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暮らしてみたアメリカのこと。留守にしていた日本のこと。

ハロー、アゲイン

「何となくスゴそうな国から、何となくバカそうな国になってしまった」

アメリカという国を評してこう表現したのは、確か評論家の内田樹だった。その文章が書かれたのは10数年も前の話だ。

私がその本を手にとったのは3年ほど前のことで、場所はアメリカのノース・カロライナ州にある女子高校だった。そこの教室を借りて毎週土曜日に日本語補習校が開かれており、私はキャンパスの片隅に設けられた書架の前に立っていた。子供を送り届けた後にぶらりと立ち寄れる小さな図書室には手垢のついた文庫本が並んでいたが、そのうちの一冊が内田氏の本だったのだ。

「へえ」というのが私の感想だった。ずいぶんと意地悪な見立てをするな思った。

顔を上げれば窓の外に手入れの行き届いた芝生が見える。レンガ造りの美しい校舎が並び、それを囲む木々から鳥たちのさえずりが聞こえる。キャンパスを一歩出れば、ダウンタウンの方角に州庁関連のビルや美術館が整然と建ち並び、反対側には州立大学の広大な施設が延々と続いていた。

「でもさ、この環境を見てよ」と思わず言いたくなった。

 

アメリカの国力の衰退はわかっていたつもりでも、暮らしているとなかなか実感が湧かなかった。

外に出ないと内情がよくわからないというのは、どこにいても同じかもしれないが、特にあの国にいるとそうなってしまうのかもしれない。

国土が大きいということに加えて、よく言われるように、他国のことを眼中に入れない国民性が理由だろうか。住んでる場所が世界の中心だという錯覚は、どの国に暮らしていると一番顕著に感じるものだろう?

 

ここ数年でもアメリカの権威はどんどん失墜していったように感じる。ニュースを見聞きしていても、ロシアや中国に完全になめられているようにしか見えない。こんな扱いは一昔前には考えられなかった。

そんな風潮の中で、最近ネットで話題になったビデオがあった。

韓国の大学のキャンパスで撮られたというインタビューもので、アメリカ人の印象を海外留学生たちに聞くという趣旨なのだが、その内容が手厳しかった。

「うるさい」「図々しい」「自己主張が過ぎる」「デブ」

恣意的に編集されたとしか思えない、ステレオタイプのオンパレードだった。まるで力を失くしたガキ大将を皆でよってたかって虐めている感じすらある。

可哀想なボス…

でも、これをシェアしていたのは私の友人のアメリカ人だった。彼の反応は「ほぼ当ってるな」で、そこにコメントをつけている彼の友人たちも同じように受け流していた。これぐらいのことで目くじらは立てないのだ。その余裕がいい。

 

帰国から2年半が経ち、自分の中で「アメリカ」は少しづつ遠ざかりつつあったのだが、最近ニューヨークに本社を置く外資系の企業に転職して、職場は東京ながら、期せずしてまたあの国のカルチャーと再会することになった。

別にドラマチックなエピソードがあったわけではない。オリエンテーションらしいものもほぼないまま出社初日から放っておかれたのだ。

仕方がないので周りで仕事している人たちに聞くのだが、皆忙しそうにしているのでわからない事をすべて聞く訳にはいかない。遠慮しつつやっていたら、事の次第を察した近くの(たぶん)日系アメリカ人が「あ、そうそう」という感じで振り向き、「この職場はギャーギャー騒がないとダメなの」と言ったのだ。

そのセリフ、どこかで聞いたことがあると思った。

25年前、留学生としてアメリカの大学に着いた初日だった。枕もシーツもなく、かと言って歩いて行ける距離に店もなかったので学生課に相談すると、車を持っている日本人留学生の電話番号をくれた。図々しいと思ったが思い切って連絡をとり、ルームメイトのインドネシア人と一緒に近くのショッピングモールまで連れて行ってもらった。

