについては、滞在の年数を重ねるうちに私にも少しづつ分かるようになった。

 

写真を撮っていると、ここから先に一歩でも進めば牢屋行きという場面によく出会う。逆に今一歩対象に近づかないと仕事にならないというときもある。報道の自由と他の権利、例えばプライバシーの保護がせめぎあうエリアでの撮影は気を使うし、様々なプレッシャーがある。そんな時いつも私がよりどころにしたのは法律だった。

つまり、自分の行為が憲法に保障されているという事実に寄り添うことで気持ちを奮い立たせる。万が一何かあっても、例えば不当に逮捕されかかったり、誰かが殴りかかられても、法の後ろ盾があるかぎり大丈夫だという確信に背中を押してもらう。(もちろん倫理的に撮るべきかどうかという大事な問いもあるけれど、こちらの方は感覚的に判断できた)

何もこれは特別なことではなく、例えば事故現場なら、その場にいる警察官や見物人もそれぞれの立場から法と照らし合わせて行動しているはずだし、それがデモなら、参加者たちの勇気の源もそこ、つまり言論・集会の自由にあるはずだ。

日本で暮らしていると、法に照らし合わせて自分の言動を決めることはなかなかない。それは多分、人々の行動の規範になっている強固なものがすでに存在しているからだと思う。例えば、常識とか、慣習とか、他人の目とか。

 

恥ずかしながら私は、以上のような素人の雑感を裁判官を相手にしたことがある。東京地裁とノースカロライナ州にあるデゥーク大学のロー・スクールには提携があるらしく、大学近くの郡の裁判所に行くと留学中の日本人裁判官を見かけることがあった。

その日は地元でも注目の裁判の初日だった。ノースカロライナ大学で学生会長を務めていた美人の人気生徒が、彼女の住まいに押し入ったギャング・メンバー二人に拉致され、クレジットカードでお金を下ろさせられた後に路上で射殺されるという衝撃的な事件があり、容疑者の一人の裁判が始まっていた。

休憩中、傍聴に訪れていた若い裁判官と雑談を交わした。アメリカの司法制度についての印象を聞かれたので、私は上記のような話しをした。彼は私の言葉を黙って聞いた。

導入された陪審員制度の評判や、なぜ法廷内カメラを冒頭の2分しか許可しないのかなど、私からも日本の裁判事情について尋たいことがいろいろあったのだが、翌日からは彼は来たり来なかったりで、その後ゆっくり話しをする機会はなかなか得られなかった。

翌週に無期懲役の判決が下された。最終日も彼は姿を見せなかったので、結局質問はできずじまいだった。

 

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海辺にて

「僕みたいな人間をメンバーにするクラブには入りたくないね」とはウディ・アレンのよく知られたジョーク。いかにもな自虐ネタだけど、それは彼に「ユダヤ人」というクラブのレッテルを常に貼りたがる周りへの皮肉であり、異議申し立てでもある。

アメリカのような多民族国家にいると、自分の出自を意識せざるをえない。

黒人、ヒスパニック、アジア系。あなたが人種的マイノリティーに属しているなら話しは早い。LGBTや障害者でも同じだろう。たちまち「ああ、あのグループの人ね」とカテゴライズされてしまう。

でもそれは悪いことではない。立ち位置がはっきりするので、後は自分自身を研ぎすましてマジョリティ(=社会)を撃つだけだ。

 

遍在する人種ヒエラルキー。ただ、あの国には崇高な理念が掲げられているので、マイノリティーにも拠り所がたくさんある。味方についてくれる法律があり、正論と建前がまかり通っている。行きすぎで妙な逆転を起こすことさえある。

人の出入りの激しいパーティーに出たとき、気づくと白人は私の連れだけになっていたことがあった。彼はストレートだったので、「実はゲイで...」という奥の手もなく、ずいぶん肩身の狭い思いをしていた。

彼にアレンほどのユーモアのセンスがあれば、「どこのクラブにも入れない健康な白人男なんかに生まれるんじゃなかった」と言って肩をすくめたにちがいない。

 

とはいえ、やはりマジョリティに属してい方が生きるのは何十倍も楽だ。

反骨というストーリーを語る権利を与えられても、別段何かを手に入れたわけじゃない。そこから這い上がってゆくのは並大抵のことではない。

では一体何で勝負するのか? 