修士論文を書くのに4年も費やしたというその女性は、留学を終えて帰国する間際で、いかにも何かをやり遂げたという雰囲気を漂わせていた。入れ替わるようにして日本からやってきた私に何かアドバイスを残そうと思ったのかもしれない。ハンドルを握ったまま彼女は「この国ではね、ギャーギャー言わないと損するのよ」と教えてくれた。

 

ほぼ同じセリフだ。ただし、私の新しい同僚には、気の利いた一言半句がもうひとつ残っていた。

「ここじゃとりあえず泳げると想定して、皆を海に放り込むの」

ヒリヒリとしたあの感覚が蘇る。

やるせないほどの孤独と、限りない可能性。

泳げるかどうか、もう一度やってみよう。

 

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The Things I Carried

アメリカで働いているとき、カメラのバッグに常備している紙きれがふたつあった。

ひとつは抗議の文言。公であるべき集まりから閉めだされそうになったとき、その場できちんと抗議できるように、例文を持ち歩いていた。

「議長 (あるいは裁判長) 殿。この場が公のものあり、報道陣を含めた一般市民に開放すべきものであることは、州法 (あるいは条例) 第X条に保障されています。それに基づき私の傍聴を認めることを主張します」

新聞社がスタッフに配ったもので、他の記者たちもこれを携帯していた。抗議しても埒があかないときは、その場で新聞社の弁護士に連絡しなさいという指示を受けていた。

 

もうひとつはスペイン語の会話例。建築現場や農場のように、ヒスパニック系ばかりで英語が通じない場所を取材するときのために、同僚のカメラマンを真似て携帯するようにしていた。

「 ◯◯紙のカメラマンです。名前を教えてください」

「明日の紙面に載るかもしれません」

「いいえ、お金はかかりません」

 

どちらも使うことはなかった。

ひとつめを使わなかった理由は、そもそも私がローカルの政治や教育(例えば市町議会や教育委員会)を取材する機会が少なかったからだが、担当の記者でも閉め出しをくらうことは滅多になかったはずだ。ただ全くない訳ではないらしく、いざという時、アメリカの記者はこうして法の後ろ盾を使って、いわゆる権力者たちと公の場でやり合わなくてはならない。

ふたつめを使わなかった理由は、単に私が面倒くさがっていたから。

実際に必要なシチュエーションはよくあったが、ヒスパニック系の人たちとのコミュニケーションを私は身振り手振りと英単語の羅列で通した。

 

マーク・コズレックの「グスタボ」という曲を聴くたびに、アメリカの田舎に住むことに伴う孤独と、そこにいた多くのヒスパニック系住人 (そのほとんどが不法滞在のメキシコ人たちだった) のことを思いだす。

もっと具体的に言えば、彼らと自分の距離感、そして、お互いの無関心さについて。

私は彼らのことをほとんど知ろうとしなかった。

 

田舎の一軒家を買った

テレビとボロいソファーも

家を修繕するために

グスタボとその取り巻きを雇った

電ノコとマリアッチがうるさい、むかつく奴ら

でも腕もいいし

やる気があった

遠くから通うより

住みながら働きたいと言うので

合鍵と電子レンジを用意した

 

グスタボは違法の移民

給料を渡すとカジノにストリップ

オレもたまにつき合った

こんな田舎じゃ退屈だろ

薪を割ったり、テレビの前で寝落ちしたり

ストーブの上でタコス作って

カップ麺を食べる

迎えの車も来ないから

街まで歩いてウィンドー・ショッピング

ライフルや弾を物色したりした

でも夜はどこも閉まる

濡れたブーツに、厚着したままのオレ

 