もちろんそれは人それぞれだが、なかには「言葉」を選ぶ者たちがいる。

 

ラップという音楽を面白いなとは思っても、積極的に聞くことはなかった。黒人の反抗が自分に深く関わりのあることだとは思えなかった。

でも最近「いいな」と感じるいくつかの曲を耳にしたので、調べてみると、どれもアジア系アメリカ人の手によるものだった。ビートから激しさが後退して、甘いメロディーに生真面目な歌詞が乗るヒップホップ。そのスタイルをアジアの人間のセンシビリティと言ったら大雑把すぎるだろうか。

言葉を駆使して

ステージの上で輝けなくなっても

認めてくれるかい?

あちこち飛び回って

あなたのことを歌えなくなっても

好きでいてくれる? 

By the Sea」はGOWEという名でパフォーマンスする若い韓国系アメリカ人の曲だ。フリースタイルでラップの腕を競いながら自己実現してきた自らの経験を歌にしているが、地を這うような雰囲気が伝わってくるし、勝負している者が身にまとう矜持と寂しさが感じられて胸に沁みる。

逆に微笑ましいのが、彼の親がパフォーマンスを観にくるくだりだ。もともとラップをやることに反対していた両親が、歌詞もよく分からないまま客席から声援を送ってくれるシーンが語られる。

 

おそらく彼の両親は移民ではないだろうか。言葉や文化の違いに苦労しながら覚悟を決めて生活し、次世代に本当の「アメリカン・ドリーム」を託すファースト・ジェネレーション。ステージの上の息子が大きく見えたにちがいない。

ひょっとしたら、私も初めから彼の親と同じ場所からこの曲を聞いていたのかもしれない。いつまでたっても英語に苦労している私にはラップのようなパフォーマンスはもちろん、詩ひとつ書くこともできない。だから鋭い言葉を世に斬りつけて格闘している若者に憧憬し、胸のすく気持ちになっている。

ちなみに、この歌の中の「あなた」とは GOWE の生まれ育ったシアトルのことで、彼は海辺からスカイラインを眺めながら街への愛着を吐露している。やはり彼はアメリカ人なのだ。

 

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いるのかどうかわからない

仕事に行き詰まりを感じたその日、私は昼休みを使って職場近くの公園を散策した。先月のことだ。

ベンチでくつろぐ人のなかに、サックスを黙々と吹く青年がいたので、私は自分が高校生の頃見た風景を思い出した。渋谷にはときどきレコードを買いにきたが、その後によくこの公園を訪れたのだ。

ある時、園内の鉄橋の下でサックスの練習している若者を見かけたことがあった。あれは冬で、奏者は女性だった。彼女の険しい横顔がかっこいいと思った。当時観たジム・ジャームッシュの映画「パーマネント・バケーション」の印象が強烈だったので余計にそう感じたのかもしれない。

 

気分転換も済み、仕事場に戻る時間になった。行ったことのない南側から外に出ることにした。

園内に立てられた地図を頼りに進むと、だんだん辺りが薄暗くなってきた。人の気配がない。引き返そうか迷っていると、重なり合う木々の間から人工的なブルーが一瞬のぞいた。近づくと、シートを張り巡らしたホームレスのテントが並んでいた。数十ではすまない数だ。

身構えるようにして小径を歩いた。ついさっき公園の中央で感じた明るさが嘘のような陰鬱さだ。ゆるやかな勾配を越えたところで意外な光景に出くわした。

テントの前に二人組。一人は明らかにここの住人で、向き合って座るもう一人が若い女性。相づちを打つ彼女の横に三脚が立ててあり、その上に小さなデジカメが乗っていた。大学生かもしれないし、駆け出しのジャーナリストかもしれない。いずれにしろ、華奢な身体をまっすぐにして話を一心に聞いている姿が眩しくて、私は自分のダメさ加減を思い知らされたような気持ちになり、そそくさと門を出て公園を後にした。

 

その代々木公園・南門を再訪したのは昨日、つまりデング熱対策で公園が封鎖されて2日目のことだ。

門にはバリケードが張り巡らされていて、制服を着た初老の警備員が立っていた。柔和な対応をしてくれた彼の口調も、話しが進むにつれて歯切れ悪くなった。「テントの…」という私の言葉に「ああ、ホームレスの…」とすぐ反応したのに、「どんな対応してるんですか?」という問いには「いるのかどうかも確認できませんから」と口を濁した。