ある夜奴らはタホに行くと言いだして

誘ってきたけど、ふざけるな

疲れているし、金もない

奴らは陽気に出かけていき

帰りに田舎の警官に車を止められた

酔っていて大麻も所持していたグスタボは

その夜に牢屋行き

すぐにメキシコへ強制送還

ティフアナの公衆電話からコレクト・コールで

「金を送ってくれないか?」

越境の運び屋に払う2,500ドル

働きたいし、家族に会いたい

オレは電話を切って「ゴメン」とつぶやいた

電話を切ると、動揺していた

電話を切ると、心苦しかった

電話を切ると、背中が痛かった

奴らの後片付けをしよう

ぶち抜いた壁、はがされた床

痛んだタンス、壊れた引き出し

キッチンの流し台が庭に転がっていて

自分の手を見ると、震えていた

見上げたら、雨漏りしていた

 

この頃はソファーで寝るんだ

未修繕の家の居間で

あの後本物の大工を雇ったのに

奥さんが癌になって、来なくなった

でもオレはここで探しものをしているだけ

心の平穏(ピース)と、石ころひとつ(ピース)を

心の時計の置き場所を

古いギターと優しいロックンロールを

ポーチの揺り椅子に腰掛けて

心配事もなく

なんとかやっている

未だどこにも辿り着いていないけれど

 

家はそのままだけど、大丈夫

傾いだ床を気にするほどうるさくない

トイレのタイルなんてどうでもいい

建築基準法とか、ドアベルも

修繕は終わってないけど構やしない

たまには遊びにきてよ

12月なら雪が見れる

7月なら薔薇

庭師に「グスタボは?」と聞かれた

オレは吹き出し「知るかよ」って答えた

あれから会っていない

髪型決めて、タホへ向かったあの日以来

ガールフレンドに「あのメキシコ人は?」と聞かれた

グスタボのことかい?

また吹きだして「知らない」

ティフアナからの電話が最後

正直言うと、あいつのことはあまり考えない

裏の山にはよく登る

秋にはそよ風を感じて

冬には降り積もる雪を眺める

春は虹を愛で

夏は薔薇の匂いを嗅ぐ

白に、赤に、黄色

 

(拙訳) 

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ふたりの花嫁

気がつくと、目の前で花嫁が歌っていた。

テレビの前で寝落ちしていたのだが、画面の中の女はスポットライトを浴びて熱唱していて、なぜかド派手なウェディングドレスを着ている。浜崎あゆみという歌手らしい。

純白のドレスを身に纏ってロックンロールを歌う... という演出なのだろうか。その歌にどんなメッセージがあるのか、一体どんな効果を狙っているのか、寝ぼけた頭を醒まして歌に聞き入ってもさっぱりわからず、妙な違和感だけが残った。

 

アメリカで出会った、ある若いアーティストを思い出す。

4、5年前、大学のキャンパスで会ったとき、彼女はウェディングドレスを着ていた。挙式当日だったわけではない。ウェディングドレスを普段着として着用するというプロジェクトの真っ最中だったのだ。

日常に非日常を持ち込むという一種のパフォーミング・アートなのだが、晴れ着とは何かという問いでもあり、慣例への反逆でもあり、「純白のドレス」が喚起するイメージへの異議申し立てでもある。

彼女はドレスを一年間着続けることを自分に課していた。

 

外出時、例えばスーパーのレジに並んでいると、訳を知りたくて近寄ってくる者から、頭のおかしい女とみなして敬遠する者まで、反応は色々らしい。カメラマンでもある彼女のボーイフレンドがついて行き、その様子を写真に記録していた。

興味を持つ人(なぜか女性が多いとのこと)にプロジェクトの趣旨を説明すると、面白がる者もいたが、眉をひそめる者も沢山いたという。

私が彼女を見たのは、プロジェクトを始めて数ヶ月しか経っていない時だったが、すでにドレスは汚れが目立ち、いくつかのほころびがあった。それもステイトメントの一部で、ドレスは最終的に写真と一緒に展示する予定だと言っていた。

 

あのプロジェクトは最後まで続いたのだろうか。

なんとなく頓挫したような気がするのは、「周囲の殊の外重い反応が疲れる」と彼女が口にしていたからだ。

因みにこのアーティストも、浜崎あゆみも、自己表現の一部にウェディングドレスを使ったということになるが、ふたつの行為には隔世の感がある。

一方が文字通り「体を張った」パフォーマンスだけに、もう一方は分が悪い。

比べるものでもないかもしれないし、だいたい私は浜崎あゆみという歌手についても、彼女の作品についても何も知らない。

ただ、私が踏んでいるように、あれが「カワイイ」とか「カッコイイ」という理由による単なる演出なのだとしたら、その軽さが妙にむかつく。

 

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Mr. プレジデント!(2)

急な動きをしない。これはアメリカの大統領、副大統領、そして彼らの家族を取材するときの鉄則だ。

同僚のジェフ・ウィルキンソンは、そのことを忘れていたらしい。当時の副大統領夫人、ティッパー・ゴアのインタビューを終えた後、聞き忘れた質問があることに気がついた彼は、歩き去る彼女の背中に「ミス・ゴア!」と声をかけ走りかけた。

次の瞬間、激しい形相の護衛二人に行く手を阻まれた。襟首を掴まれそうな勢いだった。

今しがたインタビューしていた記者に対してこの反応だ。シークレット・サービスのエージェントのテンションの高さは尋常じゃない。

でもこの過剰な警護を世間は容認している節がある。ジェフの場合も、乱暴に取り押さえられなくてラッキーだったというのが同僚たちの見立てだった。

なぜだろう?

 

ケネディ、そしてレーガン。彼らが銃弾に倒れる映像は日本人の私でも何度も繰り返し見ている。アメリカ人ならすぐ思い浮かべられるシーンだろう。加えて、大統領暗殺をモチーフにした膨大な量の小説やTVドラマや映画… 

ひょっとすると、国のリーダーを暴力によって失うという悪夢は、アメリカ人のコレクティブ・メモリーの一部になっているのかもしれない。あるいは潜在的な恐れになっている。そう考えると、大統領が市井の人間と交わる時の異様な興奮も説明がつく。

つまり、熱狂のただ中で、人々は一抹の不安を持っている。何かが起きるかもしれない、目の前の風景が暗転するかもしれないという悲劇の予感が、奇妙な高揚感を生んでいるのではないだろうか。

 

警護する人間は目立つ必要はなく、むしろ群衆に紛れた方が仕事はやりやすいはずなのに、エージェントたちの姿は一目瞭然だ。

でもそこは、過剰な演劇性が伴うアメリカの政治だ。お決まりの格好でテンパっている彼らは、大統領演説というプレミアムな舞台に不可欠な役者でもある。(ちなみにシークレット・サービス=白人男性というイメージが強いかもしれないが、アジア系を含めた有色人種や女性のエージェントもいる。きちんとポリティカリー・コレクトのイメージを打ち出しているあたりにも、見られていることを充分に意識していることがうかがえる)

クリントン、ブッシュ、オバマの3氏を合わせると、大統領の演説を十数回は取材したが、エージェントたちの仕事ぶりは見事だった。素人目に見ても、前回のエントリーでふれた事前チェックを含めて、警護の体勢は完璧だった。

いいアングルを求めて椅子の上に立ったり、所定の位置を出そうになるとエージェントたちの刺すような視線を浴びた。小走りなんてとんでもない。待ち時間に彼らに話しかけたことがあるが、いつも完全に無視された。この国で人に話しかけて無視されるなんてありえないのに。

 

でも一度だけ、彼らのずさんな対応を目の当たりにしたことがある。

ジョージ・ブッシュのサウス・カロライナ州遊説の取材で、空港での到着・出発を担当したことがあった。事情は忘れたが、その日は地元空港の奥にある人目につかない滑走路を使用することになっていた。