勝手に住みついている人たちのことはわからないということだろうか。都としてはルール違反を見逃している事実を公に認められないので、表向きは彼らをいないものと見なしているのかもしれない。あるいは駆除を理由に、テントの撤去に動くのだろうか。ちなみに南門付近でもデング熱ウィルスを持った蚊が採集されているという。

 

何を言っても中に入れそうにないので、私は踵を返した。

顔を上げると、右手に新宿の高層ビルが見えている。左手に公共放送のビルの上の巨大なアンテナ。正面には日本でも有数の一等地が広がり、外国大使館や政治家たちの家々が並んでいる。

道すがら公園に沿って歩いたが、塀の向こうの様子はまったく分からなかった。

 

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かわいい子の旅、一人ぼっち

お盆休み前の電車は空いていた。それでも通勤風の乗客は多く、私も仕事に向かう途中だった。

空いている席に腰を下ろして本を読んでいると、誰かが目の前を行ったり来たりする。顔を上げると年の頃7、8才の少年だった。カバンと水筒をたすき掛けにして、どこかに遠出だろうか。何度も通り過ぎるので「誰か探してるの?」と声をかけると、びっくりした様子で「探してます… 」と口ごもりながら行ってしまった。

斜め前に座っている中年女性がじっとこちらを見ている。

本に戻ったが、少年のことが気になる。すると反対から車掌がきたので、迷子の子供がいるので助けてほしいと頼むと快く了解してくれた。数分後、車掌は戻ってきて「人ではなくて、眺めがいい席を探しているそうです」と笑いながら教えてくれた。

しばらくすると、またその少年がやってきて「そこ、座ってもいいですか?」と大きな声で言った。私の隣の窓際の席が空いていた。

席に納まった少年は、なるほど熱心に外の景色を眺めている。もう彼を驚かせたくなかったけれど、他にも席はあるのに隣にきたのだから怖がってはいないだろう、そう考えて「降りる駅はちゃんと分かってる?」と尋ねた。無難な質問だと思ったし、確かめておきたいことだった。「熊谷」が答えで、私たちが乗った駅から二時間近くかかる距離だったが、受け答え方を見るかぎり大丈夫そうだ。

それとなく見ると、体格はわりによく、くしゃくしゃの髪は溌剌とした印象を与えるけれど、水筒の中身をじっとのぞいてから飲んだり、ささやくように独り言をこぼす様子は幼くて、ふてぶてしく座っている大人たちに混じると心細い存在に見える。

降りる前に「気をつけて行きなよ」ともう一度声をかけると、彼は前を向いたまま頷いた。すかさず斜め前の女性が「気をつけなきゃいけないのはお前の方だ」と言わんばかりの目でこちらを睨んだ。

 

この女性の視線にいい気分はしないが、彼女を一概に非難できない。というのは、私は自分の娘たちに、知らない大人に話しかれられても相手にするなと伝えたばかりなのだ。子供に声をかける大人をはなから疑えという姿勢は同じだ。

つい最近も児童への犯罪が大きく報道されたが、この手の事件がある度に世間の親たちは似たような教えを子供に繰り返すにちがいない。私が最初に話しかけたときの少年の反応は、何度も聞かされているアドバイスをそのまま実践しただけなのだろう。

でも、なんか変だ。

帰国後しばらくして、日本では他所の子供にうかつに話しかけられない雰囲気ができあがっていることに気がついた。知り合いに「関わらない方がいいよ」と助言された事もある。一見これは子供を守っているように見えるけれど、実は面倒を引き受けたくない大人たちが子供をほったらかしにしているだけではないか。

私がその少年の年頃だったとき、友達3~4人とバスに乗り合わせたことがあった。どこへ向かっていたかは忘れたが、とにかく楽しくて、最後部を陣取ってはしゃいでいた。すると、前方に座っていたオジさんが立ち上がり後ろまできて「遊園地じゃないんだぞ!」と一喝を入れた。真剣に怒るその形相が怖くて皆でしょげ返ったのを覚えている。

子供には親以外の大人に怒られたり褒められたりして覚えることがある。身につけることがある。

親だって自分の子供を四六時中干渉することはできないから、家の外でそれとなく見ている人たちがいると感じられると心強い。些細なことかもしれないが、そう思えるか思えないかの違いは子育てをする上でも大きい。

 

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