厳しい荷物と身体のチェックを受けてから、テレビとスチールのカメラマン5、6人が空港の敷地内に通された。滑走路の脇にすでに設置されてあった、農業用の荷台のようなものに登れという指示を受ける。そこから大統領と大統領夫人を撮影する算段だった。

エア・フォース・ワンが到着して、夫妻が姿を見せた。タラップの下に地元の議員たちが来ていたが、一般人の出迎えはなかったので、二人が遠くを見て手を振ったのはカメラマンのために行った演技だ

夫妻がタラップを降りて、数人の手を握り、黒塗りの車に乗り込んだところでその日の仕事の半分が終わった。後は彼らが戻ってくるところを撮影するだけだ。ただそれまで数時間あったので、我々はいったん空港の外に出た。

 

午後遅く、指定の場所に戻ったときのことだ。

エージェントが先頭のカメラマンの荷物チェックを始めたのだが、朝と同じ顔ぶれということがわかると、いかにも面倒くさいという様子になり、そのまま全員を空港内に招き入れてしまった。

私を含めた残りのカメラマンが、検査を受けずにチェック・ポイントを通ったことになる。つまり、誰かが武器を隠し持っていたとしてもわからなかった。

可能性がゼロという話ではないだろう。報道に携わる者に過激な思想の持ち主がいないとは限らないし、場合によっては記者証そのものが信用できないということもあるはずだ。2度目のチェックが甘いことを見込んで、拳銃や爆弾の持ち込みを図る者がいてもおかしくない。

荷台で一行の到着を待っているあいだ、私は妄想の世界に入ってしまった。

「もし私がピストルを持っていたら、どうなるのだろう?」

荷台の両端に一人づつエージェントが配置されてたが、彼らは飛行機寄りに立っていた。つまり我々カメラマンの動きは視野に入っていない。さらに飛行機の周りに4、5人のエージェントがこちら向きにポジションをとっていたが、距離にして20メートル以上はあった。

カメラマンが突然カメラを武器に持ち替えたら、瞬時に反応できるのだろうか? そんなことを考えているうちに、夫妻が到着した。

タラップをゆっくり登り、登りきったところで振り返る。笑みをたたえながら手を振った瞬間、連続でシャッターを切った。

 

皆が緊張感から解放されるのは、飛行機の離陸を見届けてからだ。

我々カメラマンはオフィスに電話を入れ、同行しなかったエージェントたちは撤退の準備を始めている。

荷台から降りるとき、背後の空港事務所のビルの屋上に人影があることに気がついた。よく見ると、スナイパーが二人、ライフルを手に談笑していた。

私はそこでようやく納得した。

この広いエリアを彼らがどう俯瞰していたのか知る由もないが、カメラマンの一人が不審な動きをしたら、すぐに察知した事だろう。まして、カメラ以外の飛び道具を手にしたとしたら、間髪を入れずに頭を打ち抜いていたに違いない。

 

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Mr. プレジデント!(1)

3人のアメリカ大統領にそれぞれ一度づつ、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいたことがある。言葉を交わしたわけではなく、大勢いた取り巻きの一人だったけれど、どの時も深く印象に残っている。

 

ビル・クリントンは現役中から「ブラック・プレジデント」と呼ばれていた。もちろんオバマが出てくる前の話しだ。アメリカの黒人の圧倒的多数が民主党支持者だが、歴代の民主党大統領と比べて、彼がマイノリティーに対して特に寛大な政策を打ち出していたかといえばそうでもない。

ではなぜ黒人に人気があったのだろう。

おそらく波長が合ったのだ。ノリといってもいいかもしれない。

在任中にサウス・カロライナ州に遊説に来たときも、アレン大学という黒人が通う小さな大学を会場に選んだ。

同僚と場所を分けて取材することになり、私は会場の外を受け持った。夕刻、黒塗りの車の行列がキャンパスに到着した。ガラス越しにちらりと見えた彼の笑顔に、集まった群衆は歓声を上げた。

演説が終わり、一行が帰る時間になった。ふたたび車の行列が我々の前に現れたとき、辺りはすでに暗くなっていた。ダウンタウンとはいえ寂れたエリアにある大学だったので、街灯もまばらだった。

「もう撮る画もないな」と思っていたとき、車が止まり、目の前で男がひとり下車した。大統領だった。

クリントン氏は予定外の行動を起こすことで知られていた。ノリで動くのだ。この場合は「外で待ち続けてくれた支持者たちに挨拶を」という気分に突然なったのだろうか。

慌てて走り回る側近や護衛をよそに、氏は悠々と動いた。伸びてくるたくさんの手を闇の中でいつまでも握り続けた。

 

バラク・オバマを近くで見たのは、行きつけのバーだった。彼が大統領に選ばれる数ヶ月前のことだ。

その日、ノース・カロライナ州で民主党大会が行われていた。写真部の同僚たちは朝から出払っていた。

夕方になり、大会とは関係のない取材を振られた私がオフィスで作業をしていると、ボスが来て近所のバーへ急ぐように指示を出した。オバマ氏が立ち寄るという。

これも予定外の行動だったにちがいない。当時まだ大統領候補者の一人だったが、すでに選挙レースも佳境に入っていたので、スケジュールは分刻みで決められていたはずだ。本当に一杯やりたくなったのだろう。側近が地元の記者に「この辺りにいいバーはないか?」と尋ねていたらしい。

駆けつけると、バーは元々入っていた客に加えて、噂を聞きつけた人たちで溢れ返っていた。

やがて意中の人が現れた。皆騒がずにクールに装っている。でも彼の一挙一動に注目しているのがわかる。

シャツの両袖をたくしあげたオバマ氏がバーテンダーに近づいた。一体何を注文するのだろう!?

「パブスト・ブルーをくれ」 

このチョイスにはその場にいた誰もが唸ったにちがいない。

ヨーロッパのビールを頼んではエリートすぎるイメージがついてしまう。かといって国産の定番、例えばバドワイザーやミラーではダサすぎる。ウィスコンシン州生まれの、古いけれどあまり知られていない(でも一部の若者にカルト的に人気のあった)ビールを慣れた感じで注文したのだから、文句のつけようがない。

でも、これがオバマ氏の本当に好きなビールだったかどうかは疑わしい。おそらく「Obama for President」というイメージを作ってゆくなかで、彼のスタッフが熟考の末選んだ銘柄だったにちがいない。読んでいる本、好きな音楽、座右の銘… 候補者のちょとした嗜好は選挙の中に大きな注目を浴びる。

数ヶ月後、氏は大統領に当選した。その時に分析された勝因のひとつが、若い世代をターゲットにした地道な草の根キャンペーンだったことは記憶に新しい。

 

演説中のジョージ・ブッシュの近くに立つと、いかめしい顔をした護衛が近づいてきて私の真横に立った。威嚇された。

本選までまだまだ時間のある党予備選前だったので、厳しい警備があることが意外だった。そもそもタウンホール・ミィーティングという、カジュアルな雰囲気で有権者と交わるという趣旨の集まりではなかったのか。

そこでやっと彼が元大統領の息子であることに思い当たった。若いころから常に護衛がついて回るような出自なのだ。

その時のスピーチの印象から考えると、彼が共和党の指名を受けて、本選に出馬するとはとても思えなかった。まさか2期も大統領を務めることになるとは…。調子が固かったし、何よりも人前で喋るのが苦痛そうに見えたからだ。

その後キャンペーンの勢いが増すにつれて、氏のスピーチもこなれてくるのだが、途中からプレゼンにちょっとした工夫をし始めた。

自らが立てるスローガンをあしらった巨大なスクリーンを背後に設置するようになったのだ。例えば「Reformist (改革者)」とか、「Compassionate Conservative (思いやりのある保守主義)」とか。すると写真も動画も背景がすっきりするし、スローガンの一部もしくは全体が入りこんで、それっぽい画に仕上がる。

その効果を狙ってカメラマンをステージから遠ざけるようになったと言えば、深読みがすぎるだろうか (遠くから撮ると、バックはおのずと決まってしまう)。でも、その後の選挙活動や大統領就任後の演説を撮影する機会が何度かあったが、指定されるエリアと本人との距離は広がるばかりだった。

この傾向を決定的にしたのが911だった。

あのテロ以降、ブッシュ氏の取材をしたければ前日までに、新聞社の上司がスタッフの名前とソーシャル・セキュリティー・ナンバー (社会保障番号)をホワイトハウスに通達しなければならなくなった。さらに、演説の始まる3、4時間前に集合し、シークレット・サービスと爆薬物探知犬のチェックを受けなくてはならなかった。

半日待ってようやく始まる演説の撮影には、氏が遥か彼方にいるため、普段はめったに使わない500mや600mという特大の望遠レンズが必要だった。ここまで離れると、カメラマンにできることはお決まりの「それっぽい」写真を撮ること以外何もない。

 

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別れの流儀

早朝の渋谷には、平日でも朝帰りの若者がたくさんいる。週末になるとその数はさらに増える。

飲み明かした10代、20代が集団で駅へ向かう光景はなかなかだ。「楽しかったんだろうな」と思わせる者がいる一方で、完全に酔いつぶれていて「大丈夫か?」と余計な心配をさせる者もいる。

彼らは駅の改札付近で解散となるのだが、ハイタッチからお辞儀まで、別れの挨拶も色々ある。

共通しているのはその後だ。

ひとしきり言葉を交わしてからそれぞれの方向に歩き出すのだが、見ていると、かなり高い確率で双方が振り返る。そして最後にもう一度合図を交わす。

その姿は我々大人の姿と重なる。近頃の人付き合いはさっぱりしてきているとはいえ、視界から相手が消えるまで見送り、見送られる様子は今でも駅や街角でよく見かける。

別れの儀式は次世代にも受け継がれているようだ。

 

他の国の人たちはどうだろうか。

私が日本に戻る前、両親の元へアメリカ人の友人が一泊二日で訪ねていった。ふたりは片言の英語で彼を鎌倉へ案内し、自宅で夕食をふるまった。親日家の友人も手土産を持参し、覚えたての日本語を交えてコミュニケーションをとり、楽しい時間をすごした。

翌朝、母が最寄りの駅まで見送ったのだが、別れを告げ改札を通り階段を登るまでの間、彼は一度も振り返らなかったという。そのことに母はとても驚いた。

母国や親族と永遠の決別を経験している移民の末裔たちにとって、別れとはもともと堪え難きものであり、だから敢えてドライに振る舞ってその場を乗り切る… と説明したのは写真家の藤原新也だ。映画『シェーン』のラストシーンを例に挙げて、少年に名前を連呼されても決して振り返らない主人公にアメリカ人の別れの流儀を見て、彼らのタフで孤独な素性を指摘した。

その『シェーン』とは対照的に、我々『寅さん』はしみじみと別れの言葉を交わし、後ろ髪を引かれるようにして去ってゆく。

 

でもたまに、こんな光景にも出会う。

先日スクランブル交差点を渡っていると、若い男女が向こう側に見えた。

次の瞬間、男は両手をいっぱいに広げて女を力強く抱きしめた。ふたりは恋人同士には見えないが、ただの友人同士にも見えない。

彼は身体を離すと、地下道への階段を降り始めた彼女を見送らずに、反転して遠くを仰いだ。点滅している青信号を確認すると、躊躇することなく交差点を渡り始めた。

淋しそうで、それでいて覚悟を決めたような爽やかな横顔とすれ違った。

彼の他人への優しさと、孤独を引き受ける潔さを垣間見たような気がして、私は「かっこいいな」と心動かされていた。

 

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